奈緒 23
闇の訪れとともに私は目を開いた。
(どうせ消えてしまうものならば最初から見つからない方がよかった)
自分のいる場所が病室であることを徐々に理解しつつも、夢の最後にそう感じた余韻はそうすぐには頭から消えなかった。
(死ねなかったのだ)
私はただそう思った。
「気がつきましたか?」
女性の声が私の脳の覚醒を少し加速させた。
私のベッドの横には見覚えのない、上品で優しそうな女性が座っていた。
彼女は、私が意識を取り戻すと、すぐに椅子から離れ、私の顔を覗き込むようにした。
彼女の目はとても穏やかで、これまで、きっと心に大きな傷を受けるような経験などしたことが無い人なのだろうと、私はぼんやりとそう思った。
「あなたは・・・」
「あの・・・来生の元の家内で、森崎といいます。看護師さんを呼びますね」
そう言って彼女は、ナースコールのボタンに手をかけた。
「ちょっと・・・待って下さい。来生さんの・・・奥さんだった人・・・ですか?」
「はい。実は彼のお友達からあなたのことを聞いて・・・お見舞いにきたんです。大変でしたね。気分はどうですか?」
「はい・・・大丈夫です」
彼の奥さんだった人になら、聞きたいことがたくさんあるはずなのに、その時は何も思いつかなかった。
ただ、彼の奥さんだった人が、とても優しそうだったことが、私の心を暗くさせた。
「私が言うのもおかしいですけど、彼が逝くのを看取って下さったんですよね。ありがとうございました。いつも最後には一人になってしまう彼が、最期の最期はあなたと咲さんにそばについていてもらって、きっと嬉しかったと思います」
「でも、彼が近くにいて欲しかったのは、きっと私たちじゃありません。それはきっと、あなたとお嬢さんだったと思います」
「あの、娘は亡くなりました・・・」
「え?」
「今からちょうど十年前、私と彼が別れてから二年後に交通事故で。もう少しで小学校に入学だったんです。彼、話していなかったんですね」
そう言うと、彼女はバッグからハンカチをとり出した。
「あの時、連絡したんです。彼に。でも彼はフランスにいて、娘の最期には間に合いませんでした。あの子、最後に『パパ』って言ったんです。あの子がこの世で最後に口にした言葉は『パパ』でした。私はそれが辛くて。私、彼にそれを話したんです。そうしたら彼はピアノをやめてしまいました。どんなことがあっても絶対にやめなかったピアノを、彼はその場限りでやめてしまったんです。結局、私たちが別れたことで一番傷ついたのは娘でした。それは別れる前から二人ともわかっていたのですが、それでもああいう結果になって、いくら後悔してもどうしようもないのはわかっているのですけれど、二人ともどれだけ後悔したことか・・・」
彼が死を選んだ理由がより鮮明に理解できた気がした。彼は自分に流れる血のせいで、家族どころか娘の命も失っていたのだ。
「それで、来生さん、死を選んだんですね・・・」
「死を選んだ?」
「はい。来生さん、自分が癌だとわかったときに、治療しない道を選んだんです。彼、自分の血を、というか自分自身のことを悪魔だと言っていました。他人を許すことのできない、専制君主のような悪魔だと。それが原因で、奥さんもお子さんも不幸にしてしまったと。だから彼は、その血を断つために生き延びる道を捨てたんです」
「そうだったんですか。私もあの人のことをもっと理解してあげるべきだったのかもしれませんね。こんなこと、今さら言っても仕方のないことですけど。でも私には彼のその部分だけがどうしても理解できなくて。普段はすごく優しいのに、時々人が変わったようになってしまって。私にはそれが耐えられなくなってしまって」
そう言いながら、彼女はハンカチを目に当てた。
「来生さんはきっと、お嬢さんのこと、すごくかわいがっていらっしゃったのでしょうね」
「ええ。びっくりするくらいに。あの人はいつも娘と一緒に遊んでしました。お人形さんごっこなんて、そばで見ている私が呆れるくらい、同じことを何度も繰り返して。そうやって育てた父親のこと、そんなに簡単に忘れられる訳がないですよね。私、あの人と別れてしばらくしてから、ある方とご縁があって、娘もその方になついていたので、その方と再婚したんです。娘は特に何も言っていなかったのですが、娘にとっての父親は、やっぱりあの人だけだったんですね」
彼女が帰ってから、私はずっと考えた。
愛って何だろう?
私が彼に求めた愛と、彼が娘さんに注いだ愛は違うのだろうか?
彼はどんなふうにあの人を愛したのだろう?
どんなふうに娘さんを愛したのだろう?
どんなふうに咲ちゃんを愛したのだろう?
私はますます混乱し、それからの四年間、その答えはずっと見つからなかった。




