咲 1
咲
おじさん、おじさんは今どこにいるの?
お父さんは、おじさんは死んでしまったって言うけれど、私には信じられない。
私にも、おじさんの記憶はたくさん残っているけれど、どうしても最後まで思いだすことができない。
奈緒お姉ちゃんが血だらけになって倒れているシーンにぶつかると、記憶の糸はいつもそこでぷっつりと切れてしまう。
だから、私はこれから奈緒お姉ちゃんに会いに行く。
今までは恐くてできなかったけれど、奈緒お姉ちゃんだったら、きっと本当のことを知っていると思うから。
あの日、今でも忘れない。
今から五年前、私が一年生になる前、桜の花が一杯に咲いていた頃、おじさんは突然やってきた。
遠く、大きな桜の木がある所から坂を上って、小さなスクーターに身を屈めるようにして乗ってきたおじさんは、門の近くで遊んでいた私の目の前を通って庭へ入ってきた。
「くすのきハウスってここかな?」
それがおじさんが最初に私に話しかけた言葉だった。
私は大きく頷きながらおじさんのことをじっと見つめた。
スクーターを降りると、おじさんの背があんまり高かったものだから、私はびっくりしてしまった。
そして、おじさんはヘルメットをとると、猫みたいにブルブルっと頭を振って、長い前髪を邪魔そうに後ろに流した。
今から思うと、私はあの時、あの瞬間におじさんのことが好きになってしまったのだ。
そのあと、おじさんの周りに、大兄ちゃんも、良平兄ちゃんも、翔太兄ちゃんも、修兄ちゃんも、みんな集まってきた。
おじさんが、
「園長先生いる?」
と誰にともなく聞くと、大兄ちゃんがすぐに、
「中にいるよ!」
と言っておじさんを案内した。
中から、
「お父さん、お客さん!」
と大兄ちゃんの声が聞こえた時、私は、本当は私が先だったのにって思った。
本当は私がおじさんを案内したかったのにって。
でもその時、私はまだ声が出せなかったから、仕方がないってすぐにあきらめた。
そして私は急いで中へ入った。
そうしたら、お父さんが二階から下りてきて、おじさんに、
「来生さん?待ってた!待ってた!」
とにこにこしながら言った。
おじさんが来生っていう名前だってその時わかった。
お父さんがあんなににこにこするのはめずらしかった。
その時、一番前に立っていたのはおじさんで、次が大兄ちゃん、その次が良平兄ちゃん、翔太兄ちゃん、修兄ちゃんで、一番背の低い私が一番後ろだった。
だから私には前の様子がわからなくて、一生懸命背伸びをしたり、横から見ようとしたけれど、結局おじさんの顔は見えなくて、あの時ほど大兄ちゃんがうらやましかったことはなかった。
私たちがいつまでもそこにいるとお父さんが、
「ほら、お父さんはこれからこの人と大事な話があるから、お前たちは外で遊んでいなさい」
と言った。
それでもまだ私たちがそこにいると、
「ほら、早く!」
と少し怒って言ったものだから、みんな急いで外へ出た。
それでもまだあきらめきれなくて、私たちは外からガラス越しにおじさんを見た。
お父さんとおじさんは、テーブルに向かい合って座って、何か話していた。
お父さんは私たちに背を向けていたから、私はおじさんの顔を良く見ることができた。
おじさんは、不精髭を生やしていたけれど、すごく優しそうだった。
おじさんが私の方をちらっと見ると、お父さんが私たちに気づいて振り向いた。
私たちは、お父さんに叱られる前に走って逃げた。
そのあと、お兄ちゃんたちはサッカーをして、私はラッキーと遊んでいた。
そうしたら、お父さんが出てきて、
「みんなちょっと集合!」
と大きな声で言ったから、私たちはみんな走ってお父さんのところへ行った。
お父さんの横にはおじさんが立っていたけれど、お父さんの頭のてっぺんは、おじさんの肩くらいまでしかなくて、お父さんが何だか老けた子どもみたいに見えた。
私は少し笑ってしまった。
それからお父さんは言った。
「来生晃さんです。明日からこのくすのきハウスのお手伝いをしてくれます。来生さんにはあそこの離 れに住んでもらいます。みんな、あんまり迷惑をかけないように」
そうしたらおじさんは、
「来生です。これからしばらくお世話になります。よろしくお願いします」
と言った。
その時、私はこれから自分の人生が変わるんじゃないかっていう期待で胸が一杯になった。
何だかいつか見たディズニーの映画の中に出てくる女の人みたいになれるんじゃないかって、そう思った。
その日からおじさんはくすのきハウスで私たちと一緒に生活した。
おじさんはご飯の支度やお皿洗いをしたり、お洗濯とか、私たちを車で学校へ送ったり迎えに来たりした。
お兄ちゃんたちはいつもおじさんをサッカーに誘って、私はいつもそれを遠くから見ていた。
だから、おじさんが来てからも、結局私の友達は、ラブラドールのラッキーだけだった。
でも、そんなある日、いつものように、お兄ちゃんたちはおじさんとサッカー、私はラッキーと遊んでいると、ポツポツ雨が降ってきた。
私は、小屋のないラッキーがかわいそうで、その時着ていたウインドブレーカーを木に結び付けて、ラッキーの居場所に屋根を作ってあげようとした。
そうしたらおじさんが走ってきて、
「咲ちゃん、何しているの?」
って私に声をかけてきてくれた。
私は声が出せないし、ただ夢中でウインドブレーカーの袖を木に結び付けていると、雨がどんどん強くなってきた。
おじさんは、
「咲ちゃん、濡れちゃうから中へ入ろう」
と言ったけれど、ラッキーはしょんぼりした顔をしているし、私はそれをやめなかった。
そうしたら、おじさんが、
「わかった、咲ちゃん。おじさんがテントを作ってあげるから。物置にビニールシートの大きいのがあるんだ。おじさんはそれを取りに行くから、だから咲ちゃんはおうちに入って待ってて」
と言った。
私は嬉しくて大きく頷くと、急いで家へ戻った。
だって、傘が無かったらおじさんだってずぶ濡れになってしまう。
私は左手におじさんの大きな傘を持ち、右手で自分の傘をさして、おじさんのところまで走った。
その時にはもう、ラッキーのテントはほとんど完成していたけれど、私を見たおじさんは、ちょっと手を止めて、私のことをずっと見ていた。
私がおじさんのところに着いた時には、私はずぶ濡れだった。
私はおじさんの傘を開いて、おじさんにさしかけようとしたけれど、おじさんの背があんまり高いものだから、結局私は何もしてあげられなかった。
でも、おじさんは、
「咲ちゃん、ありがとう。もう終わったよ。早く帰って着替えないと風邪ひいちゃうよ」
そう言って、私の手を引き、私たちは土砂降りの庭を二人で走った。
私には何だかそれが、楽しくて嬉しくて、声は出せなかったけれど、お腹の中から笑いがこみ上げてきた。
私の声は、三才の時、交通事故でお父さんとお母さんをなくしてから、出なくなってしまったらしい。
どうしてかよくわからないけれど、声を出そうと思っても出せなくなってしまった。
だから私は、奈緒お姉ちゃんに手話を教わって、手話ができる人とは会話ができるようになった。
耳は普通に聞こえるから、学校はお兄ちゃんたちと同じ学校に通っていた。
奈緒お姉ちゃんは、くすのきハウスの卒業生で、手話通訳士のお仕事をしていた。
ハウスのすぐ近くに住んでいて、私に手話を教えてくれたり、ハウスのいろいろなお手伝いをしてくれた。
私は奈緒お姉ちゃんが大好きだった。
ずぶ濡れになった私は、自分の部屋へ戻って着替えをした。
でも、頭の中には、
(おじさんはどうしているだろう。もっとおじさんと一緒にいたい)
っていうことしかなかった。
私は、思い切っておじさんの住む離れに行くことにした。
(でも、その前に、いつも使っているメモ帳を持っていかなきゃ)
私はそう思って、メモ帳とペンを取りに帰り、おじさんの離れに行ってドアをノックした。
おじさんはドアを開けて私を見ると、
「どうしたの?」
と言った。私は全部ひらがなだったけれど、精一杯きれいな字で、
(さっきはありがとう らっきいのてんとつくってくれて)
とメモ帳に書いた。
するとおじさんは、目の高さが私と同じになるくらいにしゃがんで、
「ううん。どう致しまして。でも咲ちゃんはやさしいんだね」
と言った。
私はすぐに、
(おじさんのほうがやさしい)
と書いた。
「何で?」
とおじさんが聞くから、私は、
(だって、いままでだれもつくってくれなかったんだよ。だれもできなかったのにおじさんできた。すごい!)
と書いた。
その後、話すことがなくなってしまって、しばらく私がもじもじしていると、おじさんが、
「何かして遊ぼうか?」
と言ってくれた。
私はすごく嬉しかった。
私が頷くと、おじさんは、
「何をしたい?」
と聞いた。
私は、おじさんの手を引いて、離れからおじさんを連れ出し、リビングの椅子へおじさんを座らせた。
そして、私は、テレビ台の下から折り紙の入った箱を取り出しておじさんの目の前に置いた。
ふたを開けながらおじさんの顔を見ると、おじさんは、
「何か折れる?」
と聞いた。
私は、箱の中からピンクの折り紙を選び出し、すぐに鶴を折り始めた。
でも、途中で折るのをやめて、おじさんにも折り紙を勧めた。
そうしたら、なんと、おじさんは一番上の黄緑を手に取った。
(なぜ、色を選ばないのだろう?)
私にはそれが不思議で仕方なかった。
そんな私の顔を見たおじさんは、私の心の中を見抜いたように、
「おじさんは黄緑が大好きなんだ」
と言った。
私が鶴を折り上げると、おじさんはびっくりしたような顔をして、
「完璧な鶴だな」
と言った。
「誰に教わったの?」
とおじさんが聞くから、私が、
「お父さん」
と答えると、その時、おじさんは、何か「しまった!」みたいな顔をした。
私にはなぜおじさんがそんな顔をしたのかわからなくて、それがちょっと気になった。
自分の鶴を折ってしまった私は、おじさんが何を作るのかじっと見ていた。
おじさんは、でき上ったものを私の手に乗せて、
「何だか当ててごらん」
と言った。
そんな形をした折り紙を見たことがなかった私は、
(おにぎり)
とメモ帳に書いた。
おじさんは首を横に振った。
私は、おじさんの作品を裏にしたり、さかさまにしたりしてみたけれど、結局それが何なのかわからなかった。
仕方なく、私がそれをおじさんに返すと、おじさんはその尖ったところに口をあてて、ふうっと息を吹き込んだ。
そうしたら、それはあっという間に膨らんで、小さくてきれいな黄緑色の紙風船になった。
私はまるで、手品を見ているような気持ちだった。
そうしたら、おじさんは、その風船を手のひらでポンポンと弾ませた。
私が両手を差し出すと、おじさんは優しい顔で、それを私の手のひらにちょこんと乗せてくれた。
私は、それを持って外へ出た。
そして、さっきおじさんがやったようにポンポンと手のひらで弾ませてみた。
その時にはもう、雨はすっかりあがっていて、日も差してきていた。
ラッキーが走ってきて、私の周りをじゃれて吠えながらくるくると回った。