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金色(こんじき)の炎  作者: 秋山草介
6/13

1、アルバイト募集(6)

腕時計の短針が8で止まった。7月の夜はすでに蒸し暑さが漂い始め、ほんの数分歩いただけでうっすらと額に汗が滲む。

(今年は暑くなるな)

大学の授業を終え、秋雄はバス停からの家路を急いでいた。早く風呂に入って全身にたまる汗を洗い流したい。が、急げば余計に汗をかく。秋雄は夏が嫌いだった。

 夜の帳が下りた住宅街を、歩く。どこからか気の早い風鈴の音が響いてきた。

 目の前に、左右を一軒家の群れに挟まれた、緩やかな傾斜の坂道が現れる。暑い季節は坂道というだけでうんざりだった。

(早く夏終わらないかな)

 7月も終わらない内にそんな益体も無い事を考える。

 水が、滴る音がした。

 雨だろうか。空を見上げる。黒曜石を溶かしたような空には、無数の恒星や惑星の瞬きが閃いているばかりだった。

(にわか雨か)

 また、水が滴る音。ピチョン、とはっきり耳に届いた。が、身体のどこにも水滴がついた感触は無い。

(あれ・・・)

 妙な気がした。そもそも、にわか雨が1滴降ったからといって、そこまではっきり聞こえるものだろうか?

 また、聞こえた。これで三度目。録音したものを耳元で再生しているような、とても明確な音だった。

 おかしい、説明できないが何かがおかしい。全身が総毛立つ。呼吸が荒くなる。自分の吐息がひどく響いて聞こえる。

 後から思い返せば、あの時点で何も考えずがむしゃらに走りだすべきだった、秋雄は思い返す度にそう後悔したが、パニックになりかけた一般市民の若造に、それを期待するのも酷というものだった。

 ゆっくりと振り向く。2メートル程の間隔を隔ててそれはいた。

 粘り気のある肢体、そこかしこから伸びた触手、進む、というよりも這いずる、という表現が当てはまる、全身をしならせながらのゆっくりとした前進。その全てを包むのは、宵闇よりなお暗き漆黒。

 黒に染まった人間の子供と同じサイズの巨大ナメクジが、幾本もの触手を垂れ下げながらこちらに這いずってくる。うごめく触手の一本から、体液だろうか、雫が滴ってゆく。ゆっくりと地面に零れ、水滴音が辺りに響いた。

 秋雄の足が、1歩退く。

(何だ、これ)

 見た事が無い生物、いや、生物なのだろうか。秋雄自身が狂って生み出した幻覚という方が、よほど筋が通っている、そんな気さえした。

 謎の生物が、なおも距離を詰めてくる。秋雄の足が、また一歩勝手に引いた。

(何なんだよ)

 怖い、という感覚はとうに吹き飛んでいた。今秋雄の頭を占めるのは、これが何なのか、本当に現実で起こっていることなのか、そして、何より重要なのは、自分に対して敵意を抱いているのか。

 それは、速度を速めるでもなく、かといって遅くする訳でもなく、子供が歩く程度の速度を保ちながら、全身とそこから伸びる幾多の触手を蠢かせつつ秋雄の元へと向かっていく。

(逃げるか)

 できるなら、今すぐにでも脱兎の如く駆け出したかった。それをせず、ただ後ずさってばかりなのは、背を向けた瞬間にあの生物が豹変し、一気に襲い掛かるのではないかという可能性が思考の大半を占めていたからだった。

 その考えは、正しくもあり、間違いでもあった。秋雄が背を向ける間も無く、それから生える触手が一斉に高々と虚空へ直立した。刹那、それらが秋雄の元へと疾駆する。

「!」

 気付いたときには、秋雄の四肢、その至る所に触手が絡みつき、全身を締め上げられていた。バランスを取れず、地面に倒れこんだ秋雄の下へ、その視界一杯となって、それがじわり、と歩を進めてくる。

「何だ・・・何なんだ・・・」うわ言の様に呟きながら必死に身悶えして、泥のように肌にぬめりつく触手を振り払おうとするも、秋雄を締め上げる力は緩まるどころか、比例するように強くなり、骨がきしむ音さえ聞こえそうだった。

「・・・!」全身が万力で潰されているかのような感覚に痛覚が限界を訴える。痛い、の一言も発せられない痛みを味わうのは、今この瞬間が始めての経験だった。

 顎を動かす。空気を吸い込む。舌が滅茶苦茶に蠢く。にも拘らず声の一つも絞り出せない。陸に上げられた魚、今の秋雄の姿は、その魚そのものだった。唯一つ異なるのは、魚は酸素を求めて喘いでいるが、秋雄は叫ぼうと試みて、痛みと恐怖で声が出ないという点だった。

 と、身体を絞めつけられる痛みに、摩擦熱の痛みが加わった。ヤスリをかけられたような感覚が、アスファルトの上を引きずられているのだと、朦朧とした頭でも気付くのに時間は掛からなかった。

 ぼやける視界に力を込める。徐々に視界に大きく広がってゆく怪物の姿が見えた。喰われる、そう叫ぶ本能の声を疑おうとは思わなかった。

 唯一戒めを受けていない両手を地面に密着させ、少しでも踏み止まろうとするも、それに気付いたのか即座に触手が秋雄の指ごと縛り上げた。

 最後の抵抗もままならず、再び引きずられてゆく。恐怖一色に染まった意識に、意味不明の4文字が乱舞する。

(こいつはなんだ、俺を襲ってどうするんだ、逃げなきゃ、今すぐ。どうやって・・・!)

 疑問符が浮かんでは新たな疑問に打ち消される。その根底に渦巻く生存願望が、秋雄の正気と理性を削り取ってゆく。

(嫌だ、殺される、食われる、こいつは何だ、俺はどうなる、生きたい、生きたい、生きたい!)

 幾つもの映像が頭に浮かんでは消える。すべて過去の記憶だった。

 両親、妹、幼稚園時代、小学生、中学生、高校生、大学生、大学の入学式、友人が出来、先輩と知り合い、下らないお喋り、内容、黄金魔人、黄金、金色、見たことがある、金色、ゴールド、手に持っている、祖母、里帰り、墓参り、刺殺、犯人、金色、金色の男、違う、

金色、を、持った、男。

 怪物の胴体と思わしき部分が不気味に蠢動し、上下へと裂かれていった。その仕草は、生物が捕食をする最後の瞬間、すなわち、口を開いていく動作のそれに他ならなかった。

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