船旅の終着
抜けるような青空と同期した海原を船が波間を滑るように進んでいく。快晴に次ぐ快晴が続き、当夜たちの航海は順調に進んでいた。
そんな静かな船上にマストの上にある見張り台から緊急の伝令が飛ぶ。
「前方にクラーケン2体、こちらに向かってくるぞっ。」
「野郎ども、敵襲だ。戦闘に備えろっ。今回は厄介だぞ。」
マスト直下の船内へのとおり道とも言える小部屋の前方に設けられた船長室から乗組員らに指示が飛ぶ。クラーケンとの戦闘はソルフ島を出てから都度6回あったのだが、いずれも単体であり今回のように複数というケースは縄張りの強いクラーケンとしては非常に稀なものといえる。それだけに厄介なのだ。
「行くか。次こそはっ。」
「次こそはっ、じゃないの。トーヤはまだ休んでなさい。」
やけに甘えてくるアリスネルが当夜に張り付いて離れようとせず、甘い香りを振りまく状況は乗組員たちの羨望と嫉妬のまなざしを集めた。おかげで羞恥と困惑に襲われた当夜は真っ赤に染まるアリスネルの手を引いてこの客室に潜り込んだのだった。この行為が更なる憶測と噂を生むきっかけとなったことを後に知った当夜は大きく肩を落とすことになった。
そんなこんなで客室に篭もることはや2日。目的地まで残りわずかとなったところで今回の襲撃の一報が入ったわけである。少しでも現況を打破しようと立ち上がった当夜の体を抑え込むようにアリスネルが飛びかかる。今や当夜はベットに押し倒された形だ。
「いやいや、もう傷口も完全に塞がったし、体力だって戻っているんだから大丈夫だよ。」
「せやけど、トーヤの出番あらへんよ。フィルネール様がやる気満々でまた出て行ったからな~。」
レムがベットの上でアリスネルに抱き枕にされる当夜を見て新たなネタの提供に湧き立ちながら更なる話題の提供を期待して当夜のこの空間からの離脱を阻止する。
当夜を困らせている噂の発展の大本がこのレムでもある。彼女はパパラッチすら驚くほど二人のいる空間に紛れ込み、得た(作った)情報を言いふらしているのだ。
「フィルかぁ。本当にどうなってんだよ、二人とも。」
当夜が戻ってからフィルネールはいつにもまして戦闘にその身を曝すようになった。彼女は戦略もリスクもかなぐり捨てた純粋で圧倒的な力のみで敵を抑え込んでいった。その姿は強固でありながらひどく脆弱さを漂わせていた。
(ホンマ、トーヤは聡いんやら疎いんやらわからへんな~。二人とも大変やで。)
「にっぶいなぁ~。まぁ、ウチかて、護られてばかりやから大切な人を護れる側に回りたいんはわかるけど。それは二人かて同じとちゃうんかな。特にアリス姐さんは守られた上に自分のせいで失いかけたんや。ちょっとくらい過保護になってもおかしゅうないっちゅうもんやで。」
レムは両肩をすくめながら、顔だけ上げてこちらを見上げる当夜に溜息を投げかける。
「レムっ。余計なこと言わないでっ。」
アリスネルがむすっと頬を膨らめながらもいじらしげに手を交差して紅く染まっていく。
「わかったよ。わかったからアリス、どいてもらえる?」
「むぅ? 私が離れたらトーヤは戦場に行きそうなんだもん。絶対ヤダ。」
「トーヤはこう言いたいのさ。重いってな。最近、アリスは食欲旺盛だからな。」
これまた含みのある笑みを浮かべたライナーが戸を開けて腕組みをしている。だが、彼もまた当夜にとってプラスに働かない。当夜の周りに数多く埋め込まれた地雷の上にライナーが足を踏み込む。隣に当夜を控えながら。
(あちゃー。)
レムが額に手の甲を当てて天を仰ぐ。
「フフフ。ラ、イ、ナー?」
部屋中に漂う甘い香りが一気に冷め、アリスネルの怪しく光る瞳がライナーを射抜く。
「あ、いや、俺はトーヤの気持ちを代弁しただけであって...、」
たじろぐライナーが目線をアリスネルからその下の当夜に向けると申し訳なさそうに目を伏せるとその怒りの矛先を反らそうとする。
「おい! ライナーっ。
ち、違うからね、アリス。そ、その、ちょっと気恥ずかしいというか、意識しちゃうっていうか。とにかく、人目があるところではまずいっていうかさ。」
慌てたのは当夜である。彼女の視線が当夜を捉えるよりも先に本音を言い募る。
「え、あっ。」
アリスネルも浮ついた気持ちが覚めたのか、自身の取ってきた節操のない行動を思い出してロードクロサイトのような紅桜色に染まっていく。
「お、おい。それよりお前は戦闘中じゃなかったのか?」
アリスネルの紅潮した姿に怒りが蓄積されていると誤解した当夜は無理やり話題を切り替える。
「あ、ああ。それがな、フィルネールが張り切りすぎて瞬殺だ。何だか凄みまでまして船乗りどもが戦々恐々としてたぞ。」
同じく分の悪いライナーもそれに乗る形で逃げ切る姿勢を示す。
二人を怯えさせている問題の当人は自身の恥ずかしい記憶が走馬灯のように走り抜けているのか、どこか遠く、虚空を見つめている。
「ライナー様、それ以上は私への侮辱と捉えますよ。」
アリスネルがそれ以上の追撃を繰り出さない様相と化していることに気づいた二人は胸を撫で下ろす。そんな二人の背後から水の滴る音と共にやや不機嫌そうな声が響く。
「おわっ。おお、フィルネール、お疲れ様だったな。またずいぶんと潮を被ってきたな。」
先ほど襲ってきた一体目のクラーケンを文字通り瞬殺したフィルネールはその勢いのままに海中に潜んだ二体目に突撃したのだった。そのせいで今の彼女は全身海水にまみれてしまっていた。
「ええ、これはトーヤに洗ってもらわないと髪が傷んでしまいます。そうですね、トーヤ?」
フィルネールは自身の濡れて艶めく金の長い髪を掬ってクルクルと巻き上げて当夜の耳下に唇を近づけて色っぽく囁く。
「いや、それくらい自分でできるだろ?」
当夜もまた囁きで返す。もちろんこちらはドキマギしながらである。
「アリスにはやってあげたのに、こんなに頑張った私にはご褒美も無しですか。トーヤはずいぶんアリスにご執心なのですね。」
フィルネールがジト目を向けていじけたように当夜の背中に指を立てる。当夜は鳥肌が立つのを覚えながら答えに窮する。
「いや、あれはアリスが明らかに弱っていたからで、」
「ええ。ですが、私とてずいぶんと心を痛めていたのですよ。」
フィルネールがさらに当夜の背中を強く刺激する。
「それは...。でも、ここ船内だから水浴び場もないし。」
「う、それもそうでしたね。では、アルテフィナ法国の宿屋でお願いしますね。」
どうにか振り切ったと思った矢先、即座にフィルネールに次なる一手を打たれて応える次の一手を打ちあぐねている当夜に次々と声がかかる。
「じゃあ、私もお願い。」
「ウチも~。」
「んじゃ、俺も~。」
「お前ら、全然僕を労わってないじゃないか! もういいから、フィルはさっさと着替えて来なさい。」
当夜が声の主たちを見渡して声を震わす。最後に目に留めたフィルネールの姿に思わず視線を下げる。鎧を外していたフィルネールは濡れた服が肌に吸い付いてボディラインを強調していた。
「はい。でも、私のは冗談でなく約束ですよ。」
フィルネールが珍しく悪戯を含んだ笑みを浮かべながらその体をあてがい、そっと耳元で囁きかける。当夜は苦笑いで答えるほかなかった。
彼らが小さな部屋で騒いでいたころ、甲板ではアルテフィナ法国の港町、ホロスバンの神殿の姿に船乗りたちが湧いていた。




