1、アルバイト募集(3)
「遅―い。呼んでから何分だー」ダイニングキッチンのテーブルに肘をつきながら、茅が箸で秋雄を指す。悪かったよ、と軽く流しながら茅の向かいに座る。テーブルに並んでいたのは、ご飯に目玉焼き、ウインナー、レタスとトマトのサラダ、味噌汁といった至極一般的な朝食のメニュー。それらをざっと見て秋雄は言った。
「納豆ないの?」
「昨日で切れちゃったわよ」母の喜久子が居間に繋がるキッチンから言った。
「え、もう?」
「あんたがいつも2パックも使っちゃうからでしょ」デザートのリンゴを切り分けながら呆れ口調で言う。
「2パックも食わないよ、3パックだ」
「おかーさーん、バカがいるー」
「知ってるわよ、そんな事」
「おかーさーん、妹がいじめるー」
「知ってるわよ、そんな事」
「・・・食べるか」
「・・・うん」
箸を取る。適当に選んで咀嚼しながら、秋雄はテーブルに置かれた新聞に目を通す。
「お兄、行儀悪いよ」あー、と適当に返しながら新聞をめくっていく。掲載されている記事の多くはネットの中と大同小異。が、あの事件について触れている記事は皆無だった。
一地方都市の殺人など全国紙にとっては有り触れた話なのだろう。微かな落胆と、そして安堵を自覚しながら、新聞を閉じる。なぜそんな考えが出てきたのか、秋雄にもよく分からなかった。
茅がリモコンでテレビをつける。国営放送のアナウンサーのしかめっ面が写ったのを見て、即座にチャンネルを切り替え、民放の占いコーナーへと画面が変わる。
「当たるもんじゃないだろ、こんなもん」
「当たるもーん、お兄が見てないだけ」
小ばかにしつつも、ついランキング形式の星座占いに目が引かれる。もったいぶった演出の末、茅の星座の順位が出た。
「よっし、1位だって!『今日の貴女は天下無敵、向かうところ敵無し』いいね、こういうの!」ガッツポーズで喜ぶ妹を見ていると、とても現役高校生の振る舞いとは思えなかった。
やれやれと思いながら朝食を続けていると、ふと気が付く。
「あれ、父さんは?」
「仕事よ。出張とかで、もう出かけちゃった」そう言いながら喜久子が、切り分けられたリンゴが盛られた皿をテーブルに置く。
「やーだ、またリンゴ?もう三日目じゃん」
「文句言わないの、青森の叔父さんから届いたのが、まだダンボール一箱分はあるんだから」
「うげー、もう飽きちゃった・・・」母娘の語らいを耳にしつつ、秋雄はテレビの画面左上に表示された時刻を目にする。
「やべ、7時半回ってる」慌てて残りの朝食を口の中へ詰め込んでゆく。
「高校より急がなきゃいけないなんて、大学って忙しいんだね」対照的にのんびりと麦茶など啜りながら茅がのたまう。
「うるさい、遠いだけだよ。早くバイト探さねーと」
「お兄に一人暮らしなんて絶対無理だって、あんなに部屋汚いし」
「部屋は関係ないだろ、部屋は!」
「はいはい、二人共早くして」喜久子が手を叩きながら子供二人を諌めた。
「まったく・・・」秋雄は朝食をあらかた胃に納めると、切り分けられたリンゴを2,3個口に押し込みながら席を立った。
「あら、リンゴもっと食べてってよ」
「食えないって、こんなに」
「まぁ、どうしようかしらね、これ」
「あたしアップルパイ食べたーい」
「あら、いいわねそれ」
甘いものが好きな男がいるなんて信じられない、そう思いつつ秋雄は2階への階段を駆け上がった。
自室へ戻る。床に散らばる服や雑誌を蹴飛ばして、その中に埋もれていた小振りのアタッシェケースを引っ張り出す。茶色の革張りのそれは、大学1年生の普段使いには高価すぎる代物だが、父のお下がりとして入学祝いにもらってから3ヶ月、気負う気持ちはとうに消えていた。
ケースを開き、中に入っているルーズリーフや授業に必要なテキストの類を確認する。特に忘れ物は無い事を確認し、身支度に移る。
ジーパンに袖なしのシャツ、その上から藍色の半袖シャツを羽織る。高校時代自前で買った割と高めの腕時計。両のポケットに財布とスマートフォンを突っ込み、アタッシェケースを掴んで一階へ駆け下りた。
「行ってくるー」そう言いながらスニーカーに足を突っ込む。そこへ、茅が慌てて駆けてくる。
「待って待って、一緒に行こう」学校のセーラー服に身を包んだ妹は、朝方の粗野な印象など微塵も感じさせなかった。
「お前、まだ早いだろ」
「いーじゃん、別に。さ、早く早く」
「まったく・・・、行ってきまーす」
「いってきまーす」
取り立てて特徴も無い建売住宅のドアを開ける。7月の朝は、まだ真夏とは程遠い爽やかさを残していた。
兄妹は、歩いて10分ほどにあるバス停を目指して歩く。どうという事はないごくありふれた住宅街を歩く道々、家族の会話や朝食と思しき香りが漂ってくる。まだ朝なのだ、そう思うと眠気がぶり返しそうになる。
「眠い・・・」そう口をついて出る。
「お兄、昨日何時に寝たの?」
「わかんね、気付いたら寝てた」
「何それ、意味わかんない」
俺も分からん、と軽く流しながら目の前の十字路を右に曲がる。と、ひどくゆっくりとした速度で普通車が一台進んできた。青と白のツートンに塗り分けられた車体にはYUKIZANEとロゴが大きく描かれている。
「何だ?あれ」
「パトロール、かな?」
「警備会社も警察みたいな事すんのか?」
「さぁ、知らないけど」
「ふーん」
二人の興味はそこで尽きる。走り去る警備会社のパトロールカー、そのウインドウにスモークが掛かっている意味に考えが及ぶ事も、また、気付く事もなかった。
バス停に着く。住宅街一帯の足代わりでもあるここには、大抵の時間、待ち人が何人か佇んでいるが、今日は珍しく無人だった。二人、並んでベンチに座る。
「ふぅ」ため息を一つ、ベンチに座る。
「爺臭い、やめて」
何を言いやがると思いながら、スマートフォンを取り出し、電源を入れる。メールが一通届いていた。
大学の友人からだった。予習するのを忘れた、今日の講義の範囲教えてくれ、という内容に、昼食を対価にOKする。返信メールの送信ボタンを押し、ふと、液晶から視線を上げる。早朝の晴天に広がる、突き抜けるような青に、吸い込まれそうな錯覚を覚えた。
「ねぇ、お兄」隣に座る茅が、言った。
「ん?」
「お父さんがね、お墓参り、いつ行こうかって」
「・・・行かないよ、俺は」
「でも、一回ぐらい」
「嫌だよ」
考えを変えるつもりは無い、不変の意思を滲ませる固い口調だった。
「・・・そう」諦めの表情で妹は視線をそらす。
そこへ、エンジンの駆動音と共に市営バスが走ってくる。秋雄が乗る便だった。二人の目の前で止まる。
「それじゃ」そう言ってノンステップの段差に足をかけた。ちら、と後ろを振り向く。堪えるような表情で、こちらから目を背ける少女の横顔があった。