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金色(こんじき)の炎  作者: 秋山草介
7/13

1、アルバイト募集(7)

涎のように漆黒の粘液を垂れ流し、舌代わりなのだろう一本の触手を口の中から振り回す。腹が減っていたところにとんでもないご馳走だ、そう言わんばかりの振る舞いに、秋雄の恐怖は加速していく。自分を狙った獣の口腔がじわじわと目の前に迫ってくる、一生の内、一回見るか見ないかの最悪の悪夢を見せつけられている気がした。

 全身で身もだえしながら、せめて叫ぶだけでもと、ありったけの空気を吸い込む。そこへ秋雄の意図を察したのか、またも触手が蠢き、秋雄の顔の下半分に巻きついた。猿轡を咬ませられた格好となる。

「―――、!」くぐもったうなり声であげる獲物がいい加減煩わしくなったのか、秋雄を引きずる力が荒々しいものになる。僅かばかりの抵抗も空しく、怪物の息遣いを肌で感じるまでの距離に詰まった。

 その息遣いを聴いた瞬間、聴覚が消え、視界は増大し、自分の心臓の鼓動のみが鼓膜を打つ。世界の全てがスローモーションになってゆく。今と同じ感覚を味わった事が、過去に二度あった。一つは車に轢かれかけたとき、もう一つは、田舎で、祖母が―――たとき。

 あの時、俺は何を思った?死ぬんだ、と思った。死ぬと思って、それが怖くて、恐ろしくて。

 今も思っている。怖い、生きたい、何で、殺されるから。何で、死ねば終わりだから。何故、まだ生きたいから。何故、生きて、したいから。何を?何をしたい?御堂秋雄は生き延びて何をしたい?

 ―――俺が、死にたくないのは、生きたい理由は。

 眼前に、怪物の幾重にも並んだ牙の列が迫る。秋雄の皮を裂き、肉を削ぎ、骨を砕かんとする飢えに満ちた渇望のカタマリが迫る。

―――俺は―――

視界を、無数の黄金の光線が穿った。そのあまりの輝きに、反射的に両の目を閉じる。

怪物が発したのだろうか。否、その考えが誤りである証拠に、聞くもおぞましい大音声の叫び声が秋雄の耳元で響き渡ると共に、骨も砕けよとばかりに身体を締め上げていた幾本もの肉の蔓から一斉に力が抜けていった。

口元を縛っていた触手も解け、秋雄は、すぐさま荒い呼吸で空気を貪る。ひどく咳き込んだ。

「慌てちゃいけない。ゆっくり、ゆっくりと息を吸って」

 その言葉に素直に従い、むせながらも、落ち着いた呼吸を試みる。荒々しかったそれが、徐々に静かになってゆく。

「そうだ、落ち着いて深呼吸してごらん」

 深呼吸をする。1回、2回。昂ぶっていた意識が静まってくる。

「よし、それでいい。どこか、怪我はしたかね?」

 そう言われて、身体の節々を確かめる。特に目立ったのは無かった。

「・・・いえ、特には」呟いた瞬間、微かに渦巻いていた違和感が一斉に吹き出した。俺、誰と喋っているんだ?

 顔を上げる。冴え冴えとした蒼光に照らされながら倒れ伏す怪物の傍らに、男が一人、立っていた。

 儚げな初夏の微風に、前を開いたトレンチコートの裾が微かに揺れる。7月も半ばだというのに、両の手を黒の皮手袋が覆っていた。およそ常人がこの季節の夜に出歩くような服装ではない。

「それは良かった、立てるかい?」

 差し出された手袋越しの左手。その手を借りて秋雄はゆっくりと立ち上がる。

「あ、あの・・・」

 言葉を紡げない。あの化け物は何か、男は何者か、化け物を殺したのは男なのか、あふれ出す無数の疑問を一度に消化できないもどかしさが、秋雄の口を麻痺させる。視線も踊る目の前の若造を見かねてか、男の方から口を開いた。

「いいカバンだね」

「え?」

「見たところオーダーメイドのようだが。高かったろう?」

 そう言って男は力無く横たわる触手の群れを意に介する様子も無く、地面に投げ出されていた秋雄の茶革のアタッシェに向かって歩き出す。光の加減で、その表情は見えなくとも、その口調はひどく穏やかなものだった。

 ケースの握りを掴んで拾い上げ、そのまま秋雄に差し出す。

「ど、どうも」その様子を呆然と見ていた秋雄は、木偶のように受け取るだけだった。

「まぁ、君の言わんとするところは分かるつもりだよ」出し抜けに男は呟くように言った。

「・・・え?」

「私も似たようなものだった、いや、殆ど同じだったな、あれは」

「・・・はぁ」

「とにかく、こんなところで立ち話もなんだし、君、学生さん?」

「え、そ、そうですけど」

「もしかして、市立大?」

「は、はい」

「そうか、いや、私もあそこの農学部出身でね」懐かしいな、と、しきりに呟くその顔は、相も変わらず薄暗がりの向こうにあった。

「ああ、話が逸れてしまったね、とにかく、色々聞きたい事もあるだろうし、こちらも話したいことが幾つかある。主に、アレについてね」男は横目でそれを見つめながらアゴをしゃくり、微動だにしない黒々とした巨大ナメクジ―恐らくは―の死体を示した。

「大前提として一つ、言っておかなくちゃいけない。アレは残念ながら一般常識から乖離しきった、まぁ言ってみれば存在してはならない存在、って奴なんだ。そして、君は今、非常に微妙な立場にある。つまり、真っ当かつ善良な一市民としてのね。だから必ず」そこまで言って、不意に男は秋雄を突き飛ばした。驚く間も無く仰向けに倒れこむ秋雄に、男の声が降りかかる。

「動くんじゃないよ!」

 天を仰ぐ秋雄の視界に、幾本もの黒の線が猛然とした速度で横切ってゆく。それが先程と同じ類の触手だと気付いたのは、映像の一時停止のように、唐突にその運動を止めたからだった。

「1匹見たら30匹、か」秋雄の頭上を遮る形で固まっている触手の群れ。その数メートル後方には巨大ナメクジが数匹群れており、その先端は男がとっさに掲げた右腕を幾重にも縛り上げていた。

「『スラッグ』が3、景気が悪いな」一匹で男子大学生を引きずり倒す膂力を持つ怪物が3匹、それに対して、男は微動だにすることなく腕一本で競り合っていた。触手が何重にも絡まった腕は、肘から指先に至るまで覆われ、真っ黒なギプスを嵌めているかのようだった。

 と、ギプスの僅かな隙間から、光が漏れた。それはひどく小さな、闇夜の中でも目を凝らさなければ見落としてしまう、そんなちっぽけなものだった。

が、それを秋雄が見出したのとほぼ同じ瞬間、触手の群れが一斉に震え、怪物達がじわり、と後ろへと下がる。

タバコの火よりも儚げな金色の光。しかし手の甲の部分から僅かに漏れるそれは、タバコからライター、ライターから電灯、電灯から燃え盛る炎の如き閃光へと徐々にその輝きを増していった。

 黒板に針金を立てて引ききったような音が、2重3重となって秋雄の鼓膜を殴りつける。

その金切り音がナメクジ、通称『スラッグ』の発する悲鳴だと知ったのはもう少し後の事だった。

『スラッグ』共が悲鳴を上げた理由、それは男の腕に巻きつけた触手が火で炙られた蝋細工のように溶け出しているからだった。液状化した肉の蔓が男の腕を伝い、注がれる液体のように地面に流れ出していた。

 光から必至に逃れようと、『スラッグ』共は触手を引き上げようと男の右腕の戒めを緩める。刹那、男は左手でそれらを纏めて掴み上げた。ナメクジ達は躍起になって触手を引くも、男の万力のような握力が決して逃がしはしなかった。

「まぁそう慌てないで」

 教師が教え子に諭すような緩やかな口調。秋雄を救った時とまるで変わらぬ声のトーンに、秋雄は男に対して、怪物へのそれとは異なる別種の恐怖を感じ始めていた。

(なんだよ、なんなんだよ、このオッサン・・・!)

『スラッグ』から上がる複数の悲鳴がそのボリュームを高めていく。男の右腕を覆っていた黒のギプスはあらかた崩れ去り、男の足元へ黒々とした水溜りを形成していた。腕から液状化した触手があらかた流れさった後に現れたのは、右腕を、より正確には掲げた手の甲から黄金の光が閃かせる、男の姿だった。その光に照らされ、不明瞭だった男の顔が露になる。

 ぴっちりと後ろへ撫で付けた髪。鋭い、という表現から程遠い柔和な瞳を覆う縁無しの眼鏡。微かに微笑む唇は薄く、顔の輪郭からして、がっしり、というイメージとは程遠い少年のような線の細いものだった。

 外見は田舎の小学校教師、しかし彼が今行なっているのは、そんな印象とは程遠い人外の力の応酬だった。

 触手の束を介した奇妙な綱引きの拮抗状態を先に崩そうとしたのは、『スラッグ』の方だった。触手を繰り出している3匹の内の一匹が、その粘性の身体を震わし、一本の角を伸ばし始めた。剣の切っ先ののような鋭さのそれは長さを増していき、30センチ近くにまで達した瞬間、男に向かってそれは放たれた。

 正確には発射、という言葉は当てはまらなかった。角と本体は細いながらも一本の触手で結ばれており、先端を鋭角化した触手を猛スピードで男に向かって飛ばした、というのが正確であろう。

「見飽きたよ」

 男は触手を掴んでいた左手を無造作に一振りする。大きくたわんだ幾本もの肉のロープが、男と、放たれた角付きの触手との進路を阻害する。

 結果的に、折り重なった触手の壁を貫けるほどのスピードと強度は『スラッグ』の角には備わっていなかった。編み上げたように絡まった触手の束に角が半分まで突き刺さる格好となり、ナメクジ達が上げる悲鳴のボルテージは、ますます高まるばかりだった。

 と、男の右手に変化があった。手の甲から乱舞する無数の光線が、一つの方向へと指向していった。光線が積み上げられ、重なり合い、一つの姿へと変わっていく。

 それは、刀だった。歪みのない刀身に、鋭く反り返る切っ先。光子の結晶であろうにもかかわらず、その冴え冴えとした真っ直ぐな刃は、古の名刀を思わせた。手の甲に寝かせた刀を直接貼り付けたような格好となったその閃光は輝きを衰えさせることもなく、男はゆっくりとその剣先を怪物の群れへと向ける。怪物の上げる悲鳴は一際鋭さを増し、それはそのまま断末魔の叫びと化した。

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