【悪意の紫甲】迎撃戦 2
アリスネルが再び目を開けた時、それは訪れるはずの痛みが一向に来ず、押し倒されるような形で背中に衝撃を受けた時だった。軽装な鎧が割れ、鮮血が宙を舞い、その血がアリスネルの金糸を赤く染める。彼女を庇って凶刃に倒れたことは確かである。問題はそれは誰なのかである。
「だ、れ?」
彼女の呼びかけに答えること無く、抱き付いたままの何者かは身動き一つしない。アリスネルが目線を動かすと真っ赤に染まった背中が映る。背中のほぼ全面の皮膚がはがれ、筋肉の一部まで裂けている。加えて飛び散った船体の欠片からも彼女を守ったのであろうその背中にはいくつもの鋭い木の破片が突き刺さっている。アリスネルがその正体を確認しようとするが、【悪意の紫甲】の斬撃によって散っていた毒の霧が再び押し寄せる。間違いなくこの者は助からない、それが視界を再び奪われる前にアリスネルの脳裏によぎった憐れみであった。だが、それは冷静な【世界樹の目】としての客観的な視点である。それは抱かれた時の温もりや匂いからすでにその正体に気づき、その行動の意味を悟ってしまったアリスネルの女性としての心が取った認めたくない事実を隠すための防衛機制であった。
そんな彼女の目に再び毒の霧を割って現れる黒い死神の鎌が映る。自身の死が迫る。その時初めて、彼女を庇った者が当夜であり、彼はもはや助からないことを認める。そして、アリスネルは全てをあきらめ、その刃を受け入れるようにそっと目を閉じたのだった。
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時は【悪意の紫甲】によって毒霧が撒かれたその時に遡る。
当夜の目の前に不安に怯えるように蹲るアリスネルが口と鼻をふさいで震えている。少しでも彼女の不安を和らげようと二人のの置かれた状況を掌握するために空間把握を展開する当夜であったが、毒が片っ端からマナを吸収してしまうため周囲がどのような状況かまるで把握できないでいた。
(こいつは厄介だな。下手したら【時空の精霊】の加護魔法すら使えないかもしれない。)
当夜の危惧はすぐに証明されてしまう。突然、毒の霧を裂いて現れた巨大な鋏は明らかにアリスネルにその矛先を向けている。【静止する世界】の発動を願うもまるで応えない。その選択が当夜の選択肢をさらに狭める。当夜がまごつく間にアリスネルに迫る凶刃はもはや彼自身を盾にするか、あきらめるほか無いほどに切羽詰っていた。その時には当夜の頭の中で後先を計算することは無く、心と体がまったく同じくして選んだ答えにただただ従って動いていた。それこそフライムから聞いた彼を庇って命を散らしたシスターの如く。幸いなことに精霊の力が強く影響する【遅延する世界】が発動したことで頭頂部から真っ二つになる事態は避けられた。だが、背中を焼けるような痛みが走る。
(あ、グゥ、ガア゛アーーー!)
あまりに強烈な痛みのせいか声が出ない。
当夜の背中を剥ぎ取った斬撃はそのまま船を深くえぐる。船内では浸水が勢いよく始まる。衝撃で吹き飛ばされる二人に追い打ちをかけるように砕かれた【黒の硬木】の鋭い破片が高速で飛びかかる。尋常ならざる損傷を受けた体は思うように動かず、されるがままに傷んだ背中で受け止めるが、いくつかは庇いきれない隙間を突いて明らかにアリスネルを害しようとする。幸運なことに毒の霧が吹き飛ばされたことで【静止する世界】が発動する。もはやほとんど動かない体を微妙に動かして間隙を突こうとする凶器の通り道をふさぐ。再び動き出す時の中で四肢に感じる僅かな痛みが当夜の意識を繋ぎ止める。アリスネルの体に傷一つないことを確認して当夜の意識が途切れる。
だが、意識を失うことも許さないかのように鋭い警鐘が脳内で早打ちされる。重たい頭を動かすとアリスネルの腕に抱かれていることに気づく。そして、上を見上げるとセピア色に色染まる世界で少女が絶望に囚われながら目を固く閉ざすという居た堪れない光景が当夜の視界に際立って映る。背後には巨大な鋏が彼女の美しい顔をつぶそうと迫っていた。
「ざ、ざぜるがーーー!」
口から血の泡を吐きながら当夜がアリスネルを抱き寄せて伏せる。鮮やかな赤い液体が少女の片頬を濡らす。明らかにマナを失いかけている体に鞭打って意識をオルピスの港で失態を演じる原因となった制御困難な魔法の発動に向ける。二度目の斬撃によって再び振り払われた紫の霧の掃われた空間で体内に残されたマナをかき集めて実体化するほどのマナの球体を放つ。
「喰らえ、【暴食】!」
赤い目をめがけて飛ぶマナの塊は毒の霧を中和しながら【悪意の紫甲】を捉えるとその牙をむく。恰好の餌が目の前に現れた【悪意の紫甲】は顔を持ちあげて捕食体勢に移行する。だが、極上の餌は、突然その凶暴さをむき出しにしてその体に襲い掛かる。濃縮されたマナに引かれるように紫の霧が急速に船を離れていく。その毒を体内に膨大に保有する【悪意の紫甲】もまたその引力に囚われる。
「駄目っ!」
アリスネルがマナをすべて失うような当夜の捨て身の攻勢に気づいた。彼女はその後に訪れる悲劇を予見して悲痛な声で血まみれの当夜に泣きすがる。それでも、当夜に止めるという選択肢は存在しない。例え先の騎士団員のような惨たらしい最後が待ち構えていたとしても。
だが、そんな決意を以てしても、当夜に残されたわずかなマナで作られた【暴食】はその巨体を喰らいつくすにはいささか小さすぎたのは明らかでそれには及ばない。まき散らされた毒とその根源たる尾部を喰らい、その禁忌魔法は役目を終えたかのように消滅する。それはすなわち当夜のマナが底をつき、マインドダウンに陥ったことを示す。
今度は【悪意の紫甲】の攻勢が再開されるかと思いきや、当の魔物は深すぎる被害に迷わず撤退行動に移った。フラフラと去りゆく手負いの魔物に追い打ちをかける者たちはいない。沈みゆく船から脱出することで手一杯だった。次にはさらに対集団戦闘を会得した手の付けられない化け物として現れるだろうとガーランドは眉間にしわを寄せる。そんなガーランドの意中を察したわけではないが、船体を激しく揺らして飛び立つ者があった。
「アアアアアーーーー!」
太陽を切り裂くように銀閃が彗星の如く落ちる。それは涙を舞い散らせながら宝剣を閃かせて突撃するフィルネールであった。宝剣が此度の戦闘により背中にむき出しとなった【悪意の紫甲】の人の体ほどの毒々しい魔核を貫く。巨大な水柱と共に爆発音が沈みかけた船を揺らす。波しぶきがおさまるとそこには断末魔を上げることも許されず巨大な穴を中央に開けて果てた【悪意の紫甲】が体を霧散させ始めていた。




