マジックキャンセル
「あ゛ぁ~、疲れた~。」
「まったくやで。ウチ、もう腹ペコや。」
ライナーとレムが汗だくになりながら船内の後方に設けられた食堂の椅子に腰かけて上半身を机に預ける。
「あの程度で二人とも情けない。トーヤを見習いなさい。」
二人を相手に汗一つ流さないフィルネールは、当夜とアリスネルの訓練を思い出すかのように二人のいる甲板の位置に対応する天井を見上げる。
「いや、あれはおかしいだろ。」
ライナーが二人の戦いぶりを思い出しながら重たい頭を持ちあげて反論する。その頬にはしこたま撃ち込まれたであろう打撃痕が残っていた。
「本当よ。反則だわ。」
アリスネルは如何にも意気消沈した様子で椅子を引くと、溜息と共に着席する。給仕係が4人に酸味の効いたエトリング石を彷彿とさせる黄色いフレッシュジュースを注いだ貝殻で出来たコップを置く。
「おっ。アリス、戻ってきたのか? まぁ、あれじゃお手上げだな。」
ライナーが提供されたジュースに手を付けながら教官の入れ替わった訓練の結果を尋ねる。アリスネルが不服そうに唇を尖らせる。
「まぁ、魔法を完全に封じられたら訓練になんないもん。フィル。後、お願い。」
チョビチョビと口に飲み物を運んでいるかと思いきや、アリスネルはジュースに息を吹き込むことで貝殻を泡立てて口元を隠す。いくつもの泡がアリスネルの肌に触れては次々とはじける。そのうち飽きたのか、フィルネールに教官の変更を申し出て一気に呷るように飲み干す。仄かな甘みの後に飛びかかるピリッとした刺激的な酸味と渋みに僅かに頬をしかめる。
「わかりました。トーヤは甲板ですか?」
「そう。
あー、もう、私がどうしてっ。それに、あのとき...。」
フィルネールの問いに答えると、アリスネルは頭を掻きむしるように両手を動かす。金色の糸が淡い光球の光を鋭く反射させながら舞う。彼女の脳裏に先ほどまでの訓練の記憶が駆け巡る。
先制から中盤まではアリスネルの独壇場だった。アリスネルが詠唱の短い魔法を連発し、当夜がそれをひたすら避けると言うものだった。
最初のうちは大きなダメージとならないように威力・速度ともに制御していたのだが、あまりに容易に避けた上に攻撃を繰り出す当夜に教える側の矜持を保つためについ力を込めてしまう。気づいたときには船を大きく損傷しかねないほどのマナを練っている自分に気づく。だが、すでに詠唱も終わっていることから発動の中止は間に合わないことを悟り、思わず背中に冷や汗を流す。すでにターゲットとなっている当夜に向かって氷の塊が飛翔し始めているはずである。だが、一向にそれは姿を見せない。驚きの表情に変わった自身の顔をさらに驚きが上塗りされる。当夜の姿が一瞬にして目の前に現れる。当夜の剣先がアリスネルを捉えようと銀の煌めきを放ちながら近づいてくる。思考が彼の転移という答えを導き出すよりも先に風魔法による強制退避を試みるがまったく発動することは無い。後方に逃した重心によって尻もちをつく。その顔には驚きと恐れが浮かんでいたことだろう。目の前に剣先が突きつけられていたのだから。その上、当夜は陽の光を受けてその陰に隠されて表情が見えない。いや、そもそも当夜なのかすら一瞬わからなかった。命の危機と判断した彼女の中の【世界樹の目】としての防衛機構がその力を発揮する。彼女の中の理性が当夜の死を予期する。彼女の片目から涙があふれる。当夜が剣をおさめてアリスネルを抱きしめる。アリスネルはその様子を幽体離脱でもしているかのように外から見守った。なぜ、力は発揮されなかったのか、という疑問を抱きながら。恐怖を抱きながら。
甲板の上で考え込む当夜の姿を認めたフィルネールはゆっくりと近づくと静かな声で厳かに問いを投げかける。
「トーヤ、聞きましたよ。魔法を無効化していましたけど、どういうことですか?」
「ん? あぁ、フィルか。ちょっとやり過ぎたかな。」
「答えになっていませんよ。」
「魔法ってさ、マナを核にして自然現象を再現しているんだ。だとしたら、そのマナを霧散させられたらどうなる?」
当夜がフィルネールの問いに問いを以て答える。
「正確には‘精霊の力で’という言葉がつきますけど。そうですね、それは、消えますよね。ですけど、術者の操作下にある限りそんなことは不可能です。」
フィルネールが彼女の知る常識から当夜の種明かしを否定しようとする。彼女も当夜が起こした現象の根幹が彼の語る原理であることは薄々気づいてはいるのだがこの世界の常識が否定しようとする。
「いや、案外簡単だったよ。何せ、魔法の発動には順序がある。マナを体から効果範囲までの展張、術のイメージの定着、術の名を発する。このうち、後者二つの時点では多くの人はマナの制御がおろそかになる。そこをついてかき乱してしまうんだ。」
当夜が胡坐をかくと右手の人差指を掲げながらこの異端の原理を説明し始める。
「まさか、そんなことをやって退けたと? トーヤ、貴方のいうことは言うほど簡単なことではありませんよっ。」
「そうかな。マナは粒子なんだ、それも誰かの専用の物と言う物でもない。だとしたら、他人が他人のマナを利用することだってできるはずさ。以前さ、僕とアリスはその仕組みを利用した道具に出会っているんだ。たぶんこの理論は別の奴が先に考えついているはずだよ。
まぁ、大変なのはマナの位置を掴むことなんだけど、それには自身のマナをソナーとして撃ち出して、その戻り方から推測するんだけどね。」
フィルネールが言葉に詰まり声を上げないことを良いことに次々と魔法の阻害手法を明かしていく。だが、確かにフィルネールが絶句するほどにこの方法は異様だ。そこにはマナの制御を夜な夜なこなしたことでマナに親しんだ当夜ならではの条件がある。
「それにその対策もある。折角、アリスにも教えようと思ったんだけどな。怒って帰っちゃったんだよ。たった2回無効化しただけなのに。」
「2回ですか? でも、アリスは結構な回数魔法の発動に失敗したみたいでしたけど?」
フィルネールはアリスネルが指折り数えていたのを横目で確認していた。
「う~ん。あれは取り乱しただけだと思うけど。しゃーない。アリスに謝ってくるか。」
「ちょっと良いですか? 私にも見せてくれますか?」
フィルネールへの一通りの説明を終えて満足した当夜はアリスネルのいる船内の食堂に足を向ける。そんな当夜をフィルネールは慌てて止める。そこには急に芽吹いた勘が大きく育った気がしたからだ。ここまでに見てきたアリスネルの不可解な行動と当夜の未来に何らかの形で結びついたような気がしたのだ。
「いや、まずはアリスに謝らないと。」
「あんまりアリスばかり贔屓すると私がいじけちゃいますよ。」
フィルネールがいじらしく甘えたような声を出す。思わず当夜が足を止めて振り返ると驚きの表情を浮かべて少し嬉しそうにはにかむ。
「え? フィルでも冗談言うんだね。まぁ、その通りかもね。フィルも知っておいた方が良いだろうし。」
「...冗談ではありませんよ。」
フィルネールが小声で当夜の勘違いを否定するが、船が波をかき分ける音が覆い隠す。
「ごめん、聞き取れなかった。何か言った?」
「いえ。」
(それはともかくアリスには伝えてはいけない気がするのです。)
「始めましょう。とりあえず魔法を放てばいいですか?」
フィルネールが有無を言わせないかのように剣を抜いて床に置くと、鞘を構える。戦闘モードに入った彼女からはすさまじいプレッシャーが当夜を襲う。当夜も一気に戦闘意識に呑み込まれる。二人の間に一瞬張りつめた空気が流れるが、フィルネールが当夜の意識が彼女に向いたことを確認すると威圧を緩める。当夜もまた少し力を抜くと開始の合図を出す。
「あ、うん。いつでもいいよ。」
「では行きます。“大気を焦がす癪炎の化身よ、我に応えよ。其は全てを焦がす火の矢、そのための材として我がマナを捧げます”【ファイアアロー】!
なっ、発動しない? これがそうなのですね。」
フィルネールが発動しようと試みた魔法は火の魔法でも下位に位置する【ファイアアロー】であり、7本の火の矢が相手を追尾する魔法である。彼女が七本の矢をイメージしながらマナを広げ、起句と結句を淀みなく読み上げる。発動する間際、7本の矢はいずれもが細い赤い糸となって消滅する。
「ま、まぁね。」
(あっぶねぇ。フィルのマナを制御する力すごいな。たぶん形状のイメージがすでに詠唱を必要としないレベルだ。僕のマナを割り込ませるに苦労したよ。)
当夜はあれほど雄弁に語った手前失敗するわけにもいかずに、内心大きく冷や汗をかいていた。一方のフィルネールはよほど感心したのか尊敬のまなざしを向けてくる。かつての状況とは反転している現状に当夜は陶酔する。
「それで対処方法とはどうすればいいのですか?」
フィルネールが上目づかいで当夜に催促するように問いかける。その姿は男なら誰でもどんな願い事でも聞いてしまうだろう。
「いくつかあるんだ。一つはマナの制御を常にし続けること。相手のマナを寄せ付けないくらいに制御し続ける。一つは相手に割り込ませる暇を与えないこと。これは単純に物理的に攻撃を繰り出しながら自身は魔法も使うってわけさ。この二者はフィル向きだね。あとは無詠唱だね。こっちはアリス向きだけど。それでも別の方法で抑え込めるんだけどね。フィルも体験してみる?」
「是非とも、と言いたいところですけど、私は無詠唱魔法の習得には至っていないのです。」
「んー。大丈夫。知らず知らずのうちに無詠唱で魔法を発動しているから。いわゆる【精霊の加護】の中の魔法のことさ。それに、僕も甲板上での戦い方の練習したいし、模擬戦形式にしよう。本気で来ていいよ。」
「さすがにそれは...。」
一瞬で彼我の戦力差を計算したフィルネールは躊躇するが、当夜にも負けない自信があった。もちろん勝てるわけではないのだが。




