咲 3
夏休みの終わり頃、私はお父さんから、おじさんが昔、ピアノの先生をしていたということを聞いた。
リビングにあるピアノを私はずっと弾きたかったけれど、私にピアノを教えてくれる人は誰もいなかった。
それを聞いた私は、すぐにおじさんにピアノを教えて欲しいとお願いしてみたけれど、おじさんは、
〈おじさんは もう ピアノを 弾けなく なっちゃったんだ〉
と言って教えてくれなかった。
私がおじさんに何かを頼んで断られたのは初めてだった。
それでもあきらめ切れなかった私は、奈緒お姉ちゃんに相談して、奈緒お姉ちゃんからおじさんに頼んでもらうことにした。
学校が始まって、しばらくたったとき、私は友達の女の子二人とけんかをしてしまった。
優菜ちゃんと理沙ちゃんは、二人とも同じピアノ教室に通っていて、帰り際、二人は、鉄棒の前でピアノの話をしていた。
私は、おじさんが車で迎えに来ているから、早く帰らなきゃいけないと思ったのだけれど、ピアノの話を聞いて思わず、
(私もピアノ習うかもしれないんだ)
とメモ帳に書いてしまった。
そうしたら、優菜ちゃんが、
「どこで習うの?」
と聞いてきた。
私が、
(ハウスのおじさん)
と書くと、理沙ちゃんは、
「おじさんって、お手伝いのおじさんでしょう?そんな人にピアノ習ったって上手にならないよ。ピアノはちゃんとした先生に習わなきゃうまくならないって、ママが言ってたもん」
と言った。
私はそれが悔しくて、
(おじさんはちゃんとした先生だよ)
と書いた。
でもその後は、
「そんなちゃんとした先生がお手伝いなんかしてる訳ないじゃない。私たちの先生は音大出てるんだよ。咲ちゃんのおじさんは音大出てるの?」
などと、二人が一方的に喋るばかりになって、結局、私は何も言い返せないまま泣いてしまった。
その時、三年生の修兄ちゃんが近くを通ったけれど、私はお兄ちゃんと目を合わさないように下を向いていた。
優菜ちゃんと理沙ちゃんは私を置いて帰ってしまい、私は鉄棒の近くに一人取り残された。
悲しかったし、なんだか頭がくらくらして、私はそこにしゃがみ込んでしまった。
しばらくそうしていると、遠くから、
「咲ちゃん!」
と私を呼ぶ声がした。
私が顔をあげるとそれはおじさんだった。
おじさんは、校門のところから私のところまでずっと走って来た。
校庭を歩いている生徒たちは、みんな立ち止まっておじさんのことを見ていた。
だって、おじさんはすごく背が高かったから。
おじさんは私の目の前に来てしゃがむと、
「咲ちゃん、どうしたの?具合でも悪い? 」
と、私の顔を覗き込むようにして言った。
私はおじさんを見て首を振ったけれど、おじさんは私の額に手を当てて、
「熱があるな」
と言った。
その時には修兄ちゃんも、翔太兄ちゃんも、良平兄ちゃんも、大兄ちゃんもみんな来ていて、心配そうな顔で私を見ていた。
おじさんは、きっと修兄ちゃんが連れてきてくれたのだろう。大兄ちゃんは、
「咲、大丈夫か?」
と言うし、おじさんは、
「咲ちゃん、歩けるかな?」
と聞いたけど、私にはもう答える元気もなくて、ただ下を向いていた。
そうしたら、その時、修兄ちゃんが信じられないことを言った。
「咲、おじさんにおぶってってもらえよ」
私はびっくりしたが、おじさんは何事もないように、
「ほら咲ちゃん、おんぶしてあげる。乗って」
と言って私に背中を向けた。
私は、おじさんにおんぶしてもらえるって思ったら、何だか元気が出てきて、すぐにおじさんの背に乗った。
おじさんが立ち上がると、すごく高くて、そこからの景色はいつもと全然違っていた。
周りの子たちが何かニヤニヤしながら、私を見ていたけど、私は少しも気にならなかった。
私は生まれて初めて大人の人におんぶをしてもらった。
もしかしたら、小さい頃、本当のお父さんやお母さんにおんぶしてもらったことがあったのかもしれないけれど、私にはその記憶が無かったから、やっぱりそれは私にとっての初めてのおんぶだった。
良平兄ちゃんは私たちのことをじろじろ見ていた子たちに、
「何だよお前ら!どけよ!」
と言った。
翔太兄ちゃんは、私の顔を心配そうに覗き込んだけど、翔太兄ちゃんは、
「何だ、こいつ、にやにやしてらあ」
と言った。
私はその時、きっと笑っていたんだと思う。
おじさんが歩く度に伝わってくる振動が心地よくて、とっても温かくて、私は幸せな気持ちでいっぱいだった。
そして、夕日に染まった校舎も、私たちの長い影も、おじさんの背中から眺める風景はどれもすごく綺麗だった。
そしてそのうちに、それが本当に自分の目で見ている景色なのか、それとも何かの絵本かテレビで見た自分の記憶なのか、私にはよくわからなくなってしまった。
おじさんは、一度ハウスへ戻ると、私を病院へ連れて行ってくれた。
お兄ちゃんたちもみんな一緒にきた。
私を背負ったおじさんとお兄ちゃんたちは、背の高い順に一列になってロビーを横断した。
でも、診察室へはおじさんと私だけが入った。
先生が、
「心配要りません。ただの風邪でしょう。抗生剤を出しておきますから、帰ったら飲ませてください」
と言うと、おじさんは、
「ありがとうございます。お世話になりました」
と言って、私の手を引いて診察室を出ようとした。
そうしたら、
「来生さん、具合はいかがですか?」
と先生がおじさんに聞いた。
おじさんは、
「おかげさまですこぶる健康です」
と言ったけれど、私はそれがすごく気になって、診察室を出たとき、
〈おじさん 病気なの?〉
と聞いてみた。
そうしたら、おじさんは、
〈おじさんも 咲ちゃんと 同じ 風邪を引いて さっきの お医者さんに 見てもらった そのときは 太い注射を 打たれた〉
と言った。
今考えると、そのとき、おじさんの表情は少しこわばっていたかもしないけれど、そのときの私は気づかなかった。
〈痛かった?〉
顔をしかめながら私が聞くと、おじさんは歩くのを止め、真剣な表情で私を見つめながら、
〈ものすごく!〉
と答えた。
私は息を飲むようにしてのけぞり、きっと苦い薬を飲んだときのような顔をしたと思う。
そのあと、私とおじさんは、あちこちに探検に出ていたお兄ちゃんたちが集まるのを待ってエレベーターで一階まで下り、ロビーを横切って薬局へ向かった。
向こうからスーツを着た若い男の人がやってきて、私たちとすれ違った時、その人は何だかおじさんと目で挨拶をしたように見えたけれど、私はおじさんに何も聞かなかった。
薬が切れる頃になると私の熱は上がった。
おじさんは、私を離れのおじさんの部屋に寝かせて、氷枕を作って看病してくれた。
それから、食欲のない私に、冷えたりんごをすりおろして食べさせてくれた。
それは本当においしくて、私は、熱が下がったらその作り方を絶対に教えてもらおうと思った。
私が食べ終わるとおじさんは、
「今日はここで寝ていいって。園長先生がそう言ってた。それからね、咲ちゃん、元気になったらおじさんがピアノを教えてあげるよ。だから早く元気になろうね」
と言ってくれた。
私は、そのままおじさんのところにいられることが嬉しくて、それから、ピアノを教えてもらえることがもっと嬉しくて、おじさんの手を握った。
おじさんも、「おやすみ」と言いながら、私の手を握ってくれた。
私がおじさんの手を二度、ぎゅっぎゅっと握ると、おじさんも同じように、ぎゅっぎゅっと握り返してくれた。
私が何度も何度もそれを繰り返すと、おじさんは、いつまでもそれに付き合ってくれた。
私は、それをずっと続けていたかったけれど、いつの間にか眠ってしまった。
二日後、私はすっかり元気になり、学校へも通えるようになった。
おじさんは、約束通り、私にピアノを教えてくれた。
最初はお兄ちゃんたちも私のレッスンを見ていたけれど、そのうちにみんな飽きてやっぱり外でサッカーをするようになった。
私は、おじさんからピアノを習うのが楽しくて楽しくて、どんどんピアノが上手になった。
でも、その代わりにラッキーは少しつまらなそうにしていて、私は、心の中でラッキーに「ごめんね」って謝った。
〈おじさん 私 発表会に 出たいの 出られる?〉
おじさんが新しい曲を選んでいた時、私はおじさんに聞いてみた。
奈緒お姉ちゃんがピアノの発表会を計画しているっていう話を、私は前の日にお姉ちゃんから聞いていたのだ。
〈発表会?〉
〈そう 奈緒お姉ちゃん 発表会 するんだって 市民ホールで〉
〈奈緒お姉ちゃんが? どうして 奈緒お姉ちゃんが 発表会 するの?〉
〈よくわからない〉
〈発表会は いつ?〉
〈クリスマスイブ!〉
おじさんは少し考えていたけれど、
〈わかった 今日 奈緒お姉ちゃんと 相談しておく〉
と言った。
〈おじさん 私 弾きたい曲 あるの〉
〈何?〉
〈誕生日 おじさんと 踊った 曲〉
「ああ」
その時、おじさんは、手話じゃなくて、「ああ」って声を出した。
〈あれ 何ていう曲?〉
〈ケ・セ・ラ・セ・ラ〉
〈ケ・セ・ラ・セ・ラ?〉
〈そう〉
〈変な 名前 でも すごく 好き どういう 意味?〉
〈咲ちゃんは 大人に なったら 美人に なれるかなあ なんて 心配に なること ある?〉
〈あるある〉
私は大きく二度頷いた。
〈そんな 先の こと 心配しても 仕方ない っていう 意味〉
〈どうして 仕方 ないの?〉
〈だって 心配したって 美人に なれる わけじゃない〉
私は奈緒お姉ちゃんのことを思い浮かべた。
〈でも 私 奈緒お姉ちゃん みたいに 美人に なりたい〉
〈きっと なれる〉
そう言いながら、おじさんは笑った。
〈でも 美人が 一番いいとは 限らないよ〉
〈なぜ?〉
〈たとえば 咲ちゃんが 将来 とびきりの 美人に なったとしよう〉
〈うん〉
〈咲ちゃんを 好きになる 男の人は せっかく 咲ちゃんが きれいな心を もっているのに きれいな 顔にばかり 気をとられて 一番大切なことに 気づかない かもしれない〉
〈一番 大切な ことって?〉
〈もちろん、咲ちゃんの 心が すごく きれいだって こと〉
〈でも 私 やっぱり 美人の方がいい だって 奈緒お姉ちゃん すごく 美人でしょう?〉
〈うん とても〉
〈お姉ちゃんのこと 好き?〉
〈好きって?〉
〈結婚 したい?〉
その時も、おじさんはしばらく考えた。
〈おじさんには 釣り合わない〉
〈どうして?〉
〈だって おじさんは さえない おじさん だから〉
〈さえなくなんか ない 私は 大好き おじさん〉
〈ありがとう でも 奈緒お姉ちゃんには もっと 素敵な 人が いる と思う〉
〈ふられ ちゃったの?〉
私がそう聞くと、おじさんは何も言わずにただ首を横に振った。
〈まだ 告白 してないの?〉
今度は頷いた。
〈勇気 ないのね 私が 言って あげようか?〉
〈大丈夫 いつか おじさんが 自分で 話す〉
〈頑張って〉
そう言うと、私は、発表会のことを空想しながら、夢中になってピアノの練習をした。