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第1章

史実とこの世界の日本代表の違いです。史実では、第1次世界大戦で日本は陸海軍を大規模に欧州には派遣していません。

 日本でサッカーが本格的に普及したのには、第一次世界大戦がきっかけとなったというのは多くの人が認めるところである。第一次世界大戦が勃発して、日本は連合国側として参戦した。そして、独のアジア植民地の占領に日本の陸海軍は活躍した。その結果、アジアから独以下の同盟国勢力を駆逐した時点で、日本は連合国側に参戦したとはいえ、第一次世界大戦の事実上の傍観者と化すこともできたはずである。しかし、英仏の要請と更にいろいろな思惑が加わった結果、日本は大規模な陸海軍を欧州に派遣することを決断した。そして、これはサッカーの普及に思わぬ影響を及ぼした。欧州に派遣された陸海軍の軍人の間で、英仏の軍人と交流する内に、共通のレクとして、サッカーが人気を呼ぶことになったのである。更に陸海軍の上層部からも、とっさの戦術判断訓練の一環としてサッカーは有効なのではないか、という声が一部から上がるに至り、サッカー人気は陸海軍の上層部から公認をある意味で受けることになった。そうしたことから、サッカーは欧州に派遣された陸海軍の軍人の多くが経験することになった。特に、サッカーの母国がイングランドであることも加わり、英国贔屓の多い海軍の軍人の間ではサッカーが極めて盛んになり、戦術等の研究もおこなわれるようになった。そして、第一次世界大戦の終結に伴い、復員した陸海軍の軍人によって、日本各地にサッカーが広められることになった。

 そして、チョウ・ディンが本格的かつ体系的なサッカーの指導書を初めて出版したのをきっかけに、日本でも経験者によってサッカーの指導書が出版されるようになった。こうした諸々のことが重なり合って、1920年代の末にアジアのサッカー強国の1つとして名をはせるようになった。しかし、それはあくまでもアジアでの話であり、1930年の第1回ワールドカップに招待された日本代表はグループリーグ全敗、1934年の第2回ワールドカップに至っては予選敗退というのが現状であった。これは、日本代表が、大学選手権を制した大学を中心とした代表を編成しているのが一因であるというのが、日本サッカー協会の認識であった。これを打破する方法はあった。それは、日本最高峰を謳われている海軍鎮守府対抗戦を制したサッカーチームを中心に据えて日本代表チームを編成し、オリンピックやワールドカップに派遣することであった。

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