王宮観測室長 クレート・デクルニスの苦悩の始まり
(この見目麗しいご令嬢が、あのエレール様だというのか。)
私、クレート・デクルニスは王国お抱えの観測師である。
27年前、私がまだ16歳で観測室に迎え入れられた日から今日まで日々精進を重ね、ついに第1級観測師になったのは半年前のことだ。デクルニス家はもとより優れた観測師を出する名門貴族の一つではあるが、王国に3人しかいない第1級観測師ともなると過去に例はない。その上、その中でも最上位を意味する室長にまで上り詰めたのである。
そんな第1級観測師であってもエレール様と話す機会などそうは無いのである。正直なところ王族に会うよりも稀有なことである。ゆえに、この事態はまさに異例であって、私が手に汗を握ってしどろもどろに回答をしている様はいたしかたないことなのである。
さらには、この事態の少し前には国の至宝ともなる精霊が顕現してまで祝福を与えた奇蹟が二つも生まれているのだ。普通は数年に一度起こるかどうかと頻度だいうのに。とりあえず部下に確保に走らせたが果たして予算がどれほど下りるのか。安すぎても精霊を軽視したことになるし、高すぎても国家予算を圧迫し過ぎるためにバランスが実に難しい。
遡ること四半鐘(地球の15分前)前のことだ。
私の個室の扉が叩かれた。
「どうぞ。」
金糸が束ねられたかのような長い髪が暗い通路から部屋の中にたなびきながら舞い込む。優雅に足を運びながら一人の女性が私の机の前に立つ。
「あなたがここの責任者で良いのかしら?」
私は女性が声をかけてくれるまでただただその美しさに見惚れて口を開けて間抜け面を晒していた。客人を迎え入れるために立ち上がり、出迎える儀礼をとることすら忘れて。
「ど、ど、どちら様で?」
(ど、どなた様だ? このようなお美しい女性など見たことないぞ。しかし、これほどの容姿ならばすぐ噂になるはずだが...。)
二つの至宝の出現に湧く我が観測室に、これまた至宝ともいえる美女が現れた。エルフの女王とでもいうべきか。だが、私とて国務の一席を預かる身である。他国の王たちや重役の姿くらいは把握している。この女性からもそういった気品を感じるし、佇まいが尋常でないことはわかる。しかし、見覚えが無いのも確かであった。
「エレール・セレナレット・オーシャンです。」
「は?」
何だかとんでもない名前が出た気がした。だが、何かがおかしい。私は確かにその名を冠するお方を幾度か見かけたことがある。そのお方はこの国の一大方針を決めるときや国王の選定など大事には必ず呼ばれる存在だ。
その違和感に気づいた。容姿だ。思わず目を凝らしていた。
「ですから【渡り鳥の拠り所】のエレールです。」
氷の彫刻のような不愛想な表情でこちらを見下していた大英雄と名乗る女性は何かに気づいたように小さく頷く。
「エ、エレール様?」
(この女性がエレール様? 確か大変ご高齢のご婦人と拝見したが。
伝承では確かに他国の王ですら、その美貌を前にしては頼まれ事にはうなずくことしかできないと言われるほどの傾国の美女だったと聞いたこともある。だが、それはおとぎ話になるほど昔のことだ。だとしたら、嘘を言っていることになるが、それは重罪だぞ。
しかし、そんなことは周知の事実であって、わざわざ罪に問われる危険を冒してまで私に会いに来ることもあるまい。それに、もしも本人ならそれを疑う私の方が不敬罪に問われてしまう。いったいどうしたら...)
「そう、ですね。この姿では仕方ありませんか。」
(この姿を知る物はこの世界にはもういませんものね。仲間たちも、仲間たちの子供たちも、その子供たちも。もう、どれほど看取ってきたことか。そして、ライト、貴方も...)
小さなため息。そのすべてを憂いるかのような物寂し気な姿は私には疑われたことを悲しんでいるかのように映った。彼女の深い悲しみなど知る由もないままに。とにかく、その姿は彼女の言葉を信じるべきだと私を動かすに十分な力があった。
(きっとこの方の話は真実だ。それでもただ私に会いに来たわけはあるまい。そうなると問題は何かを頼られた時に彼女を証明するものが必要なことか。)
「聞いているのですか?
ふむ、身分証が必要でしょうね。どうぞ確認してください。」
そういうと、件の女性がギルドの登録証を示してきた。そこには特級パーティ『渡り鳥の拠り所』の名と『エレール・セレナレット・オーシャン』の文字があった。
(やはりご本人様か! それも物語に聞く美女のお姿を拝めるとは。どうする? 私はどうしたらいい!?)
「あの、これはエ、エレール様。今を私が、こっ、このように平和に過ごせるのはあなた様のおかげでございます。えー、あの、本日はお日柄もよく、ではなく、どのようなご用向きでしょうか。」
自分自身、一体何を言っているのか、何を言おうとしているのかわからない。たぶん顔には驚愕、歓喜、羞恥、さまざまな感情が浮かんでは消え浮かんでは消えているのだろう。額から溢れる汗を拭う。学会の発表でも浮かんだことのないような汗が手を濡らす。恥ずかしさに顔は真っ赤になっていることだろう。
だが、こんな間抜けな姿を曝したことも悪いことばかりでは無かった。彼女が笑ったのだ。
(懐かしいなぁ。容姿には自信があるけど、よくこうして惚れられてライトが気分を悪くしていたわね。)
「ふふ。そんなに畏まらないで。すでに観測されているでしょうけど、これからも精霊の顕現が当分続くと思うの。それを見逃してほしいのよ。」
「い、いえ。しかしそれは。いくらエレール様の発言でも...」
(私は何を、)
私は頭をうまく働かせられずに通り一遍の回答をしてしまう。もしも第三者の立場で見ていればそんな愚か者には魔法の二、三発を入れて伸していただろう。だが、その愚か者はこの私なのだ。
一瞬、彼女の目が細まった気がした。それでも彼女の表情は柔らかなままだった。
(これも懐かしいわ。まだ、私が、私たちが認められていなかった頃にはよくあったわ。高官は頭の固い馬鹿ばっかってアトレアが怒っていたよね。結局、貴女は押しの一手で意見通しちゃったよね。私もそうさせてもらうわ。)
「実はね、この現象は、私の、いえライトの縁者を中心に起こっているわ。もし、国が強制接収しようとすれば、私はもちろん次代の英雄を敵に回すことになるから注意しなさいって脅し、いいえ、忠告しに来ただけよ。」
エレールを敵に回すということは必然的に魔王をも凌駕する大英雄ライト・オーシャンを敵に回すということである。それはいかなることよりも優先して避けねばならないことだ。クレートは直立不動で敬礼する。軍人でもないので帯刀していないために剣の柄に手を乗せることはできないが似たようなまねをしていた。
「はっ、はい。申し訳ありませんでした!」
「さあ、あなたが最優先ですべきことを考えなさい。あぁ、それと、これを国王に渡して頂戴。じゃあ、よろしくね。」
エレールはクレートに一通の封書を渡す。裏には赤い蝋で封がされている。そんな風に確認をしている僅かな間に春先の風のように長く漂うこと無く彼女は駆け抜けていく。クレートの背後の窓が大きく開けられて揺れている。
「はっ! え? あ、はい。
———もう行ってしまわれたか。もう少し話してみたかったな。」
(ふう。それにしても何か私の手に負え無いことが起きているのではないか。国王に報告を、いや、まずは回収班を直ちに止めなければっ)
クレートは綺麗に整えられたあごひげを擦る。
「レーテル! 急ぎだ! 入ってこい!」
呼び鈴を鳴らして一人の少女の名を呼ぶ。彼女は常に部屋の前に立たせているわけではないが、魔道具のおかげで大方の事情を理解しておそらく部屋の前で待機していることだろう。案の定、すぐに返事が返ってくる。
「はい。何用でしょうか?」
入ってきたのはフードとマントに身を隠した小柄な女の子。
身にまとうフードは、【風の精霊】の加護を大きく受けた魔道具【風集めのフード】である。【風集めのフード】は、【風の精霊】に条件を指定することで関連する音情報を集めてくれる代物だ。今は、私の声と精霊の顕現に関する情報を指定している。
この小柄な少女こそがレーテルである。彼女はまだ17歳のひよっこであるが、フットワークが良く、気の利く私の一番弟子である。親友の忘れ形見であって、幼少からわが娘のように見てきたこともあり、実の親子のように寄り添ってきた。最近では、精霊研究にのめり込みすぎて婚期を逃さないか心配であるが、逆に誰かがこの娘を貰っていくことを想像したくないという気持ちがせめぎ合っている。
(容姿は良いと思うのだが貰い手がつかないのだよ、なぜだか。
周りににらみを利かせすぎたか。おおっと、それどころではなかった。)
「至急、回収班の回収作業を止めさせよ。監視にとどめるように釘をさせ。至宝保有者への接触は厳禁とする。この準国命の札を見せろ。私は国王にお会いしなければならなくなった。頼んだぞ。」
「はい!お任せを。」
誰よりも信頼する彼女を見送ると、クレートは渡された手紙を懐に忍ばせ、国王のもとを目指して歩を進める。この時の彼はまだ知らない。自身が運ぶその手紙の価値とこれから被る重責を。
香木の香りって落ち着きます。
クレートさんにおすそ分けをしないと




