第11章
右近徳太郎氏は語る。
「ベルリンオリンピックで国歌が流れ、国旗が掲揚された瞬間は今でも思い出します。感動のあまり、涙が流れました。だって、オリンピックで金メダルですよ、あの後、日本サッカーが復活して、オリンピックでメダルを取るのはメキシコまで待たないといけませんでした。しかも、銅メダル。ワールドカップに至っては、未だに準々決勝の壁を破れていません。それを思うと本当に夢のような出来事に思えます。しかも、相手のイタリア代表を7対0で破ったのです。今でも、この勝利は、オリンピック、ワールドカップを通じて、最多得点差の決勝戦の勝利の記録になっています。これだけの勝利を収められて、本当に良かったです。
金メダルの余韻に浸りながら、ホテルに帰ったら、当時、ドイツにいた日本の多くの方々が駆け付けてきていて、よくやったぞ、次はワールドカップで勝とう、等々と祝福してくれました。石川監督やレギュラー陣も嬉しさに顔をほころばせていました。祝勝会を徹夜でやるのか、と思いましたが、すぐに祝勝会が終わりました。選手の我々が不思議がっていると、石川監督から、イタリアのプロ代表との親善試合が8月22日にローマで行われることが決まった、明日、ローマへ出発するとの発表がありました。後で、鈴木コーチから聞いた話によると、イギリス戦の直後に、イタリアサッカー連盟から費用は全額負担するので、ローマで日本代表と親善試合を8月22日に行いたい旨の申し入れがあったとのことです。日本のサッカー協会と連絡を取り、日本代表の監督とレギュラー選手は全員、海軍の軍人ですから、海軍の了解を得て、外務省からビザを取って等々の手続きをしていたら、決勝戦直前になってしまい、決勝戦に集中させたかったので、選手への発表が祝勝会後になったとのことでした。私はサブでしたから、ローマ観光ができる、という気楽な思いがよぎりましたが、石川監督たちは、びっくりしたと思います。対策はどうするのだろう、と思いましたが、鈴木コーチによると、各国のサッカー情報を集める際にプロについてもある程度は周辺情報として集めたので、何とかなる。それにイタリアならポッツォ氏が監督が指揮を執るだろう、彼なら手の内がある程度読める、とのことでした。確かにポッツォ氏は、1934年のワールドカップを制した名監督として有名であり、情報収集には苦労しなかったと思います。
そして、8月16日にローマへ我々は出発したのです。