クラーケン
「わかりました。行きます!」
フィルネールの体が金の尾を引く流星の如く流れる。当夜との距離が残り僅か3mと縮まり彼女の間合いに当夜をとらえるのと同時に、彼女の体に急激な負荷がかかる。
「っ! 何が!?」
フィルネールは地面に剣を突き刺すと急減速と後方への退避を一瞬でこなし、当夜の様子を前傾姿勢で推し量る。だが、先ほどから当夜は一切動こうとしていない。その顔には余裕すらうかがえる。
(ふぅ。どうやらトーヤの思うとおりに動かされたようですね。しかしなぜ?)
「なぜ急に体が重くなったのか、かな?」
「そう、ですね。なぜですか?」
フィルネールが不気味なものを見るかのように当夜をにらむ。
「そんな目をされると傷つくなぁ。まぁ、未知の体験だろうからね。しょうがないかな。ともかく。それはね、フィルの本来の動きに戻っただけだよ。」
「本来の動き?」
フィルネールの表情に疑問の感情が色濃く表れる。
「そうだよ。魔法や精霊の加護による補正が打ち消されたんだ。フィルの場合は【風の精霊】の加護が働いていたんだけど、それを君の間合いに入った瞬間に阻害させて貰ったんだ。
ちなみに、あのまま戦闘になっていれば僕の負けは目に見えていたけどね。今回はフィルが後退したから引き分けってことで。」
「引き分けですか?」
(これまでのトーヤの戦い様から考えれば、あの状況なら十分に勝機はあったでしょうに。)
「不服そうだね。更なる種明かしをすると、あれは僕の周りにマナを漂わせ続けて触れるマナをかたっぱしからかき乱しているだけだからね。あの状況では僕も魔法も精霊の加護も使えないんだ。だから、地力で勝るフィルには絶対勝てないってわけさ。」
(僕の課題は、このフィールドを作り上げた状態でもマナを制御できるようになるのが課題だな。)
「ふふ、なるほど。ですが、そういう情報は無暗に口にしない方が良いですよ。」
どうやら得心が行ったようでその表情が普段のトーンに落ち着き、当夜の心配までできるほどに落ち着きを取り戻している。
「まぁ、そのとおりだけど、相手がフィルだからね。」
「信頼はうれしいですけど、もう誰にも言わないでください。どのみちそんな無茶ができるのはトーヤぐらいですから。以前、トーヤがとてつもない量のマナを濃縮させていましたが、あれも相当な技術です。普通の者にはマナを実体化させることもその動きを見ることもできませんよ。ですから切り札を見せびらかすようなことは慎んでください。」
フィルネールは感情の起伏が小さいことで騎士団では通っている。そんな彼女が異性を前に頬を赤らめて落ち着きなくつま先で地面を叩く様が彼らの目に留まれば、それこそ八つ当たりのツッコミが数多入ることはやむを得ない状況である。そんな自分らしさを隠すためか、早口にまくし立てる。
「戦闘に秀でたフィルにそう言われるとそのとおりなんだろうね。う~ん、アリスならできそうな気もするんだけどな。
でも、まいったなぁ。このままじゃアリスは怒ったままだし。せめて対処法だけでも...。そうじゃん、自堕落な魔法道具屋で買ったアレがあるじゃん。あとであの魔道具の使い方を一緒に確認すればいいか。あれだって同じ原理だし。」
当夜が一人、ごちっているところに血相を変えた見張りの男が駆け寄る。
「おい、あんたたち。船長に伝えてくれ。ちょいと大きく荒れそうだとな。伝え終わったらほかの乗組員にも触れて回れ!」
「え? めっちゃ晴れているけど?」
男の言葉に当夜は真上の空を見渡すが雲一つない快晴だった。それに伴い口から洩れた言葉に浅黒い男は明らかに落胆の表情を浮かべて自ら走り出そうとするが、フィルネールが片腕を伸ばして行く手を遮りその本来の意図を確認する。
「わかりました。手ごわい相手なのですね。すぐに伝えます。貴方は見張りに戻ってください。」
言うが早いかすでにフィルネールは見張りの声の届かない位置まで駆け抜けていく。
「頼んだぜ、騎士様。」
「そうならそうと言えばいいじゃん。」
「馬鹿野郎っ。そんなもん察しろ。」
「隠語ってやつか。でも、ここには隠す必要がある人はいなそうだけど...。癖?
ん、んん? なぁ、アレなに?」
持ち場に戻ろうとする男の遥か先に海面から浮かぶ縄のような物が当夜の視界に入り込む。戻りかけた男を呼び止めてその急速に近づきつつある物体の正体を問う。
「おう、あれが問題の大本、【クラーケン】だ。」
古事記に記載されているスサノオノミコトに討伐されたヤマタノオロチを連想させるような8つの長い首が海面から高く立ち上がっている。だが、よく見ればそれには目や鼻などの顔を構成する要素は見当たらない。あるのは鈍色の人の頭ほどはあろう円形の牙のような突起のついた吸盤が一本の足につき100を超える数でこちらに向けて威圧を放っている。
「でけーな。」
船との間合いが50mを切るとその全容が徐々に見え始める。警戒色のためか全身は赤金色に染まると海面が紫色に濁ったように30m四方にその巨大なシルエットを現す。気づけば当夜の周りにはいかつい見張りが集まり、船長まで目を細めてその動きを注視する。
「右に急速旋回。来るぞっ!」
クラーケンの体が大きく膨らみ、3分の1ほどの体表が海面の上に持ちあがる。船長の指示により船体を大きく傾けながらその進路を大きく変更する。甲板上の船内への入り口ではレムが必死の形相で手すりにしがみついている。当夜も船員と同様に甲板の手すりにしがみつく。甲板の上に乗せられていたいくつもの樽が海中に落下する。
次の瞬間、クラーケンの体が大きく沈み、高速の水の刃が船体の後端をかすめて放たれると、落下した樽を粉砕しながら大海原を横切る。
「総員、射程に入り次第、攻撃を開始しろ! 船体に取りつかれるなよ。」
甲板に並ぶ者たちはいつの間にか用意した大量の弓やボウガンによりその矢をクラーケンめがけて放つ。しかし、そのほとんどが海面に呑み込まれて威力を失し、クラーケンに対して有効打にならない。風の魔法も同様であった。
クラーケンが足を貫く矢を振り払い、海中で大きく膨らむ。先ほどの水の刃が放たれようとしていた。
「右に再度急速旋回。背後に回り込めっ。」
船長の合図により船体が再び大きく傾く。しかし、先ほどと違って攻撃が一向に放たれない。船体の横腹がクラーケンと相対する。
「ちっ、学習してやがる。水刃が来る。全員、衝撃に備えろ。体を伏せて防御しろ!」
狙っていたかのように放たれた攻撃が船底から切り裂くように天に向かって鋭利な水柱を突き立てる。船体を尋常でない衝撃が襲い、金属と金属が高速でぶつかり合うような高音が耳をつんざく。船長が苦虫を噛み潰したかのように顔を歪ませてその痕を睨む。黒い防御壁が真っ二つに裂けている。幸いなことに寸でのところで従来の船体にまでは被害は届いていないようだ。
「態勢を整えろ! 矢をさっさと放て! 取りつかれるぞっ!」
クラーケンがこの機を逃すことはあるはずもなく、隠されていた長い長い触腕を船体に絡み付ける。このまま船体ごと海中に引きずり込む算段なのだろう。
クラーケンが深く潜行しようとした時だった。2本の触腕が勢いよく引き裂かれる。見ればフィルネールの斬撃が空を飛び、アリスネルの雷のごとき鞭が閃き、人の体ほどの太さの触腕を船体から切り離してのけた。
「今度はこちらの番よ。」
アリスネルが追撃とばかりに持っていた紫電の鞭を海中に放り込む。鞭はその姿を矢に変えてクラーケンをめがけて一直線に向かっていく。潜行して逃走に入ったクラーケンの巨体が深海につながる闇に飲まれていく中、紫電の矢は闇空に煌めく一点の流れ星のごとく輝きながら追いすがる。やがて、暗闇に走る無数の紫の筋がクラーケンを捉えたことを物語る。徐々にその紫の光を帯びた物体が浮上してくる。茹でられたイカのようにタンパク質を変性させて真っ白になったその体が海面を押しのけて大きな波を割って露わになる。徐々にその体を霧散させていく姿に乗組員たちが小舟を出して慌てて回収作業に入る。船体の後方が開き海中に向けてフックのついたロープと回収用のスロープが降ろされる。
当夜が回収の様子を眺めているところにアリスネルが鼻息荒く近づいてくる。
「どう? 私の魔法の威力は。あれくらい造作もないんだから。まぁ、トーヤの意味わかんない嫌がらせには手こずらされたけど、本当の私の実力はこうなんだから。」
「大丈夫だよ。アリスの実力は僕が一番知っているよ。でも、本当にすごいや。あんな巨大な敵に立ち向かえる心も、倒してしまう実力も。これからも頼りにしているよ、アリス。」
「え、えへへ~。ま、まぁ、トーヤがそこまで言うなら仕方ないわね。」
アリスネルの耳が赤く染まり、小刻みに揺れている。どうやら彼女の期待する言葉を紡げたようだ。
「それはそうと、さっきの訓練の時だけど、マジックキャンセラーのキャンセラーをちゃんと使っていたのかい?」
「何だっけ、それ?」
アリスネルが小首を傾げながら頭の上に疑問符を浮かべている。まさに皆目見当がつかないといった表情だ。
「はぁ、やっぱり。ほら、フランベルに造ってもらっただろう。」
「あ、あぁ。あれね。【マナの腕輪】でしょ。そんな風に呼ばれてもわかんないよ。」
「ん? そんな名前付いていたんだ。」
「うん。フランがさ、渡してくれる時に名前長いの面倒だからって。でも、貰っておいて何だけど私、あれ嫌いなんだよね。ほら、闇属性がかかっているみたいで。呪いって言うのかな。とにかく不気味なんだよね。」
「う~ん、まぁ、常時身に着けておかなくとも必要な時には使ってくれよ。」
「わかってるよ~。せっかくいい気分だったのに。トーヤの説教のせいで台無しだよ。」
フィルネールは二人のやり取りに安堵の表情を浮かべる。それはアリスネルの不穏な動きに対する警戒への成果を受けたものか、それとも二人きりの秘密を得たということへの喜びによるものかは当人にもわかることは無い。
しばらくの間、船にはクラーケンの解体と船体の修復に活気づく音が響くこととなる。
アリス「そういえば、トーヤってクラーケン戦、何にも役立って無かったわね。」
当夜「いやいや、見張りの人たちに矢の補充して回ったり、マナの雫を魔法使いさんたちに渡して回ったり大活躍だったんだよ。」
アリス「どれも結果に結びつかなかったけどね。」
当夜「...。」




