精霊の祝福
(エレールさん、遅いな。もう1時間くらいか。なんか異世界にいるって思うとソワソワするなぁ。ちょっとだけ外の様子でもみるか。街の中なら観光客を装えば大丈夫だよな。)
黒檀のような高級感の漂う枠に囲まれた両開き窓の外に見えるコバルトスピネルのような青色の空が真っ先に目に留まる。
(こっちの世界も青い空なんだな。)
さらに歩みを進めて窓に近づくと街並みを見渡す。レンガ造りの街並みや緑鮮やかなカエデのような街路樹が整然と並ぶ通り、人影はそれほど認められないが雰囲気はヨーロッパに当夜が抱くイメージが重なる。海外旅行に来ている、当夜はそんな錯覚を抱くとついつい気分が高揚してしまうのであった。
きしむ階段を降り、玄関と思しき両扉を開くと、そこには小さいながらも様々な草花が咲き乱れる庭があり、10mにも及ぶ石敷きの小道が大通りまで続いている。白い大理石の石畳の上を歩く当夜に花の甘い香りと香草のすがすがしい香りが届く。ふと、花壇に目を移すと人の背丈ほどもある青紫蘇のようなイラクサのような植物とキンポウゲ科の花に似た5枚の花弁が菫色に染まる小さな植物が優先して繁茂していた。視線を先に戻すと大通りと小道の境に黒塗りの門が建てられていた。門を始点として2mを超える背丈のツツジのような葉を持つ植物からなる垣根が敷地を覆うように囲っており、外の様子はうかがえない。大通りに進もうと門に手をかけようとした時、当夜の背後から歌うような女性の声がかかった。
「あらら、何やら大変なものを持っているようねぇ。さぁて、検めさせてもらいましょう。」
あまりの不意打ちに当夜は慌てて振り変える。誰もいない。
「だ、だれ!?
———誰もいない。」
(聞き間違えか? だけどすぐ傍から聞こえたような。怖っ)
前を向き直して門に再び手をかけようとしたところで同じく少し間延びした声がかかる。視界に桃色の糸の束が垂れる。
「ちょっと~。ねぇっ! 無視しないで。ここよ、ここ。」
目の前に緩やかに高度を下げながら空中で逆さまのまま止まる女の子が、もとい女性が頬を膨らませ、唇を尖らせていた。水中を泳ぐかのように空転した女性は当夜の目の前に着地する。白い踊り子の衣装のようなひらひらの多い服に羽衣のような宙を舞う帯、金銀に輝く糸につながった色鮮やかな宝石の数々が女性を引き立てる。そんな煌びやかな宝飾品や衣装さえ引き立て役と甘んじるほどに女性は美しかった。
(ピンクの髪...。人類には早すぎると思っていたけど、この人似合いすぎでしょ。空飛んでるし、この世界は人外スペックが普通ってことなのかな。エレールさん然り顔面偏差値が高すぎる。異世界ってすごい。)
当夜もなんだかんだ言ってもゲームやアニメを楽しんで育った世代である。異世界や他種族を受け入れる下地はできていたのかもしれない。
「ねぇ、君の持っているその桃色の宝石。ちょっと管理させてほしいのだけど。もちろん良いわよねぇ?」
流し目を決めた女性は目的の物の在り処を見通しているかのように当夜のポケットを指さす。その言葉じりには上から目線が多分に感じられたが悪意が無い分無暗に拒否する気にはなれない。
(んん、桃色の宝石? ああ、ピンクサファイアを頂戴ってことか。まぁ、雰囲気はこの人に合っているよね。それにしてもよくここにあるってわかったなぁ。だからって資金がただでさえ怪しいのに無償プレゼントってのはなぁ。)
「えーと、寄越せってこと?」
当夜がピンクサファイアのルースを取り出すと手のひらの上に転がす。久方ぶりに光を浴びたそれは強力な照りと桃色の鮮やかさにさらに輝きを増す。
「はぁ、やっぱり綺麗~。」
うっとりとした表情で当夜の手に近づく女性に思わずルースを握りしめて引っこめる。途端に女性の表情が曇る。
「あ゛ー。
もう。私の物にしたいという意味ではその通りだけど、別に貴方の身から離すわけではないのよぉ。そもそも私にここまで言われて喜ばない人はいないはずなのですけど~。」
(小首を傾げながらよくわからないことをおっしゃったよ。女王様かなんかなの? これ以上の面倒事はごめんだ。これはさっさと渡しておさらばしてもらおう。)
そんな未来の厄介事が降りかかりそうな雰囲気に負けて、当夜はひっこめた手を女性の目の前に差し出すとその手を広げる。
「どうぞ。ご自由にしてください。」
すると女性はうれしそうに手をかぶせる。当夜が思わず顔を赤らめて息を呑む。人の体温とは少し違う温かみが伝わる。まるで暖かな春の日差しに撫でられているようだった。
「えっと、受け取らないのですか?」
上目遣いに女性の姿をうかがう当夜に彼女は微笑みで返す。両手で当夜の手を挟むとそっと当夜の胸元まで押し戻す。
「ん~。だから~、手に入れたいわけではなくて、私の管轄にしたかったって言っているでしょう。変なの。私に会ってこんなに反応薄い子は初めてだよ。何なのかなぁ、君は~。
ま、いっか。これで私のコレクションも増えたことだし。それではごきげんよう。」
女性はその指を当夜の唇に当てると優しく押す。別れのあいさつと同時に彼女の姿は風に消え入るように失われ、その場には手にルースの入ったケースを胸に当てたまま固まる当夜だけが残っていた。
「———なんだったんだ。」
とにかくルースの無事を確認したとき、脳裏に情報が入り込んできた。
【異世界のルース(ケース付)】6,000,000シース
異世界の技術により高度に加工されたカット石、鉱物名サファイア(ピンク)
美の精霊の琴線に触れた一品
『【美の精霊】の加護(恒久)』 残量 -
『美容効果』 所持者に老化防止と容姿に対する印象を高める
(うわぁ、価値がやばいことになっている。
【美の精霊】の琴線に触れた? 『美容効果』ねぇ、僕には意味無いし。って言うか【美の精霊】ってなにさ? まさか、さっきの女の人は【美の精霊】ってこと? まさかね~、まさかね...。)
当夜は触れられた唇を自らの手で擦ってみる。心なしか乾燥していたはずの唇が潤って感じる。気のせいとばかりに首を振ると思考を切り替える。
(でも、地球から持ってきたものでも精霊の加護とやらは得られるわけか。まぁ、このルースは僕にとってあまり意味ないな。)
のちにわかることだが、片メガネの示した数字はこの世界での最低価格であり、精霊信仰の高いこの世界ではその価値は金銭に変えられるようなものではないのであった。




