第2章
1950年代に日本代表監督を務めた右近徳太郎氏は、次のように語る。
「今では信じられないでしょうが、1930年代の日本でサッカーの最高レベルの試合を観られたのは、海軍鎮守府対抗戦でした。何しろ大学選手権ではまだまだツーバックシステムが主流で、早稲田大学あたりがWMシステム導入について試行錯誤していた時代に、海軍鎮守府対抗戦では各チームがWMシステムを導入済みで、それをいかに破るか、お互いに切磋琢磨し合っているという状況です。そして、どれくらい差があったかというと、早稲田大学チームが1935年に大学選手権を制したのですが、横須賀鎮守府チームと練習試合をしたら、どうにもならないんです。私の見立てだと、(旧制)中学生と大学生が試合をしたら、こうなるんだろうな、と思わされる始末で、それくらい鎮守府チームのレベルは高かった。海軍鎮守府対抗戦は、横須賀に各地の鎮守府代表が集まって、リーグ戦を行うのですが、それを観戦しに全国のサッカーの指導者や選手が集まってきて、その観戦記録をもとに自分のチームの指導等を検討するというのが当時の状況でした。1935年の話をしますと、早稲田大学がとても勝てない横須賀鎮守府を制して、佐世保鎮守府が3連覇中で、海軍鎮守府対抗戦の結果を見て、日本代表を選出するという話が出た際に、これはもう佐世保鎮守府チームが中心で選ばれるな、と私は思いました。当時の佐世保鎮守府チームは、石川監督を中心にして、FWに相良、MFに大友、DFに鍋島、GKに秋月といいメンバーが揃っていて、文句なしに史上最強の日本のアマチュアチームだったと思いますね。だから、自分はベルリンオリンピックには行けるなんて思ってもいなかった。そうしたら、大学の選手をサブとしてベルリンオリンピックにつれて行き、練習相手とすると共に、外国のサッカーを見聞させて知識を積ませると聞いたときは、とてもうれしかったです。そして、そのお蔭であの日本代表の栄光を全て目撃することが出来た。本当に今でも夢のような出来事、奇跡だったと思います。」