第6章 やがて私は途方に暮れる
そう、確かに涙が光っていた。
まるで今しがた殺された無念を、友人に伝えるかのように。
かつて友人だったもの。それは冷たく変わり果てた肉塊。
彼女のポケットからは財布が抜き取られ、見事に札と小銭が抜かれていた。
露骨であからさまな、それは見えない誰かの宣戦布告。
死体なんて捜せばいくらでも転がってるだろうに、わざわざ殺して奪ったのだろうか。
そう思うと、その理不尽な死に怒りが込み上げてくる。
殺した犯人に対してもそうだが、あっさりと死んで、冷たくなっている友人にも。
「簡単に死んでんじゃないわよ、まったく」
優美の死体のそばに腰を下ろすと、もう夜の帳が下りた町の、遥か遠くを見つめる。
死は恐ろしい、もっとも忌むべきものだ。
しかし、こんな風になってしまった世界では、いっそ死んでしまっている方が楽かも知れない。
「百合の花なんて咲かせる前に、彼岸花添えさせてどうするのよ」
空きっぱなしの目を閉じてやり、頬の涙を拭ってあげた。
墓を掘ってやりたいとも思ったが、そういう道具も、掘れそうな地面も見当たらない。
だが、そのままにしておくのは、あまりにも忍びない。
服も破られ、白い胸が露わになっている。最も忌まわしい現実が、そこには横たわっている。
やはり一人では危険だった。殴ってでも止めるべきだったのだ。だが、今さら後悔しても遅い。
人生はゲームのように、セーブもロードもできない。
なるべく平静を装いながら、棺桶の代わりにできそうな、大きな衣装ダンスを見つける。
中に入っていた服は、意外にも自分のサイズとほぼ同じだった。
袖を通すと、かなりジャストフィットする。
「胸が少し足りないわね。でも、気にしたらいけない。どこかの偉い人は、女の人を胸の大きさで判断するのは良くない事だって歌ってるわ」
こんな状況でも、少しくらいはふざけていないと、冷静さが音を立てて崩れ落ちそうになる。
だから平静を保って、できるだけいつも通りを装うのだ。
悲しいと思うから悲しい。辛いと思うから辛い。
心の痛みを、自分の心のナイフで抉る。
私は悲しくない、辛くない。
「あの世で私の好きな天安堂のマロンエクレア買って、ちゃんと待ってるのよ優美。先に食べてたりしたら、お尻ぺんぺんだからね」
自分もあまり長くはないかも知れない。
楽園なんて、そもそもあるかも分からない。
けれども、貧乏くじならもはや引き慣れている。
くすりと、夏子は自嘲気味に笑った。
一瞬、死んで動かなくなっている優美の顔が、自分の今の姿に重なる。
まるで自分の行く末を暗示しているようで。
今さら経験の無いねんねじゃないとは言え、レイプされて殺されるなんて、やっぱりごめんこうむりたい。
けれども、誰かと安易に手を組めばいいというものでもないだろう。
信用できる理由は? 根拠は? 女性同士ならば安心できる?
そんなことも考えたが、力の弱い者同士では、せいぜい話し相手ができるくらいだろう。
それに、女だから信用できるというのも甘過ぎる。
いよいよ末期的なこの場所で、都合の良い仲間なんてそうそういない。
「あっ、女がいるぞ」
男の声に、夏子は思わずその場に凍り付く。
ぼんやりするにも程があるだろう私。
ああ神よ。女子高生みたいなトークしてる神よ。
私に何か恨みでもあるのか。
確かにあんたにちょっとムカついたけど、それだけで神罰か?
思わず歯を噛み締め、次に諦めを含んだため息が出た。
ゲームオーバー? まさかね。
三徳包丁もあるし、いっそ戦ってみようかしら。
「ちょっと君、僕達は危害を加える気は無い、安心してくれ」
背中越しに声がする。
そんな事、今これから私をレイプしてやろうって奴でも言える。
つーか本当に安心して欲しいなら近付かないで欲しいんだけど。
と、思っても言えない。
いざとなると自分の弱さに腹が立つ。
腰に挿した包丁、きちんと戦いの武器にできるだろうか。
「こっちを向いてくれないかな。僕達はあなたと争うつもりは無いよ」
僕達? ってことは二人以上か。上等だよ畜生。
振り絞った勇気は、その手に包丁を持つ力を与えた。
まさにそれはほんの一瞬、まばたき程度の時間。
こつりと男の額に切っ先が当たる。
眼鏡のひょろっちい男の額から、たらたらと血が流れ落ちた。
何も持っていないことを示すように、両方の手は小さく万歳をしている。
男はさして抵抗する様子も無く、少しぎこちないながらも笑みを浮かべた。
「は、始めまして、僕の名前は柳勉、あっちでボウガン構えてるガタイのいいのは三木原毅、そこで亡くなってる彼女を殺したのは僕達じゃない、信じてくれ」
「証拠は?」
「うーん、無いんだけど、そうならボウガンだけじゃなく、僕自身も武器を持って、今すぐ君を脅してもいいんじゃない?」
「それもそうね」
優美の腹には、致命傷になったらしい大きな何かの刺し傷が残っている。
おそらく夏子の持っているような包丁か、サバイバルナイフ辺りで刺したのだろう。
それに、相手は男が二人。
どうせ抵抗したところで結果はかなり危険だ。
暴れてもメリットは少ないと考え、夏子は包丁を腰に戻した。だが、気は抜けない。
「やれやれ、本気で殺されるかと思ったよ」
「仮にも私は女性なの、もう少し気を遣って声を掛けて欲しいわ」
言いながら、ちらりと優美の遺体を見る。
あのタイミングでは、犯人登場と誰もが思うでしょうと、目で二人を非難した。
さすがにこれには、勉も毅も申し訳ないと頭を下げざるを得ない。
「戦争が終ってまだ時間も経ってない上に、変な神とか降りてきたり、友人がこんな風にされたりで気が立ってたの。こちらも謝るわ」
「気持ちは分かりますね、せめて一緒に冥福を祈らせてくださいませんか」
毅が提案すると、夏子はきょとんとした表情を見せた。
「やけに礼儀正しいのね。見た目でもっと怖い人か思ったけど」
「あははっ、よく言われますよ。でも、建築関係に勤めていれば、もはやあいさつ代わりみたいなものですね」
「なるほど。ちょっと意外だったわ」
「まあ、頭が弱い分は体でカバーしないといけませんから。ちなみにこっちの勉は俺と違って、大学院生だったらしくて、理系のエリートらしいです」
「なかなか心強いわね」
「ところで、君島さんも楽園希望ですか?」
「他にすることも無いしね。仕方ないから」
「ようし三木原君、三人で頑張って九千万円だ!」
ひょろっちい勉が胸を張り、自信満々で胸を叩く。その姿は、対照的でどこか滑稽だ。
「勝手に仲間にしないで」
「わかったから、包丁の柄で僕の額をつつくのはやめてくださいよ!」
「三木原さんの方にやると後が怖そうだから」
「正直ですね……」
「よく言われるわ」
取り付く島さえ与えない。
あくまでも二人に気を許したつもりはなく、仲間になるかも決めてはいない。
むしろ、勝手な勢いとハイテンションで押し切ろうとする辺りに、夏子の中では既に不信感が湧き始めていた。
この二人はいざという時、きっと私を裏切る。切り捨てるだろう。
覚悟を決めれば、犠牲になる前に何とかなるか?
それはきっと、天の神のみぞ知ることだ――