第13章
右近徳太郎氏はローマでのイタリアプロ代表戦勝利から後の日本代表の栄光の日々を次のように語った。
「ローマでイタリアのプロ代表に大勝したのは本当にうれしかった。何しろ1934年のワールドカップ覇者に大勝したのです。これなら、1938年のワールドカップでも勝って、優勝できるのではないか、と夢を見ましたね。一方のイタリア側のショックは大変に大きなものがありました。ベルリンでアマ代表が、そして、ローマでプロ代表がと2連敗してしまったのです。ベルリンオリンピックでの金メダル獲得で日本代表は「黄色い悪魔」という異名がつけられていました。そのためもあって、「悪魔がローマで奇跡を起こして見せた」等々の話が出ました。
そして、シベリア鉄道等を使って帰国の途に就き、下関港で祖国の土を踏んだのですが、新聞記者等が盛大に待ち構えていて、サブだった私達のところまでいろいろ取材が来ました。後で聞いたのですが、対ドイツ戦勝利の後、日本代表が勝利を収めるたびに号外が出ていて、日本ではものすごい騒ぎになっていたそうです。金メダル獲得後にローマに赴き、そこで、イタリアのプロ代表と行った親善試合は世界最強を決めた世紀の一戦とまで煽った新聞まで出ていたとか。そのために、サッカー人気は急上昇の一途で、例えば、母校の慶応大学蹴球部は1937年に1936年の2倍以上の新入部員を受け入れるほどでした。
日本のサッカーの地位も急上昇して、フランスやオーストリアが、日本へプロ代表を親善試合のために送り込んできました。欧州からアジアまで向こうからプロの代表を送り込んでくるなんて、1936年のベルリンオリンピックで金メダルを獲得するまで思いもよらないことでした。ちなみに両方とも石川監督率いる日本代表の前に敗北を喫しました。韓国とも親善試合をしましたね。これにも石川監督は勝っていますから、結局、石川監督は日本代表監督として10回、指揮を執り、全てに勝利を収めるという奇跡的な数字を挙げています。親善試合だから大したことないと思われるかもしれませんが、当時は親善試合と言えど国の面子が掛かっていました。それを思うと、本当に日本代表の絶頂期だったと思います。