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爪の音  作者: 一人旗目
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第39章 カミサマのお願い

 人生は曇りのち晴れ、だったはず。

 戦争は終わった。

 神は死んだ。

 そしてゼロから新しい一歩を踏み出す。

 それは小さな一歩かも知れないが、人類にとっては偉大なる一歩となるはずだ。

 貧しくとも、文明は無くとも、私達は徐々に復興の道を辿っていく。

 それこそが歴史に学んだ私達が生きる今であり、進んでいく未来。

 私達は手を取り合い、助け合って生きていく。

 陽の当たる坂道を上っていく。

 しかし、未来に向かう現実とは往々にして、実に嫌な友達として尋ねてくる。

 かゆみ止めを塗って応急処置をしたとは言え、そんなものは数日もすれば効果が無くなるだろう。

 さらに、クリスが言うことが本当ならば、骨や眼球、内臓から、果ては全身が痒くなり、その痒みを解消するためには、他人の体の一部を掻かねばならなくなることもあるという。

 あまりにも悪趣味。

 あまりにも非道。

 絶望する夏子にクリスは問いかける。

「先生は何歳の時、水ぼうそうになりましたか?」

「いきなり何よ……」

「私は十五歳の時に経験しました。

 通常は小学生くらいでなってしまうものですが、成長してからの水ぼうそうというのは、実に厄介で、地獄のような苦しみなのです。

 体中にフジツボのような疱疹が広がり、その全てが痒いのです。

 いえ、痒いという言葉で表せるようなものではなく、それは地獄そのものでした。

しかし、掻けばその跡がずっと残ると言われ、掻くことができません。

 少しでもそれを我慢するため、手足を抱え、だんご虫が丸くなるような格好でうずくまります。

 でも、そんなもので痒みが治まるわけもありません。

 ほんの少し、背中をパジャマがこすれるだけで、快感と不快感の両方が全身を駆けめぐります。

 苦しくて辛くて、何度自殺を考えたか分かりません。

 両親に訴えると、祈りなさいと言われるだけです。

 医者に行きたくても、行くお金が無いと言われ、水ぼうそうなんて放っておけば治る病気だから我慢しろと言われます。

 母が買ってきてくれたかゆみ止めを塗ると、一時的にだけ痒みが止まりますが、このままでは死んでしまう。

 そう思った私は、近所の小さな病院に逃げ込むようにして相談をしたところ、お医者の先生が両親に入院をさせるよう、むりやりねじ込んでくれたのです。

 私の人生で辛かったことは、殴られた事でも蹴られた事でも、ご飯を抜かれた事でもなければ、いじめで靴を隠され、靴下のままで家に帰ったことでもありません。

 水ぼうそうになった時に放置され続けた、あの期間なんです。

 だから私は、正確に言えば本物の私は地獄を創る際に、その経験を参考にしました。

 それがこの罰ゲーム『爪の音』です。

 そして、その罰ゲームを終わらせるために必要なのは、私という存在が、完全に死ぬこと以外にありません」

 淡々と語る彼女の顔は、まるで無表情で、何を言いたいのか理解するのに少しの時間を要した。

 だが、言いたいことが分かるとすぐに、夏子はクリスの肩を掴む。

「何が言いたいの……」

「先生、私を殺してください」

「軽々しく言うんじゃない!

 命を何だと思ってるの?」

「でも、私はたくさんの人々を犠牲にしました」

「それはあなたがやったんじゃない。

 それをした張本人は、もう死んだんでしょう?」

「けれども、行ったのは私に間違いありません」

 その言葉に、今度は仁がずいと体を乗り出す。

「言ってる意味がさっぱり分からないね。

 馬鹿の俺にも分かるように、ちゃんと説明してくれるかな」

「それは……」

 言いよどむ夏子に代わって、クリスが口を開く。

「かしこまりました。陣内さんもまたこの件の犠牲者。

 知る権利があります」

 そして、クリスは自分が神の分身であること、この罰ゲームを終わらせる為に自分が死ねば終わる事を、簡潔に説明した。

 通常であれば笑い飛ばすような与太話だが、彼もまた夏子と同じ、彼女の異常に気付いていた。

 それは同じく、クリスがまばたきをしないという事だ。

 その事を仁が言うと、彼女はにっこりと笑い、作り物に必要の無い機能ですからと感情のこもらない声で答えた。

「なるほど、事情は理解した。

 それでクリスさん、あんた覚悟はできてるのかい?」

「はい。これは私が背負うべき罪です」

「手を出しな」

「こうですか?」

 そっとクリスが差し出した手に、仁はナイフを突き立てる。

 たらりと血がこぼれ落ちた瞬間、夏子は彼をひっぱたく。

「何するのよ!」

「このお嬢さんの本気を確かめてる」

「あんた頭おかしいんじゃない?

 クリス、包帯はえーっと……あー畜生!

 タオルしか無いわ! ごめん、これで何とか止血できるかな?」

 夏子が差し出したタオルを受け取らず、手から血を流しつつも、クリスは平然と首を横に振る。

「痛いですね。けれども、たくさんの人々が、もっと苦しんでいるのでしょう」

 その質問に、仁は血の付いたナイフを拭いながら答える。

「ああ、こんなもんじゃない痛みにのたうちまわって、しまいにゃあ自殺までしてる」

「取り返しがつかないこと、という言葉がありますが、私の行ったことがまさにそれなのでしょう」

「まったくもってその通り。

 あんたが死ぬことでこの悲劇の連鎖が終わるなら、とっとと死んで詫びを入れろ。

 それがスジってものだろう、違うかいお嬢さん?」

「陣内さん……うちの教え子にこれ以上手を出したら、分かってるでしょうね……」

「カタギの世界でのんびり教師をしてた女と、真正面からやりあって俺が負けると思うのかい?

 おめでたいねえ、ハハハハッ!

 クリスマスと正月と誕生日が、頭の中で茶会ティー・パーティーでも始めたか?」

「腕をちぎられても、足をへし折られても、あんたの喉笛を食いちぎってからじゃないと死ねないわ。

 分からないかも知れないけど、誰が何と言おうとクリスは私の教え子、大切な生徒よ」

「やってみるか、小娘?」

「上等だよヤクザ野郎」

 そんな二人の間に、そっとクリスは割って入った。

 もし一秒でも行動が遅れていたら、夏子は確実に胸元が涼しくなっていたことだろう。

「お二人とも、藤次君が起きているのに気付いていますか?」

 二人同時に振り返ると、そこには小さな体を震わせ、声を殺して泣いている藤次がいた。

「ごめっ、ごめんなさい。

 僕が悪っ、悪いんです……ひぐっ……」

「ガキが一人前に謝るんじゃねえよ。

 そもそも、感染したのはお前が悪いせいじゃない」

「そうよ藤次君。あなたは悪くない」

「でも僕の病気が治るためには、このお姉ちゃんが死ななきゃいけないんでしょう?」

 藤次のそばに膝を突き、クリスは彼を優しく抱きしめる。

「ごめんね藤次君、お姉ちゃんはとっても悪い人だったの。

 だからね、償いをしなきゃいけない。

 藤次君も友達とけんかしたら、ごめんなさいってするでしょう?

 それと同じ、大人には大人の、ごめんなさいがあるの」

「やだよお……僕が我慢するから、お姉ちゃん死なないでよお……」

「君がそう言ってくれるから、お姉ちゃんは君を助けたいと思うよ」

「ぐすっ……だめだよお……だめだから……」

「ねえ藤次君、お姉ちゃんの体は温かい?」

「うん……」

「お姉ちゃん、人間みたいに見える?」

「人間だよ」

「ありがとう」

 つくりものじみた彼女の顔が、嬉しそうにほころんだ。

 誰よりも人間らしいその笑みは、写真のように心にいつまでも残ることだろう。

 気が付くと夏子もひざまずき、涙を流していた。

 もはや避けられない運命。

 自分は覚悟を決めねばならない。

 きれい事だけで生きてきて、結局口先ばかりで汚れ仕事なんてしなかった。

 そんな自分が今、最もしてはならない禁忌を犯そうとしている。

「先生、私が死ぬ前に一つだけ、お願いしたいことがあります」

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