第3章
右近徳太郎氏は、次のように述べる。
「1936年当時、私は大学生でしたから、鈴木重義コーチ等から聞いた話で、どこまでが真実かはわかりません。ともかく、日本サッカー協会が海軍に佐世保鎮守府チームを中核に据えた日本代表チームを編制したい、とお願いしに行ったところ、最初はけんもほろろな対応だったそうです。それはそうでしょう。あくまでも彼らは海軍の軍人なわけで、サッカー選手ではないわけですから。あのベルリンの栄光の後で、海軍の首脳部が手のひらを返したように、最初から日本サッカー協会の要請を快く受け入れたように言い出したのを見て、鈴木さんとかは苦笑いしながら、本当はな、と私たちに話してくれました。
そうしたら、その話を聞きつけた佐世保鎮守府チームの監督だった石川中佐が助け舟を出してくれて、日本のサッカーチームがオリンピックやワールドカップで活躍したら、日本の国威発揚になる、海軍は是非とも日本サッカー協会に協力すべきだ、と力説してくれたそうです。それに対して、もし、負けたらどうするんだ、という声が出たそうですが、石川監督は「オレの言うとおりにしてくれたら、ベルリンオリンピックの金メダルを持って帰ってやる。ダメだったら、オレを退役処分にしてくれても構わん。」とまで啖呵を切ったとか。実は、石川監督は、当時、いろいろ問題を起こしていて、サッカーチームの監督をしていろ、とある意味、島流しにされていたとも聞きます。第二次世界大戦で、有能な指揮官として名を馳せ、戦死後中将にまで特進されたことからすると、信じられないといわれるかもしれませんが、実際に私が話した時の印象からすると、あながちウソとも思えないのです。
こうした石川監督の働き掛けもあって、日本代表チームが編成されたのですが、石川監督の政治力というのは本当に半端ないものでした。日本代表チームが編成されて、どこからお金を引き出して、また、相手の国と交渉したのか、私にはわかりませんが、プロを選抜したウルグアイ、アルゼンチンとの各国代表との親善試合を計画して、実行してしまったのです。時間が惜しいから、と海軍が参考のために購入していた米国製飛行艇を使って、東京からモンテビデオまで日本代表チームを送り込んだと聞いたときは、さすがに私は腰を抜かしました。そして、アルゼンチン代表相手に2対0、ウルグアイ代表相手に1対0で勝って帰国し、ベルリンオリンピックを迎えることになったのです。」