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26日の月  作者: 川島利宇
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来生晃

   来生 晃


 気がつくと私は、目の前の白いカーテンが揺れるのをぼんやりと眺めていた。


 いつからそうしていたのかはわからなかったが、自分が見ているものがカーテンであることを意識したのは、ほんの数秒前からのことだ。


 それまでの自分が何を見ていたのか、何を考えていたのか、或いは眠っていたのか、私には全く思い出すことができなかった。


 私は、目だけをくるくると動かして、辺りにあるものを一つ一つ確認した。


 右前方のカーテンから少し左、つまり、自分の足の方向には、ただ白い壁しか無く、天井も、二つに折れ曲がった形の蛍光灯が、ただやわらかな白い光を放っているだけだった。


 左も見ようと思ったが、もともと少し右を向いて寝ていたから、左側を見るには、少し首をそちらへ傾けなければならなかった。


 私はどうしようかとしばらく考えたが、やっとのことでそれを実行する決心をした。


 ゆっくりと時間をかけて首を左に倒していくと、視界に入ってきたのは横にスライドさせるタイプのクリーム色をした扉だった。


 ここで色がついているものを見たのはそれが初めてだった。

 

 他にも何かないかと探してみたが、特にこれといって目を引くものは何もなかった。


 いや、そうではない。


 目の前のテレビを忘れていた。


 あまりに近すぎて視界に入らなかったのだ。


 テレビだけは、この部屋の透き通るような雰囲気に反して、重々しい黒色を基調とした色彩で、場違いな存在感を示していた。


 ここは多分病室なのだろう。


 自分がこんなにけだるいのも、きっと自分が怪我をしているか、何かの病気にかかっているからに違いない。


 しかし、それが何なのか、いや、良く考えてみると自分が誰なのかすら、私にはわからなかった。


 私はただ、掛け布団の上に出ている自分の手を見て「自分は人間なのだ」とだけ思った。


 私は、その後、自分が置かれている状況を掴むために、何とかして記憶の糸を手繰ろうとしたが、手繰ろうにも、私の頭の中はからっぽで、その糸口すら見つけることができなかった。


 そうしているうちに、私は、自分でも知らぬ間にその作業を諦めていて、今度はあの扉から誰かが入ってくるのを、ただひたすら待っているのだった。


 十分ほど待っただろうか。


 いやひょっとすると一時間かもしれないし、数時間かもしれない(私には時間というものの感覚が全くなくなってしまっていた)。


 白い制服を着た若い女性が、


「来生さーん、具合はいかがですかー」


 と半ば独り言のように言いながら入ってきて、私の寝ているベッドの脇のスタンドに掛けてある点滴を交換し始めた。


 その点滴から出ている管を目でたどると、それは私の左手に繋がっていて、他にもいくつかの管が私の身体には繋がっているようだった。

 

 制服を着た女性は、私と目が合うと、


「来生さーん、わかりますかー?」


 と私に向かって手を振った。


 手を振り返そうかとも思ったが、あまりにもそれが面倒くさかったため、私はそれをやめた。


 しかし、かといって、彼女はそれを不思議に思う様子もなく、また、不満に思う様子もなく、ただ淡々と点滴の袋を交換すると、部屋を出ていった。


 彼女が出ていった後にはまた静寂が訪れた。


 やることのない私は、空っぽだった頭に、今度は不思議と次々に浮かんでくる夢のようなものに身をゆだねることにした。


 最初に浮かんできたのは音楽だった。


 題名はわかる。


 ケ・セラ・セラ。


 この曲がなぜ最初に頭に浮かんだのかはわからないが、今までもずっとこのメロディが私の頭の中に存在していたのはきっと確かなことだ。


 なぜって、この曲を聞くととても懐かしく、温かな感情が湧きあがってくるのだから。


 そのメロディが流れる時、同時にある少女の面影が浮かんだ。


 まだ小学生になったかならないかくらいのかわいい少女の面影だ。


 そして、彼女と私は手を取り合ってダンスをしていた。


 部屋は暗くて、彼女の顔だけがオレンジ色に照らし出されている。


 そうだ、その時だ。


 その時にこの「ケ・セラ・セラ」が流れていた。


 彼女は本当に嬉しそうで、私も本当に幸せだった。


 これは、現実に自分の身に起こった出来事だったのだろうか。


 だとしたら、どうしてもそれを思い出したいと思うのだが、今の自分には、それは無理なようだった。

 

 しかし、今日はたった一つだが、進歩があった。疲れたのでしばらく眠ることにしよう。




さっき起きていた時からいったいどれくらいの時が流れたのだろう。


 ここには時計が無い。


 私は、時の流れを数字で知りたくなった。


 もしかしたら、あの少女のことを考えていた時から何日もたってしまったのかもしれない。


 私は、また例の女性(きっと看護師だろう)がやってくるのを待った。


 今度は彼女にきっと話しかけるのだ。


 そして、目に見える場所に時計を掛けてもらわなければならない。

 

 私がうとうとしていると、「からから」と扉がスライドする音がして、「パタパタ」という音と共に彼女が部屋に入ってきた。


 いつものように彼女は私に話しかけ、点滴の袋の交換にかかった。


 私は力を振り絞って彼女に話しかけようとしたが、うまく声が出なかった。


「ああ・・・」


 彼女は驚いたように私を見た。


「来生さん、どうしたの?大丈夫ですか?」


「とけい、とけ・・・」


 彼女は目を大きく見開いて、


「時計が見たいのね?うん、わかった。待ってて」


 と言いい、急ぎ足で部屋を出ると、大きな影掛け時計を持って再び部屋に入ってきた。


 彼女は、その掛け時計を私の足の方向の壁に掛けてくれた。


 何も無かった真っ白な壁に、事務的で大きな時計が掛けられたさまは、ミスマッチというどころの話しではなかったが、私にはその時計の針が見やすいことが何より嬉しかった。


 私は彼女に礼を言おうと思ったが、彼女はすぐに部屋を出て行き、今度は大きな筒状の紙を持って帰ってきた。


 彼女はそれを広げて時計の横に掛けた。


 それは、ただ大きな数字だけが整然と並んでいるカレンダーだった。


 彼女はその数字のうちの一つに赤のサインペンで丸をした。


 二月十日。


 今日は二月十日なのだ。


 時計の針は二時二十分を指している。


 窓から差し込む光を考えれば、今は二月十日午後二時二〇分ということになる。


「どお?来生さん。これでいい?」


 彼女は私にそう話しかけた。


 私は意識的に笑顔を作って、彼女に感謝の意を伝えた。


 その後、私は、また夢とも現実ともつかない記憶の断片に身をゆだねることにした。

 

 そうすればまたあの少女と会えるかもしれない。


 私にとって、彼女の記憶と会えることは、唯一の大きな楽しみになっていた。




しかし、その日に出会った光景はあの少女ではなかった。

 

 寂しい私自身だった。


 とにかく私は寂しかった。


 周りは皆、小学生で、たくさんの子が私の悪口を言っていた。


 悪口を言うというよりは、学校の先生が、私の悪い点をみんなに発表させていたのだ。


 私は惨めさで消えて無くなってしまいたいという気持ちで一杯になっていた。


そうかと思うと、今度は図工室なのだろう。


 みんな席を移動して、仲の良い友達同士、お互い相手の顔を描いている。


 しかし、そこで私だけが立っているのだ。


 私だけが自分を描いてくれる相手を見つけようとしてさまよっていた。


 心の中はやはり惨めさで一杯だった。


 次に、私はたくさんの子どもたちにお神輿のように担がれていた。


 わっしょいわっしょいという歓声の中、私はすれ違った知り合いのおばさんに「助けて!」と叫んだ。

 

 しかし、子どもたちの誰かが


「これ、ふざけているだけだから、気にしないで」


 と言うとおばさんは微笑みながら通り過ぎてしまった。


 私は絶望して泣いた。


 私が泣きだすと、みんな、私をそこへ放り出して逃げて行った。




 気がつくと私は本当に泣いていた。


 そして、その涙をあの看護師が拭いてくれていた。


 六時三十五分。


 カレンダーの丸印はまだ十日のままだ。


 私は疲れてもう一度目を閉じた。




「写真なんて知らないわ」


 そう言うのは妻の遥だった。


「知らないはずはない。僕は君にどこかへしまっておいてくれと頼んだはずだ」


 私はそう言って腹を立てている。


 私は、一枚の写真が見つからないことで苛立っていた。


 しかし、彼女は頑として自分の非を認めない。


「そこまで言うのなら別れよう」


 ついに私が最後の一言を告げる。


「なぜすぐにそういう話になるの?たったこれくらいのことで。それにやめてよ。明日香がいるんだから」


「たったこれくらいのこと?僕には、写真のことなんかより、君が自分の非を認めないことが、言いかえれば、何の根拠もなく、僕に非があると言いきる君のその自信が我慢できないんだ」


 私がそう言う横で明日香が不安そうな顔をして二人の会話を聞いていた。


 そうだ、私には妻も子もあった。


 妻の名は遥、娘の名は明日香。


 しかし、明日香は、あの時、一緒に踊った少女ではなかった。


 私はその時、最後には、いつものように遥が自分の非を認め、折れて出るだろうと思っていた。


 しかし違った。


 遥は別れの提案を受け入れた。


 そして私は一人になったのだ。


 そのあと、ひどく恐ろしい出来事が起こった気がするのだが、それが何なのかはどうしても思い出せなかった。


 しかし、なぜこんなことばかり思い出すのだろう。


 自分は悪い父親だったのだろうか。


 カレンダーは12に丸がしてある。


 時計の針を見るのはやめにする。




 ケセラセラの他にも思い浮かぶ曲があった。


 テンペストだ。


 その曲が思い浮かんだ時、私はピアノを弾いている自分の指を見た。


 その音は、私が弾いているピアノからこぼれ出ているものだった。


 私が演奏を終えた時、私は会場にあの少女の姿を探した。


 彼女は立ち上がり、涙で顔をくしゃくしゃにしながら、ひたすら拍手をしていた。


 他にもたくさん観客はいたようだが、まるでスポットライトが当たったように彼女のところだけが明るく輝いていて、私は彼女だけを見つめていた。


 その後、私は耐えられないほどの身体の痛みに襲われ、一刻も早く舞台を後にしようとした。


 しかし、私の目が、舞台の袖にぺたんと座り込むようにしている女性の姿を捉えると、私は一瞬歩き出すのをためらった。


 なぜためらったのだろう。


 それは思い出せない。


 たぶん、彼女の泣き顔を見て、何かを言いたくなったのだ。


 いったい彼女は誰なのだろう。


 二月十五日 三時十分。




いったい、今はいつなのだろう。


 お母さんは僕を一人にしていったいどこへ行ってしまったのだろう。


 いや、たしかこの後、お母さんはすぐに帰ってくる。


 ほら、玄関の扉を開ける音がした。


 おかしいな。


 リウが鳴かない。


 リウは何をしているのだろう。




目の前を大きな川が流れている。


 大きいといっても、深さはさほどでもなさそうで、ちょっと勇気を出せば、簡単に渡れる程度のものだ。


 川岸は色とりどりの小さな花で埋め尽くされ、小さな木の枝では小鳥たちが楽しそうにさえずっている。


 春なのだろう。


 モンシロチョウがひらひらと舞っている。


 空は白く、視界全体に白いもやがかかったように見える。


 私はその中でただ一人立ちつくしていた。

 

 私は迷っていた。


 この川を渡るか否か。


 私にはどうしたら良いものか判断がつかなかった。


 記憶喪失になった直後の人間はきっとこんな感じになるのだろう。


 ふと気がつくと、私は対岸に明日香とリウを見つけた。


 リウは、私が小学生の時、寂しいだろうと母が飼ってくれたゴールデンリトリバーだ。


 毎日のように喉もとで涙をこらえるようにして家に帰った私は、どれだけリウに慰められたことだろう。


 リウは、私が二十二の時に死んでしまった。


 その頃フランスで暮らしていた私は、リウの最期を看取るべく日本へ戻ったのだ。


 久しぶりに私の姿を目にしたリウは必死に立とうとした。


 しかし足に力が入らず、滑るように前足が横に開いてしまう。


 私はリウの首に抱きつき、体を支え、思う存分顔を舐めさせてやった。


 リウは私の涙を舐めた。


 小さな頃、何度も何度もそうしたように。


 対岸のリウは若い頃のリウだった。


 今にも吠えて川を渡ってきそうだ。


 しかしいくら待ってもリウはこちらへやってこようとはしなかった。


 リウは待っているのだ。


 私は川を渡る明確な理由を見つけた。


 渡ろう。


 渡って明日香とリウを思い切り抱き締めてやるのだ。

 

 そう決心して歩き出したのだが、どこからか視線を感じた。


 立ち止まって辺りを見回すと、遠くに少女の姿が見えた。


 あの少女だ。


 もう一度対岸を見る。


 明日香とリウはまだ待っていた。


 少女に目を戻すと・・・少女はすぐそばまで来ていた。


 私はずっとこの少女に会いたかった。


 彼女は両手に水を溜めるようにして何かを持っていた。


 そして、それを私に差し出した。


 私はそれを注意深く受け取った。


 そっと手を開くとそこには小さなセキセイインコがいた。


 小さな体なのに、それはとても温かかった。


 私は思わず微笑んだ。


 しばらくしてふと対岸の明日香とリウが気になり、顔を上げると、もうそこに二人の姿はなかった。


 どこへ行ったのだろう?


 手の中のインコを見ながら考えあぐねている私を見て彼女は笑った。


 そして、彼女は自分の手を私の左手にのせてきた。


 手をつないで欲しいのだろうか。


 私はインコを落とさないように片手に持ち替えて、彼女の手を握った。


 彼女も私の手を握った。


 二度「ぎゅっぎゅっ」と。


 そして彼女は「おじさん」とかわいい声を出した。


 彼女がしゃべるのは何か不思議な気がしたが、私も何だか嬉しくなって彼女の手を二度強く握った。


 彼女は笑いながら少し痛そうに顔をゆがめた。




 彼女の小さくてやわらかな手のひらの感触があまりにリアルに感じられた時、私は知らぬ間にまぶたをほんの少し開けていた。


 私の目には、私を見つめる一人の少女の姿が映っていて、それは手を握ったあの少女だった。


 これは夢なのだろうか。


 私はどうにかしてそれをはっきりさせようとしたが、結局それが現実だという確信は持てなかった。


 しかし、今はもう、そんなことはどちらでもよかった。


 私はこの子にずっと会いたかったのだ。


 ほんの少しずつ眠りから覚めるように意識を取り戻していくと、彼女の隣にも見覚えのある顔があることに気づいた。


 それは、あのテンペストを弾いたときに、舞台の袖にいた女性だった。


 私はきっとこの女性とも親しかったのだろう。


 彼女の目を見ていると、切ない程に懐かしさが込み上げてくる。


 私は、この二人に会えて嬉しかった。


 いや、嬉しかったというより幸せだった。


 私の人生も案外捨てたものではなかったのかもしれない。


川の対岸では、明日香とリウが私を待っていた。


 私は、もう迷わなかった。


 私は川を渡った。





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