赤神との戦い(前編)
「随分早いお目覚めね。」
いまだ暗闇に染められた廊下に窓から挿し込む蒼月の光を反射する二つの碧の煌めきがフィルネールを捉える。時は夜明けの1時間ほど前である。当初の別れの朝食の予定時間よりも3時間は早い。
「お見送りは不要ですよ。」
「あらそう。でも、その手紙は許せない。全部私が回収しておくから、きちんとその口でみんなに伝えてよ。」
アリスネルがフィルネールの持つ手紙を指さす。それは男部屋の入り口に差しこむために用意したものだった。
「はぁ。ですが、そうなる可能性は限りなく低いですよ。」
「嫌ならいいわよ。今からみんなを叩き起こすから。」
「わかりましたよ。でも、覚悟が鈍らないうちに発ちます。精神も戦闘用に切り替えなければなりませんので。アリス、皆さんを頼みます。...それと、ありがとう。」
(貴女ならもしもの時は伝えてくれますよね、私の想い。)
「―――馬鹿。」
フィルネールは手紙を胸にしまうと、足音も立てずに宿屋を後にする。
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お通夜のような食事を終えるとフィルネールのいるはずの門とは正反対の門を誰が言いだしたでもないがバラバラに目指す。当夜はやるべき準備を終えてそこに控える馬車を目指す。準備の確認をしたせいで皆より遅れての到着であろうが、誰もが後ろ髪を引かれる思いのはずであるので丁度いいかとゆっくりと歩く。もうじき、双方が別れを喫する鐘の音が響く時間だ。
(皆には悪いけど、僕はフィルを見捨てることなんてできない。皆の出立と同時に抜けさせてもらう。)
馬車にたどり着くと、そこにはなぜか一人だけの気配。御者であるレーテルだけが深いため息を漏らして立ち尽くしていた。
「あれ? レーテルさんだけ? みんなは?」
「ああ! 良かった。誰も来ないんじゃないかと心配していました。」
「まさか!」
「はい。トーヤ様、こちらを。皆さんから別々に預かることになってしまいました。」
レーテルがトーヤに手渡したものはそれぞれがそれぞれに当てた手紙だった。
「あいつら~。散々、僕を叩いといてそれかい! まったくしょうがない連中だ。」
「さぁ、トーヤ様、行きますよ。もとよりライナー様は残られて足止めをするつもりでしたし、これ以上王国の要人を失うわけにはいきません。トーヤ様、」
(あ、このお顔は。王様、どうやら私にはお止めすることは出来なそうです。この方ももとより逃げるつもりは無いようです。)
「ごめんね。もう少しここで待ってて。馬鹿なパーティメンバーを持つとリーダーは苦労させられるよ。」
当夜の顔には愉しそうな笑みが浮かんでいた。
約束の鐘の音が街に鳴り響く。本来ならこの音とともに転移して反対の門に移る予定だったが、出し抜いたつもりがまんまと出し抜かれたこともあって予定が大きく狂ってしまった。即座に空間把握を限界まで広げる。
(アリスとライナーは完全に気配を殺しているな。これはレムか。門の後ろに隠れているか。ターゲットに上がっていなかったし、すぐには殺されないだろう。フィルは、ゴルディロアともう対峙しているのか。って、ライナーも!? 急がないとな。)
当夜の姿が消える。500mほどの間隔で街の通りにちりばめた転移点を頼りに転移を繰り返す。
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「よう、早かったな。トーヤはいねーのか?」
「ええ。私一人です。」
「くくく。まぁ、俺を前にしたら周囲に気を使う力は避けないよな。」
「まさか!」
「そこのにぃちゃん出て来いよ。」
「ちっ、不意打ちも許しちゃくんねーのか。」
「ライナー様!」
「よっ! 朝食に来ねーから迎えに来てやったぜ。さっさと終わらせるぞ。」
「貴方はここに来るべき人ではないでしょう! この国を背負って立つべき人なのですよ!」
「兄貴がいるんだ。あいつらに任せればいいさ。それに、仲間一人守れない奴に国なんか守れるか。あとは将来の嫁に良いところも見せてぇからな。」
「まったく、レムまで。止めてくれると思っていたのですけど。」
「さぁ、おしゃべりはそこまでにしてくれよ。俺はトーヤとも殺り合いたいでね。」
ゴルディロアが大剣を背に担ぐと周囲の空気が一気に重くなる。ゴルディロアの目が鋭く二人をにらみつけると、次の瞬間、目にも止まらない斬撃が繰り出される。全神経をゴルディロアのみに集中していたからこそ二人は反応したが、その一撃でライナーの分厚い大盾は半壊し、それを支えていた右腕はあらぬ方向を向いている。ライナーに庇われる形で後ろに飛びのいたフィルネールは額におびただしいほどの汗を浮かべている。
「ほう、手加減したとはいえ受け止めるとは大したものだ。」
「ちっ!」
ライナーが左腕を突き出す。その先には肉厚の短剣が鈍い輝きを放つ。確かに細い短剣であればいとも容易く砕けていたであろう。だが、その短剣と表現するのが正しいものか疑問を呈する武器はゴルディロアの脇を貫くかに見えた。
「それもまた良い突きだな。」
だが、言葉とは裏腹にその剣はその肉体に僅かに先端が触れただけで止まってしまう。
「化け物め!」
地面に食い込む大剣を支点にゴルディロアの強靭で重厚な肉体が高速旋回する。その勢いを利用した強烈な回し蹴りがライナーを捕らえる。ライナーの体とて決して軽くないのだが、その重さを感じさせないように100mも先の城壁まで吹き飛ばす。粉じんを巻き上げて崩壊音をとどろかせて衝突する。
「ライナー!」
レムが悲痛な声を上げて門から飛び出す。粉じんとがれきが邪魔をして中々愛しき者に近づけない。未だ崩落の恐れのあるにも関わらずレムはそこに飛び込んで視界の無い中で彼を探し続ける。がれきを退ける彼女の小さな手にはいくつもの切り傷が増えていく。
「はあぁあああ!」
ライナーが吹き飛ばされると同時にフィルネールは強烈突きを放つ。完全に体勢を崩しているゴルディロアは大きく目を見開く。ライナーは自身の突きが届くなどとは思っていない。むしろ彼はゴルディロアの攻撃を誘発させたのだ。眼帯に隠されたフィルネールの突きがゴルディロアを貫く。
「むうっ!」
宝剣リアージュが赤い線を宙に描く。
「くっ、くくく。スゲーな。まさか俺が嵌められるとはな。」
ライナーが狙った側とは反対側左の腹部が大きく裂けて大量の血を流している。それは一見致命傷であり、フィルネールは治療薬を使うのではないかとその一挙手一投足を見守る。
「いやいや、俺は治療薬など持っていねーよ。だが、」
ゴルディロアは左目を覆う眼帯を取る。金力色の瞳が鋭く輝く。同時に、彼の全身を赤黒いオーラが包み込み、傷口をふさいでいく。何より、フィルネールですら絶望と死を意識させられるほどの威圧が発せられる。
次にフィルネールが気づいたときには目の前に大剣が迫っていた。だが、その剣先はフィルネールに触れる前に後方に離れる。その理由は次の光景によって答えが見出された。
ゴルディロアの踏み込んだ先に巨大な木の根が出現し、彼の者を30mほど上空まで打ち上げる。宙を舞うゴルディロアを巨大な火球が包み込む。その熱は地表にまで達し、じりじりと地面を焦がす。フィルネールの周りには水の分厚い膜が覆い、その熱を緩衝する。
しばらくして、唐突に両方の魔法が消滅する。
「う゛うぅ、これでも届かないなんて。」
砦の最上部でマナと加護の切れたフィルネールが荒く呼吸を乱しながらつぶやく。
「ふぅー。大した魔法だ。それも俺の攻撃範囲の外からこれほどの精度良く、威力も落とさずにとは恐れ入る。もう一時間続けば危なかったな。だが、前提として俺に気づかれず攻撃する手段がそれしかない時点で戦力外だったな。」
重量感のある着地音と振動を響かせながらゴルディロアが地に立つ。まるでダメージを受けていなかったかのような発言だが、その腕は大きく焼けただれている。いくらかだが禍々しいオーラもまた減少しているようであった。
(ありがとう、アリス。確かに貴女の想いは届きました。今の彼なら私の一撃が通る。)
一瞬でそのことを判断したフィルネールは追撃の突撃を繰り出す。
「ここ一番の突きだな。楽しくなってきやがった!」
フィルネールの突きは確かにこの戦いで一番研ぎ澄まされたものだった。だが、魔人の力を解放したゴルディロアには僅かに届かない。剣は僅かにゴルディロアの肩に浅いかすり傷をつける。
今度は最初の攻防と逆転する。体勢の崩れたフィルネールにゴルディロアが大剣を掲げる。
「え、」
フィルネールは剣を引きもどして前に盾として構えるがまるで意味をなさないだろう。フィルネールが死を覚悟したところだった。目の前に人影が現れる。前方に倒れこむフィルネールにはそれ以上の痛みは襲ってこない。ともすると、彼の者の攻撃を現れた人物は防いだということになる。
「あ、貴方は!?」
「遅かったじゃないか。」
フィルネールの前に現れたのは聖銀の剣でゴルディロアの大剣を苦も無く受け止めている当夜であった。
「止めは刺さないんじゃなかったのかい?」
「つい、熱くなっちまってな。それよりどうやって俺の一撃を受け止めた?」
「さぁてね。」
ゴルディロアはゆっくりと大剣を背負い戻して、当夜を入念に観察する。やがて、鼻を鳴らすと両目を閉じる。一瞬であるが、ゴルディロアを包む禍々しいオーラが消える。連動するように空気は軽くなり、花の香りが舞う平和なひと時が訪れる。
一方、対峙する当夜は目を細めながらゴルディロアを見つめると、両目を閉じたのを確認して、フィルネールに手を差し伸べて引き起こす。
「どうして、ここに?」
「皆と一緒だよ。仲間だからね。」
「貴方たちは馬鹿です。大馬鹿者です...。」
(ですが、―――うれしいです。)
「それは後でお叱りいただくとするよ。それより僕があいつの隙を作る。何とかさっきの一撃を打ち込んでほしい。」
「...、わかりました。お願いします。」
だが、平和な時間はすぐに終わりを告げる。ゴルディロアがその目を開けた瞬間にこの世の終わりかと思うほどの絶望が溢れ出す。その両目は金力色に染まり、全身を覆う赤黒い闇が鎧となって彼の身に纏わりつく。その時、街にいた住民は全員が膝をついて精霊に救いを求めた。
フィルネールの手が当夜の手を強く握る。その手は小刻みに震えていた。当夜はその手を強く握り返す。
それはまさに窮鼠が虎に戦いを挑む様相を呈していた。




