贖罪
地球で毒を放散した当夜は治療薬によって今度こそ傷を回復したものの、落ち込んだ体力を取り戻すために教会のベットの上で横になっていた。そんな当夜の隣のベットでは横に臥せるアリスネルが当夜を見つめ続けている。あまりに熱い視線に当夜はこちらの世界では眠ることは無いのだが、ひたすらに目を瞑って狸寝入りを貪る。
「ねぇ、トーヤ。」
どうやら、アリスネルは目線で呼びかけていたようだった。伝わらない気持ちを言葉に替えて当夜に呼びかける。
「アリス? どうかしたの? どこか調子悪いの?」
熱い無言のプレッシャーから解放されて当夜はその目を開いてアリスネルに向く。白い血の気の薄い少女の儚い顔が目を射る。見慣れたはずの少女の顔は勝気な雰囲気は鳴りをひそめ、如何にもその命が風前の灯となって脅かされているかのように見えた。当夜は自身を見つめていた彼女が何かに苦しんでいるのではないかと不安になっていた。
「ううん、呼んだだけ。」
アリスネルは嬉しそうにかすれた声を小さくあげる。
「はぁ。驚かさないでくれよ。」
「本当はお願いがあるの。」
当夜の心配そうな表情をクスリと笑ったアリスネルは足を床につけると上半身をゆっくりと起こす。その顔には期待を忍ばせた笑みが浮かんでいる。
「そんな今思いつきましたって顔されても信憑性が薄いぞ。」
当夜はどんな無茶を振られるのやらと小さく溜息をつく。
「わかった? でもね、これはトーヤが帰ってきたら絶対にやらせるって決めていたの。」
そんな当夜にアリスネルは小首を緩やかに傾げる。そのお淑やかな動きと薄幸な雰囲気が醸し出す衰勢した空気に中てられた当夜は言葉でこそ茶化している者の可能な限りの誠意で応える気概となっていた。
「へいへい、あんまり無理は言わないでよ。僕もなんだかんだで病み上がり何だからさ。」
当夜の目が真剣みを帯びてアリスネルを捉える。アリスネルが視線を外して膝の上に置かれた両の手に視線を交互に向ける。恥じらいと衰弱が入り混じる悲運の少女然としたアリスネルはしばらく口を閉ざしていたが、覚悟を決めたように当夜の顔に向き合うと願いを告げる。
「うん。そんなに難しいことじゃないよ。
...髪、洗ってほしいの。」
「なんだそんなことか。くくっ。前にも洗ったことがあったね。」
いつぞやの洗髪の儀式を思い出した当夜はライラたちと巻き起こしたドタバタ劇を思い出して小さく笑う。あの時は主従関係でアリスネルを見ていた気がするが、今では仲間という枠を超えた存在となっている。
「うん。前に洗ってもらったときもすごく気持ちよかったし。今度もお願い。」
「う~ん、しょうがないなぁ。髪だけだよ。」
「それはトーヤの誠意次第。」
アリスネルが悪戯ぽく舌を出す。
「誠心誠意、洗わせていただきます。」
「解ればよろしい。」
当夜は恭しくアリスネルの手を引いて無人の教会の泉部屋へと向かう。
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当夜にとってはわずか3日、アリスネルにとっては長い長い2週間、この間に生まれた失われてしまった何かを埋めるべく二人は二人の時間を過ごす。
「はあぁぁ。やっぱりトーヤってすごいよね。こんなに気持ちいいもの。病みつきになりそう。あ、首のところもよろしく。」
完全に力を抜いて身をゆだねながら注文を追加するアリスネルに苦笑しながらも当夜は嬉々として応えていく。
「はいはい。こんな感じ? もうちょっと弱い方が良い?」
「うん、うん。それで大丈夫。気持ちいぃ。
...すぅ。」
幾度かの注文が終わるとアリスネルの言葉が途絶える。代わりに安らかな呼吸音が当夜の手とアリスネルの髪が擦れる音が響く間に追加される。
「ありゃ、寝ちゃったか。
ごめんね。ずいぶん心配かけたんだね。」
「...そう、だよ。心配したんだから。悲しかったんだから。苦しかったんだから。」
当夜の独り言に返える言葉は無いはずだったが、アリスネルの苦しみに喘いで消え入りそうな声が二人の間に生まれた苦悶の時間の差を浮き彫りにする。
「起きていたの?」
「まだ、起きてるよ。反省ついでにそのまま体も洗ってもらえる?」
アリスネルが彼女にとって本日の目標の中での折り返し地点となるお願いをする。当夜がアリスネルの体を洗う自身の姿とアリスネルのあられもない姿を想像して言葉に詰まる。
「はぁ? いや、それは流石に...。」
「う゛ぅ。こんなに焦らされて、汚されてしまった私をトーヤはきれいにしてくれないの?」
アリスネルが2週間という時間に蝕まれた上着をめくって見せる。露わになった肩には色白の肌に似つかわしい煤けた汚れが張り付いている。それでも彼女からは甘い香りが漂い続けている。
「ちょ、ちょっと待て。ずるいぞっ。」
「だって、事実だもん。」
アリスネルが胸元に集まる当夜の視線の発生源へと自らの目を移すと意地の悪い笑みを浮かべる。あわてて目線を反らす当夜は言葉に詰まりながら、受領の旨を叫ぶ。
「うぐっ。それは...。ふぅ、わかった。わかりましたよ。きれいに洗わせていただきます!」
「えへへ。」
(フフフ。フィル、ごめんね。私が当夜の一番になるんだから。ライラさんに教えてもらったテクニックが役立つときがついに来たわ。あとは確か色っぽく耳元で吐息を吐くのよね。見てなさいよぉ。)
アリスネルは服を脱いで姿勢を正す傍ら、先の洗髪イベントの後にライラから伝授された魔女の悪知恵を思い出していた。自身が身を以て味わった魔性の吐息は思い出すだけでも鳥肌が立つ。これが当夜に炸裂すればアリスネルの虜となることは必須に違いない。
「じゃあ、背中から洗うね。」
当夜がアイテムボックスからボディソープやらスポンジやらを取り出して背中を撫でるように洗い始める。
(う~ん、背中からだとちょっと無理かな。前に来た時でいいのかな?)
アリスネルが背後にいる当夜からは見えないところで唇を艶めかしく舐める。準備は万端だ。もちろん、当夜が前に出てくることなどあり得ないのだが。
(な、何だこれ。アリス、ひょっとして君はほとんど何も食べてないんじゃないか? これって僕を待ち続けたために...。)
当夜はアリスネルの背中ばかりを気にかけていたが、ふと脇腹をみるとあばら骨が深く溝を作っている。そっと手で触れるとその痛々しさがありありとわかる。
「ア、アリス、君って人は...。」
当夜の中に熱い何かが込み上げる。思わず泡立つ背中ごと抱きしめる。
「えっ? なに、何っ?」
「ごめん、ごめんね。」
「ちょっ、ちょっと。どうしちゃったの、トーヤ?」
アリスネルが首元で交差した当夜の腕を驚きと共に掴み立ち上がろうとするが、抑え込まれる。当夜がただただ同じ言葉を繰り返しながらアリスネルを抱きしめる。
「はぁ、しょーがないなぁ。大丈夫、大丈夫だよ。トーヤも言ってたじゃない。」
(ちょっとシナリオと違うけど、この勢いなら行けるっ。)
アリスネルが交差する当夜の手を優しく包む。その手を自らの胸元に運ぶともう片方の手で当夜の首を引き、唇を当夜の耳に添える。アリスネルの決意の目が怯える当夜の目と交差する。吐息を吹きかける直前だった。
きゅぅうううぅぅぅ
「あ、あれ?」
「...アリス? もしかして。」
「ち、違うっ。違うからね!」
彼女の切望する雰囲気が、計画が音を立てて崩れていく。必死に立て直そうとする彼女を再び崩壊の音が響く。
きゅぅうううぅぅぅ
アリスネルの腹の虫が鳴いた。マッサージや洗髪がもたらしたリラックス効果がアリスネルの緊張の糸を完全に断ち切った悲劇であった。
「い、いやーーーー!」
アリスネルが素っ裸で、衰弱した体とは思えない力強さで駆け抜けていった。甲高い悲鳴を残して。




