咲 4
クリスマスイブの日、私とおじさんは市民ホールのリハーサル室にいた。
会場は、午後二時開演予定だというのに一時半にはもうほとんど満席だった。
こんなにお客さんが来たのは、お姉ちゃんが、知り合いの結城恭一という有名なピアニストを招待したからだ。
私の出番は二十名いる子どもの中の十二番目だった。時間でいうとだいたい四時前くらいだったと思う。
リハーサル室には二台のアップライトピアノが準備されていて、出番の早い子たちが練習を始めていた。
〈おじさん 私 大丈夫かな?〉
私は不安で、おじさんに手話でそう聞いた。
そうしたら、周りの子たちがもの珍しそうに私を見た。
おじさんは私をリハーサル室の外へ連れて行き、近くの長椅子に座らせた。
〈何か 飲む?〉
おじさんは長椅子のすぐ脇にある自販機を指差した。
〈ココア〉
私がそう答えると、おじさんは、自販機にコインを入れようとしたけれど、なかなかうまく入らないみたいだった。
でも何とかココアとコーヒーを取り出して、おじさんは私にココアを渡してくれた。
〈心配?〉
おじさんはそう私に聞いた。
〈うん 途中で 間違ったら どうしよう〉
〈そしたら そこから もう一度 弾けばいい〉
〈それでも いいの?〉
〈全然 構わない おじさんも よく そうした〉
私は急に気が楽になった。
〈おじさんも?〉
〈ああ おじさんなんか 失敗だらけ〉
そう言っておじさんが笑うと、私もつられて笑ってしまった。
〈おじさんも こういうところで 演奏 したこと ある?〉
〈少しだけ〉
〈緊張した?〉
〈うん すごく 咲ちゃんと 同じ〉
私は緊張が緩んできてココアを飲んだ。
〈でも 咲ちゃんは 大丈夫〉
〈何で?〉
〈だって 練習の時 すごく 上手だった あんなに うまい ケ・セラ・セラ 聞いたの 初めて〉
〈本当?〉
〈ああ おじさんは 嘘は つかない 咲ちゃんの ケ・セラ・セラは 普通と ちょっと 違う〉
おじさんは真面目な顔でそう言った。
〈違うって 何が?〉
私は少し心配になってそう聞いた。
〈うまく いえないけど 咲ちゃんの 気持ちが 伝わってくる すごく たくさん〉
〈だって 私 あの曲 大好き〉
〈ピアノは それが 一番大事 わかる?〉
〈うん わかる〉
私の緊張はすっかりとれていた。
私の出番が近づくと、おじさんは私を舞台の袖まで連れていってくれて、耳元で、
「客席で見ているから 頑張って。それからこれ、後で奈緒お姉ちゃんに渡しておいて」
と囁いて、一通の手紙を私に渡し、いったんロビーへ出てから客席へ入ってきた。
背の高いおじさんは、腰をかがめて自分の席まで歩き、椅子に腰かけた。
舞台では、私の一つ前の男の子がトルコ行進曲を弾いていた。
私は、おじさんから預かった手紙を二つに折って、前の日におじさんが買ってくれたベルベットのスーツのポケットにそれをしまった。
舞台の端には大きな細長い紙に書かれたプログラムが置いてあって、トルコ行進曲が終わり、男の子が拍手に送られてこちらへやってくると、女の人がそれを一枚めくった。
〔ケ・セラ・セラ 日向咲〕
そこにはそう書いてあった。
そして違う女の人がピアノの椅子の高さを低く調節し終わると、アナウンスが流れた。
「次は、プログラムナンバー十二番、日向咲さんのケ・セラ・セラです」
私が舞台のグランドピアノの前まで歩き、そこでお辞儀をすると、みんな拍手をしてくれた。
心臓がドキドキして足ががくがく震えた。
私がちらっとおじさんを見たら、おじさんはやっぱり優しく微笑んでいた。
私は椅子に座り鍵盤に指を置いた。
そして、ケ・セラ・セラを弾きはじめたら、ハウスにあるピアノとは全然違う音がして、まるで自分じゃない誰かが弾いているみたいに上手に聞こえた。
私は無意識にあの時の光景を思い出していた。
おじさんと踊ったあの時の、ろうそくの灯に照らし出されたおじさんの笑顔を思い出していた。
演奏が終わると会場からは、最初の時よりもずっと大きな拍手が起こった。
私は舞台のまん中でお辞儀をしたけれど、もう、早くおじさんのところへ行きたくて、夢中で舞台の端にある小さな階段を駆け降りた。
そして、おじさんの座っているところへ走っていくと、おじさんは立ち上がって私を待っていてくれた。私はおじさんの腕の中に飛び込んだ。
大きな拍手に包まれて、私たちはしばらくそうしていた。
私はそのままおじさんの隣の席に座り、他の子の演奏を聞いていた。
そして、前半最後の子の演奏が終わって休憩に入ると思った時、突然、奈緒お姉ちゃんが舞台に現れた。お姉ちゃんはすごく緊張した顔で話し始めた。
「皆様、誠に申し訳ございません。実はこれから演奏をする予定の結城恭一さんが体調不良のため、いらっしゃることができなくなりました」
会場はしーんとしていた。
「本当に申し訳ございません。もちろんチケット代はお返しいたします。それで許されることとは思いませんが、どうかお許しください。返金をご希望の方はお帰りの際にご住所とお名前をロビーにて承ります」
そうしたら、だんだん会場が騒がしくなってきて、奈緒お姉ちゃんは何度も何度も「申し訳ありません」って謝っていた。
周りには、「ふざけるな」とか、「どこから来たと思ってるんだ」なんて言う人もいて、私は奈緒お姉ちゃんを何とか助けてあげたかったけれど、何もできないでいた。
そうしたら、おじさんが、私の両方の肩に手を置いて、私のことを見ながら、
「咲ちゃんにおじさんがクリスマスプレゼントをあげよう」
と言った。
おじさんは、席を立つと、さっき私が降りた階段を上がって、奈緒お姉ちゃんに代わって舞台のマイクの前に立った。
奈緒お姉ちゃんは泣きながら下を向いていた。
「みなさんお静まり下さい」
会場は急に静かになった。
みんながおじさんに注目しておじさんの話すことを聞こうとしていた。
「私も観客の一人です。みなさんが残念に思うお気持ちはよくわかります。しかし結城恭一さんがご病気では仕方がありません。ご存知のように、この発表会で得られた収益は施設に暮らす子どもたちへピアノを贈ることに使われます。クリスマスプレゼントです。ですからどうかお許し頂きたいのです。そして今日この日のために一生懸命に練習してきた子どもたちのためにも、どうかみなさん、良い思い出を残してあげて欲しいのです」
誰も何も喋らなかった。
みんなおじさんの次の言葉を待っていた。
「実は私はピアニストをしていました。名前は来生晃といいます」
その時、急に会場がざわめきだした。
近くの人は「え、うそ!」なんて言っていた。
「訳あって私は音楽の世界を捨てました。そして私は音楽の世界だけではなく、この世の世界をも捨てようと思いました。しかし一人の少女がすさんだ私の心を温めてくれました。私はその少女に恩返しがしたいのです。結城さんのピアノをお聞きになるためにいらっしゃった方には本当に失礼だと思いますが、皆さんにお許し頂けるなら、そのプログラムにあるテンペストを弾かせて頂きたい」
おじさんがそう言ってしばらくすると、会場から拍手が起こった。みんなおじさんの演奏を聞きたいみたいだった。
おじさんは一瞬奈緒お姉ちゃんと目を合わせると、ピアノに向かって歩いた。
その時のおじさんを見て、私は何て姿勢の良い人なんだろうって思った。
おじさんは、ピアノの前に座ると、しばらく目を閉じてじっとしていた。
会場はしーんとしていて、咳払いをする人さえ一人もいなかった。
そして、おじさんが鍵盤に指を乗せた途端、いきなりピアノの音が会場中に響き渡って、そんなに大きな音じゃないのに、それはどんどん私の胸というか脳というか身体全体の中へ入り込んできた。
どう表現すればいいのか良くわからないけれど、それはすごく感動的で、私はそれまで歩んできた自分の人生なんて考えたこともなかったけれど、どうして私のお父さんとお母さんは死んでしまったんだろうなんて、いつもだったら考えないようなことまで頭に浮かんできて、泣こうとなんて思ってもいないのに、私の目からは涙がぽろぽろなんていう程度じゃなく、もう洪水のようにどんどん溢れ出てきた。
おじさんの演奏が終わって、おじさんの指が鍵盤から離れた時、会場はやっぱりしーんとしていた。
拍手のないまま、おじさんは立ち上がって前へ進み、深々とお辞儀をした。
そうしたら、誰かがパチパチパチと小さな拍手をした。
私はその時、拍手をすることを思い出した。
きっと他の人たちもそうだったと思う。
そのあとはもう、ものすごい拍手だった。
何か大きな声で叫んでいる人もいた。
おじさんは、ずっと私のことを見ていた。
そして舞台を後にしようと歩きだした時、おじさんは一度止まって奈緒お姉ちゃんを見た。
奈緒お姉ちゃんも涙でぐちゃぐちゃの顔をしていた。
そして、その後、おじさんはとびきりの笑顔で私と奈緒お姉ちゃんに「ありがとう」って言った。
勿論声は聞こえなかったけれど、私はおじさんの唇を読み間違えたりしない。
その後、私はおじさんが帰ってきて私の隣に座るのをずっと待っていたけれど、おじさんはついに帰ってこなかった。
待ちきれなくなって、私がロビーに出た時、奈緒お姉ちゃんもおじさんを探していた。
私は、おじさんから預かった手紙がポケットに入っているのを思い出して、奈緒お姉ちゃんにそれを渡した。お姉ちゃんは急いでそれを読むと、何かすごくショックだったみたいだったけれど、私が、
〈お姉ちゃん どうしたの? おじさん 何だって?〉
と聞くと、お姉ちゃんは、
〈おじさん 急に お仕事が 出来たって 遠い ところへ 行くんだって〉
と答えた。
その時のお姉ちゃんはひどい顔だった。
私が覚えているのはここまでだ。
そのあと、何があったのかはどうしても思い出せない。
ただ、奈緒お姉ちゃんが部屋のお風呂で血まみれになっていたのだけは覚えている。
おじさんはその後、どうなったのだろう。
お姉ちゃんは何であんなことしたのだろう。
今から行って、私はどうしてもお姉ちゃんからそれを聞かなければならない。