散らかる成果
「ト、トーヤ!」
アリスネルの前で寛ぐ少年はいつしか彼女の淹れたハーブティーからこぼれる香りと湯気の揺らめきにあやされたかのように檜を漕ぎ始めていた。彼の寝顔は反則である。ついついこちらまで眠気を誘われるような気持ちよさそうな顔をする。そこには警戒心は一切感じられず、どこか平和ボケした危うさがある。だが、それは同時に母性本能と呼べる何かを女性から引きだす幼さにも通じる。こんな時の当夜はどんなに見つめていてもまるで気づいていないかのようにおとなしい。そのためこの顔を眺めていると幸せな気持ちになる。この寝顔を一刻はアリスネル、ライラで取り合ったこともあったほどだ。
ふと、そんな当夜の寝顔を見直して自分も夢の世界に導かれようとしたときだった。彼の顔の前に深く底の見えない不気味さだけが前面に押し出された魔核のようなものが現れた。それは、彼女の蕩け始めていた意識を急速に冷え固める。当夜を起こそうと声をかけようとしたとき、彼の身は光に包まれれる。あまりの眩しさにアリスネルは碧の瞳を閉ざす。閃光はその言葉のとおり一瞬であった。気づいたときには目の前に変わり果てた姿の当夜がいた。
「プッ、フフ、アハハッ! 何、その格好? 兜なの? 似合わな~い。」
アリスネルの当夜の名を叫ぶ悲痛な声によって意識が覚醒する。だが、次に聞こえてきた間の抜けた笑い声に安堵する。しかし、なぜそのような反応が起こるのか意味が解らない。さて、客観的な視点から当夜の姿を見てみようではないか。頭部、そこには安全ヘルメットが装着され、顔面は安全ゴーグルと防塵マスクに覆われ、服はこちらの世界では異色の精霊の力を増加する装飾のない作業着、軍手を着用、ピッケルハンマーを装備している。ついで長靴だ。そして、この世界では斬新なリュックサックを背負った上で満を持しての登場である。
「や、やぁ? 久しぶり?」
「何言ってんの、ずっといたじゃない。それより変な魔核は現れるし、光に包まれちゃうしで心配したのよ。そしたらその格好じゃない。何かの呪いにあったのかしら?」
「そんなに変かな? うん、変な格好だな。ちょいと着替えてくるよ。」
アリスネルが小首を傾げるのを見た当夜も同じように小首を傾げるが、ふと思い当たったかのように頷くと自身の部屋に戻っていく。そんな当夜を不思議そうに見つめていたが、やがて一つ溜息をついて当夜の据わっていたソファに体を預ける。
「寝ている貴方の前なら素直になれるのに。もう少しゆっくりしてほしいな。三日に一度くらい働いて後はゆっくりしていればいいのに。」
彼女はエルダーエルフならではの長い寿命が至らせる思考で思いを巡らせる。当夜は現時点では気づいていないが、海波光がそうであったようにこちらの世界ではほとんど年を取らない。ゆえに二人の思考はどこかで同調する可能性が高いのだが今がその時ではない。
そのころ当夜はこの世界での私服に着替えると、運んだ品々を確認していく。まずはポケットの中身である。いずれも特段の変化は起きていない。片メガネで鑑定してもそこに精霊の加護の痕跡は認められない。次に聖銀であるが、どう見ても薄っぺらくなったままの普通の銀の板だ。つまり、地球にマナの篭もったものを持っていくと碌なことはないということを示していた。つづいて、リュックサックを開いていく。中から道具を出していく。そこにある物はこれからのエキルシェールでの研究に役立ち続けるだろう。そして、いつの日か当夜がこの地を離れてもここに残されて次の渡り鳥たちに受け継がれていくのかもしれない。それを活かすも殺すも彼ら次第だ。さて、一番の課題は渡界石に詰め込んだ大量の食材と生活用品だ。真紅に輝く渡界石を取り出す。アリスネルが見たものとは全くの別物だ。彼女がこれを見て自身が不気味な魔核と判断したものと同じと伝えたなら信じないだろう。そんな中に大量に詰め込まれた衣類は当然、当夜の部屋にあるべきであるのでこの場にぶちまける。下着をセット組した袋の山ができた。紙やタオル、嗜好品であるチョコレートもここに出して見たがフリースペースが物凄い勢いで無くなる。そもそも、ライトが使っていたこの部屋は彼が集めたと思われる調度品によってもとからそれほど自由な空間が少ない。そこに大量の嵩張るものがあふれたのだ。足場がたちまちなくなってしまう。そこで当夜はオープンショーを中断しておくべきところを厳選し始める。食材や調味料は台所に、石鹸やシャンプー類は泉部屋にて散乱させる。ここまで大雑把に広げている理由は時間の問題もある。この世界に来てからは夕暮から2時間後くらいには寝ているのだ。もうすでにその時間を回っていた。地球側での準備も相まって疲労も出ているのだろう。そして、それならば明日にやればいいのではと賢明な諸君なら思うだろうが、ここにはそんな冷静なツッコミをしてくれる親切な人材はいない。ただ一人の人材も今は当夜の寄り掛かっていたソファーの上で涎を垂らしている。止めてくれる人のいない当夜は暴走列車の如く走り続ける。渡界石の性能を欲張って試した彼からすればその結果を早く確かめたいという知的探求心が体を突き動かしているというのが言い分だ。それだって明日で良いのだが。
一時間後、自身のベットで無く廊下にうつぶせに寝入る当夜の姿があった。翌朝、その姿と共に散らかった謎の物体の数々はライラを盛大に驚かせることになる。




