旅立ちと別れ
世界樹の根や枝が嵐のようにうねり迫る。一枚がテニスラケットほどもある葉は斬首刀のごとく振り下ろされる。折れた小枝は槍の如く大地に刺さる。アリスネルの囚われる枝ですら当夜たちを拒むかのように遠ざかりながら葉を落とす。
「フィルっ。ライナーの援護に入ってくれ!」
当夜が左手の聖銀の剣で降りかかる葉を薙ぎ払いながら、背を預けるフィルネールに指示を出す。現在、当夜たちパーティは先頭に壁役のライナー、その後ろにレムとレーテル、中央に遊撃手役のフィルネール、殿を当夜が務めるという構成だ。無規則に暴れる世界樹にじりじりと迫る一行であったが、ライナーを害しようと車ほどもある太い根が迫っていた。
「大丈夫だっ。それよりどうやってあの枝に飛び込むんだ? 目標はずいぶん上に逃げやがったぞ。それに幹に触れたらやばいんだろう?」
自身に近寄る危機をその大きな盾でいなしたライナーが振り返る。吹き飛んだ土が目くらましのごとく舞う。そのわきを抜けるように細い、と言っても空き缶ほどの太さのある根がレムに迫る。
「ホ、ホンマ、勘弁してーな。う、わ、わ、っと、と。」
小刀ではじきながらレムが隊列からわずかに外れる。これまでならレーテルが手繰り寄せるその小さな体はほんの少しずつ取り返しのつかない距離に引き離されていく。
では、当のお守り役のレーテルは何をしていたのか。彼女は、膠着した、いやいずれは体力を消耗し続ける自分たちが不利になるであろう戦況を打開すべく攻勢に打って出ていた。
「“大気に満ちる物質の濃度を操る者よ、我に応えよ” “風の運び手よ、我が目標とする地まで運び届けよ” 【風のクーリア】。」
蜘蛛型の魔物が持つ強靭であって柔軟な糸を編んだロープとつながった釣り針状の金具が宙を舞う。枝に向かってクリソプレースのようなアップルグリーンの妖精が金具を手に、世界樹の根や枝、葉を掻い潜りながら舞い上がっていく。ついに目的の枝に達すると枝の根元に打ち付けた上に枝をクルクルと回ってロープを巻き付ける。アリスネルとの線は彼女によってようやくつなげられたのだった。彼女の行動無くしてたどり着けるものでは無く、このまま続けていれば全滅は必至であったことを考えれば決してレムから目を離した事を責めることはできまい。
「皆さん、糸に掴まってください。トーヤ様、合図をいただければ飛び出せます。」
4人の手がワイヤーをつかむ中、声のする方に目を向けると視界の隅でレムが街路灯の柱ほどの太さの根に胴を絡まれて宙づりになっていた。
「ひゃあ、どこ触ってんねん。ちょ、ちょぉ、ちょちょぉちょー!」
「レ、レム!?」
ライナーが手を離すよりも先に当夜の姿が消える。転移魔法によってレムを抱える根を切り裂く。落下しながら枝を細分した当夜はレムと共に転移魔法で戻ろうとするがなぜか発動しない。
「うひゃぃ? 助かった~。ん? どないしたんや、トーヤ? 早よ戻らへんと、」
「転移できない。なんで!?」
ふと、当夜の目が足元に向く。世界樹の細い根が当夜の右足に刺さり、世界樹との同化を始めていた。足首まで侵食した根を切り払おうとしたときだった。振り上げた右手に別の根が突き刺さる。その後も次々と体を貫く根は数知れず、だがそれらは痛みを伴わない。
「ト、トーヤ!」
(くっ、僕を取り込むつもりか。———もう、抜けられないか。せめてレムだけでも、)
フィルネールの悲痛な叫びが響く。泣きそうな目で当夜を案じるレムの右肩を残された左手でつかんだ当夜は残されたメンバーの下に送ると安心させるかのように明るく冗談交じりで声を張り上げる。
「レーテル、行け! ライナー! 後は頼む。僕はちょっとアリスのお母さんに文句言ってくる。」
根に持ちあげられた当夜は抵抗できないまま世界樹の幹に運ばれていく。
「何を恰好つけているのですか! トーヤも一緒にっ、」
レムを助けるため当夜が転移したと同時にすでに飛び出していたフィルネールは左腕と顔だけが残された当夜に飛びつく。必死に周りの根を引きはがしにかかるが這い重なる根の方が多い。当夜の左腕もついには隠される。
「駄目だ、フィル! 離れるんだ!」
「絶対に離しません。死んでも離しません! 私はトーヤのことが好きです。このように別れるくらいなら、」
当夜の懇願を拒んだフィルネールの腹部を世界樹の根が無情にも貫く。当夜と異なりフィルネールの顔に苦痛の色が浮かぶ。どうやら世界樹はフィルネールを取り込むつもりは無いようである。
「フィルっ!」
世界樹の幹が近づき、口から溢れ出す血に自身の死期も迫っていることを悟ったフィルネールは決断する。腹部を貫く根を断ち切り、愛剣リアージュをその幹に向けて構える。当夜の顔に一瞬疑問符が浮かぶがすぐにその意味を理解して顔を青ざめる。
(ごめんなさい、アリス。貴女ならきっと受け入れてくれますよね。...私もトーヤのことは諦めますから許してください。)
痛みによるものでは無い涙を宙に舞わせ、悲痛な表情を浮かべたフィルネールの神速の突きが世界樹に向けて放たれる。刹那、フィルネールと当夜の視界に腕を広げてすべてを受け入れるかのような笑顔のアリスネルの幻影が現れる。
『ありがとう。フィルならそうしてくれると思ってた。助けよう、トーヤを。』
両者の想いに気づいた当夜は、2人の命がぶつかり合いの果てに砕けようとする中で自身の無力さに憤りながらもなんとか活路を見出そうとする。
(こんな時に動けないなんて許されるか! どうすれば動ける? 分け身。そうだ、分け身だ。)
薄れゆく意識の中で絞り出したマナでは自らを模したはずのそれはひどく頼りなくて不鮮明な人形となり下がった。それでも何かできるのではないかと意識の新たな器に託す。当夜の体が世界樹の根のゆりかごに完全に閉ざされた時、当夜の意識はマナの濃縮体に切り替わる。フィルネールの命を賭した突撃が世界樹を貫くまで数秒を切っていた。【静止する世界】が発動する。
(か、体が動かない!? 何でだよ! 今度こそ助けるんだ!)
さらに体を動かそうとする当夜の頭に強烈な痛みが走る。閉じられた目に、いやそもそも不完全な人形に目などは無かったが、光が戻る。そこにはありとあらゆるものから広がる残像のようなものが映っていた。フィルネールに真っ先に意識が向かった当夜には、彼女が体三つ先で盾となったアリスネルの封じられた枝を貫き、別の太い枝にその身を貫かれて果てる姿やアリスネルの枝を庇い、躱したもののその先で倒れ伏す姿、その二つの結末の間でのグラデーションのような差異に分けられた無数の残像群、いずれもフィルネールの避けれない死の結末だった。
当夜がその意味を理解するよりも早く、【静止する世界】が終わりを告げ、【遅延する世界】に切り替わる。スローモーションではあるものの確実に死に向かうフィルネールを目で追うことしかできない当夜の頭に少年の中性的な声が響く。
『すべての条件が揃った。』
(【時空の精霊】?)
「フィルを助けたいんだっ。力を貸してくれ!」
聞き覚えのある声に即座にその主を見抜き叫ぶ。
少年は応えない。
直後、少女の声が頭に響く。
『その女性は貴方の幸せに必要な方ですか?』
「もちろんだ!」
当夜は即答する。
「トー、ヤ?」
当夜に振り返るフィルネール。アリスネルの枝という盾の出現に思わず剣を退いた彼女の胸先には別の世界樹の枝が鋭く迫る。
『でしたら私が力になりましょう。』
世界が歪む。視界が戻ると引き続くモノクロの世界は先ほどまでの殺伐とした世界と違いどこか安らぎを感じさせた。少年と少女が当夜の目の前に背を向けて立つ。
「ここは? 君たちは...やっぱり【時空の精霊】だよね。僕はどうしてここに?」
(確か、世界樹にのまれそうに、いや、ここは【時空の精霊】の世界か。)
当夜の呼びかけに2人は応えることは無い。やがて2人のうち少女が振り返ると当夜の後ろを指さす。相変わらず顔はおぼろげで見えない少女に促されて振り返った当夜の目に分かたれたはずのフィルネールの姿が映る。
「トーヤ?」
「フィル? どうして君がここに?」
(まさか、死後の世界とでもいうのか。いや、死んだらそこまでだろ。これが走馬灯ってやつか。だとしたらこの世界は僕の意識が作り出したもの? そう言えば分け身も失敗だったみたいだったからなぁ。)
「ここはどこですか。私は死んだのでしょうか? だとしたらどうして当夜がここに、...わ、私は、ま、守れなかった、のでしょうか?」
当夜の心が映し出したにしてはたどたどしい幻想のフィルネールは怯えた目で当夜を見つめる。
「いや、」
(夢でもなんでも良い。言わなきゃ。)
「僕こそごめん。フィルを守り切れなかったみたいだ。」
当夜の拳が震える。フィルネールの目がそれを捉える。
「良いのです、私のことなど。私こそ、」
(ああ、私は駄目な女。大切な人を守れなかったというのにまた会えてうれしいとも思っている。でも、会えるというなら笑顔のトーヤに会いたかった。)
「———ふふふ。お互いがお互いを守ろうとしていたのになかなか上手くいかないものですね。」
フィルネールはにじみ出る涙を指で救うと弱弱しくほほ笑む。
「本当だね。フィルも、アリスも救えなかった。...何やってんだか、僕。」
(そのうえ、フィルにつらい決断までさせて。本当なら僕がやるべきだったはずなのに。)
俯く当夜にフィルネールがおびえるように近づくと躊躇いながらも抱き寄せる。当夜は拒むこと無く、そっとその背に手を回す。
「私も同じです。結局、アリスを切れませんでした。心の中では決めていたはずなのに...。」
(たとえアリスをこの手にかけて当夜に恨まれても当夜を生かすって。)
フィルネールと抱き合う当夜の肩に涙が伝う。震えた声でフィルネールはつぶやく。当夜がその体を強く抱きしめる。
『君たちにはまだやるべきことがある。』
当夜の背にかけられた少年の声は力強かった。2人の世界に浸っていた当夜を引きもどすのに十分な力があった。
『当夜、君は【時空の精霊】になる。世界樹に課せられた最後の使命が成し遂げられれば巫女たちを拘束する力も和らぐだろう。もちろんアリスネルのそれも同じ。アリスネルは救われる。』
腕を広げた少年は物語の語り部のように揚々と語る。向かいのフィルネールに意見を求めようと視線を戻すも時が止まったように彼女は動かない。
「何を言っているんだ? 【時空の精霊】は君たちだろ。まさか、あの男が欲したように僕をそう変えるのか? あいつの狂気を叶えるために? 君たちもあっち側の存在だったってこと?」
『言っただろう、僕は出来損ないだって。さぁ、時間もない。』
少年は顔に手をかけて奈落の底のような渦めいたお面を取る。エルフ特有の整った顔立ちに紫銀の瞳はアンアメスを思わす。そんな彼が笑顔を浮かべる。
『君を送るために僕はいる。君は送られるためにここに居る。これは決められた運命だよ。』
『貴方を幸せにするために私が居ます。貴方は幸せになるためにここに居ます。これが私の決めた願いです。』
少年の隣に立つ少女も顔に手をかけて不気味なお面を外す。体が瞬く間に大人のそれに代わる。
『さぁ、行っておいで。また会おう。僕の良き理解者よ。』『私の愛するトーヤ。』
「君たちは一体? なっ!?」
(テリス!? どうして君が?)
仮初の姿を完全に脱した女性は当夜が過去を変えてでも救いたい人物であるテリスールその人であった。
「テリス! ま、待ってくれ!」
空間が引き伸ばされるように両者の距離は離れていく。離れていくテリスールは微笑みながら何かを押し出す仕種を見せる。当夜のテリスールに伸ばされた手を誰かの手が握る。
「フィル?」
当夜の手をつかんだのはフィルネールだった。やがて、加速度的にテリスールたちとの距離が離れていく。当夜たちを光すら逃げられない引力の通路が引き込む。彼らに状況を教えること無く。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
『ただいま。ようやくたどり着いたよ。ここまで。』
完全に視界から当夜たちが消えたことを確認した少年とテリスールに道化の声がかかる。彼らと同じく歪みの象徴のようなお面を付けたその人物は口元を隠していたマフラーを取り、顔に手をかけるとそれを外す。その顔は紛れもなく過去に飛び立ったはずの当夜であった。
『おかえり。って言うのも送り出したばかりだから変な気分だよ。
当夜、後のことを、この世界を、姉さんの敵を頼むよ。』
少年がふらつきながら当夜に近づく。当夜は数歩歩み寄ると抱き止める。
『わかってる。』
『ありがとう。さようなら、当夜。』
テリスールが当夜の背後から膝づきながら抱き付くと頬を背中の中央に当てる。
『僕の方こそありがとう。お姉さんとともにゆっくりお休み、キュエル。』
当夜の体に溶け込むように少年の姿が抜けて、当夜の背を抱いていた少女に受け止められる。テリスールで無いその少女はキュエルを抱きしめてほほ笑む。キュエルは安堵したような表情の後に涙を流す。
『会いたかったよ、姉さん...。』
キュエルの体がセピア色の光の粒子に分かれて【時空の精霊】の空間に溶け込んでいく。当夜が顔を上に向けて目を瞑る。
当夜の胸に回された手に力が入る。
『———私もそろそろお別れみたいです。』
『そう、だね。
...ごめん。結局、僕は、こうなる運命にしかたどり着けなかった。』
テリスールの落ち着いた声に当夜の沈んだ声が応える。いつしか当夜の頬を涙が伝って顎先から雫となって零れ落ちる。
『いいえ、これこそ最善の結果です。当夜は私を繋ぎ止めてくれました。おかげできちんと伝えられます。
当夜、私は貴方を愛しています。そのうえで言います。私の分も幸せになってください。貴方が泣いていたら私も泣いちゃいますよ?』
立ち上がったテリスールは当夜の肩を回して向き合うと抱きしめる。
『...ずるいよ、テリスは。』
当夜は息を吐くようにつぶやく。震える手をテリスールの背中に乗せる。
『はい。自覚しています。だから、ずるいついでにお願いです。せっかくお膳立てしてあげたのですからフィルネールさんを大事にしてあげてくださいね。フィルネールさんも当夜をよろしくお願いします。この人は大人びているようで寂しがり屋さんですから。』
テリスールは当夜を一度強く抱きしめると解放する。そして、当夜の背後に向けて声をかける。誰も何もなかった空間に金色の光の粒が集い人の形を成すとフィルネールが現れる。
『———テリスールさん。任せてください。』
『———ありがとう。こんなにも僕を好きになってくれて。』
当夜が目を拭いながら笑顔を浮かべる。
『はい!
最後に、彼にも伝えてあげてください。私は幸せだったって。すでに救われていたって。』
応えるように笑顔を浮かべていたテリスールであったが、感極まったのかその顔のまま涙が頬を伝って流れ続ける。
『伝えるよ、必ず。あいつもその言葉を待っているはずだから。』
伝言を頼まれただけに聞こえるにも関わらず当夜が膝を折って泣き崩れる。
『ふふふ。本当に幸せな人生でした。私のことは忘れて、っ...、』
(あんなにも最後の言葉を告げる練習したのに。はぁ、本当に女々しいなぁ、私。でも、後悔はしたくないし、当夜もきっと本音を望んでいるはず。)
『―――いいえ、違いますね。どうか私のことを忘れないでください。私はいつでも見守っていますから。』
テリスールが当夜の手を取る。その顔には晴れやかで慈愛に満ちた笑顔が浮かんでいる。その手はキュエルの時と同様に霞のように薄れていく。セピア色の粒子と共に。
(さようなら、テリス。僕は忘れないよ。だから、いつだって傍に感じさせてくれるよね?)




