疑惑の霧
「これは?」
「どうされたのですか?」
馬車に戻ったフィルネールとレーテルが目にしたものは仲良く肩を預けあう二組の姿であった。
「ふふふ。微笑ましい光景ですね。ここの置かれた状況が悪くなければ、なお良かったのですが。
―――フィルネール様?」
微笑むレーテルとは対照的にその顔を曇らせるフィルネールはホロをあげて換気を始める。
「何者かが【忘却の霧】を使った痕跡があります。みなさん、目を覚ましてください!」
「んん?」
「ふぁあ。」
「うん?」
「あれ?」
「大丈夫ですか?」
「すまん。寝ていたようだ。何かあったのか?」
フィルネールの問いに真っ先に答えたのはライナーであった。彼は怪我による多量の出血や完全に休まることのない環境での療養、またその最中でも見張りを怠らなかったことから街の姿を捉えたときに緊張の糸が途切れて眠りについてしまった。もちろん、フィルネールもその様子は確認していた。
ともあれ、全員の返事を聞き、ひとまず安堵したフィルネールであったが全員の様子を一頻り確認する。
「大丈夫かいわれても何のことやわからへんけど。ウチは大丈夫やで、たぶん。」
「う、うん。私も特に。何かあったの?」
「僕も特には...。」
ライナー以外の者も特段の意識障害は認められない。
「【忘却の霧】が使われたようです。」
(おかしいですね。【忘却の霧】は暗殺か赤子をあやすときに使われる魔法です。このメンバーで使われるとなると前者と見るべきですが誰にも危害が及んでいないとなるといったい何が目的で...。【忘却の霧】はエルフや【水の精霊】の加護を受ける者が得意とする魔法、あっ、アリスがトーヤに使ったとしたら。はぁ、人騒がせな。)
「失礼しました。どうやら私の勘違いだったようです。」
「ふむ?」
ライナーが怪訝な顔を浮かべてフィルネールを注視する。その表情にはあとで詳細を伝えるように書いてあった。
「そんなことよりも陸路で進むのは困難になりました。」
「どういうことだ?」
突然の話にライナーは一度大人組で相談したほうがよいのではと思案したが、この状況では手遅れと判断して先を促す。
「それは私から。グエンダール帝国でクーデターが発生した模様で、帝国内は動乱期に入りました。アルテフィナ法国の介入もなされているようですが、疫病も流行していているようです。我が国からの偵察部隊にも尋常ならざる被害が生じているようです。皆様を護送する私の立場から進言させていただきたいのですが、海を渡るべきかと。」
フィルネールに代わり、レーテルがこの砦街の、彼らのおかれている状況を背景を合わせて説明する。
「クーデターか。我が国にも難民が押し寄せるな。王宮に急ぎ戻り知らせるべきだろう。」
「いえ、それには及びません。すでに早馬を走らせているようです。それに奇妙なことに難民をアルテフィナ法国の神官を名乗る者が連れ去ったそうです。それ以来難民がこの国に逃げ込んだ形跡は認められないようです。その点も本当に帝国が崩壊に瀕しているのか疑わしいと騎士団は警戒しているようです。」
レーテルがライナーの不安を払拭するように言葉を付け足す。
「なるほど。俺の懸念事項は解消されたな。だとすれば俺は海路を進むべきだと思う。トーヤはどう見る?」
それまで一切話に入り込まないパーティのリーダーを心配してライナーが当夜に確認をする。
「ん、ああ。何の話だっけ?」
どうにも歯切れの悪い返事と何か別のことに思考を回すような態度を見せる当夜にライナーは呆れながら問いを補足する。
「おいおい、しっかりしてくれよ。このまま陸路を進むより海路を進んだほうがいいんじゃないかって話だろう?」
「そうだね。で、どうして海路なんだっけ?」
それを受けてなお、当夜の心はここにあらずといった反応を見せる。
「お前なー。」
普段から気の短くはないライナーでさえ疲れと相まって苛立ちを覚え始める。その様子にフィルネールが助けの手を差し伸べる。
「トーヤ、何か気になることでも? それとも体調が優れないのですか?」
(この様子。やはり使用されたのはトーヤで間違いないですね。使ったのはおそらくアリスでしょう。問題はなぜ【癒しの香り】でなく【忘却の霧】だったのかです。まぁ、【忘却の霧】は夢でみた程度の弱い記憶しか消せませんから大きな問題はないはずですけど。トーヤが悪夢にでもうなされていたのかしら。)
「あ、ああ。いや、何でもない。帝国側の情勢が不安定だったんだよね。わかってる。」
(おかしいな。レーテルの言葉に確かな違和感を感じた。だけど、どこに引っ掛かったのかがわからない。そういえば、なぜ、フィルは【忘却の霧】とやらの話を打ち切ったんだ。名前からしてこの現象に絡んでいる気がするんだけど。でも、あの様子からするとそれほど重要なことではなかったようだしなぁ。後で個人的に確認してみるか。)
3人の会話の進みがよろしくないことに不安を覚えたレーテルが話をまとめようと声を上げる。
「まぁ、ほかに選択肢もありませんので海路で行きましょう。それで、皆様はだいぶ消耗されているはずですから、今日と明日はフーレで休みを取りましょう。特にライナー様とアリスネル様は大きな怪我を負われたのですからゆっくりとお休みください。買い出しは私とレム様で行います。よろしいでしょうか?」
「ウチで良いん?」
「もちろんです。交渉事がお上手と聞いております。ぜひとも、皆様を驚かせましょう!」
「もちろんや!」
レムがレーテルとハイタッチをして飛び跳ねている。本人の知らないところでライナーをしっかりと休ませる手だてがこうして講じられているのだ。ライナーとフィルネールは心の中でレーテルに賞賛の言葉を贈った。
レムが落ち着くのを待って当夜たちは馬車を預り所に委ねて宿屋に向かう。




