第3章 未知なる世界に三千万円を求めて
そんなやり取りがあってから、丸一日が過ぎようとしている。
数日分の食料と水を確保し、ぼんやりと遠くを眺めている間に、今日だけでも三人は遠くに人影を見た。そのうち一人はこちらに気が付くと、敵意が無い事を示しながら近付いてきて、軽い世間話を交わした。
少し薄汚れたが、割とまだ清潔なポロシャツにジーパンを穿いた、中年の男性だった。
持っていたキャラメルをあいさつ代わりに一つくれると、彼は私に問いかける。
あなたは楽園には行かないのですか? おおよそ分かりきった質問だ。
彼もまた、善意で言ってくれているのは分かっている。
だが、水や食料に困っているとは言え、まだ少し頑張ればコンビニやスーパーの残骸から保存食を確保することは比較的容易だ。
そのせいか、意外と相手が男でも、敵意を感じさせるような人間に出会う事は今のところ無い。
若い女性一人では危険だ、一緒に行かないかと誘ってはくれたが、かつての友人だった優美以外には、あまり係わり合いになるつもりは無い。
純粋な善意から言っているのかも知れないが、それでも何か下心があるような気がして、異姓にはいまいち心を開くことができない。
結局、少しだけ気まずい空気を残して男は去っていった。
再び静まり返ると、少し広い壁の残骸に寝転がる。
遠くに東の空が目に映った。
「ま、いいけどさ。今さらレイプされるなら、むしろこっちからハメてやるわ」
絶望が一回転して開き直り、もはや悟りの域に達している。
君島夏子。二六歳独身はまだ、女盛り花盛り、恋に恋する乙女にございます。
彼氏居ない歴六年、ちょっと渇いています。
「そう、欲しいのは潤い! もうすぐお肌の曲がり角なのよ!」
自分でも何を言っているのか分からなくなってきたが、それでも絶望するよりはいい。
暗いことを考えると、死にたくなる。
優美はとろくて少し抜けたところのある友人だが、天然ボケで明るくて、戦後の荒んだこの世界に於いては、自分にとって必要な存在になっていた。
ああでも、決して百合の花満開なんかじゃないんだぞ。
リリーフラワーがオープンなんて、そんなことは無いんだから!
そんなことを思いながら、不意に体を起こして辺りをきょろきょろ見回してみる。
ひょっとしたら半べそになって、或いは、照れくさそうな顔をした優美が戻ってきているのではないか。
しかし、どこまでも続く蒼い夜には、人の気配など感じられない。
街が、国が、星が、死に瀕している。
世界はその横顔を変える事はなく、吹く風さえもどこか金属的で冷たい。
「独りぼっちって、想像よりずっとつまんないな」
目を閉じればあの頃の日常と、三年F組の教室がまぶたの裏に浮かんでくる。
県立桂崎高校に教師として就任し、生まれて初めて担任を受け持つこととなった。
うるさい子がいて、大人しい子がいて、少し不良っぽい子もいれば、ずば抜けて勉強ができる子もいる。
新米教師として過ごした時間は、騒がしくて温かくて、ぬるま湯がゆっくりと流れる、小川がせせらぐ音に耳を傾けるような日々だった。
いじめや学級崩壊などが起きないよう、できる限りの注意を払い、私らしい教育とは何かを常に考え、日々を生きていく。
たまの週末は優美と会い、学校教師だって大変なんだよと酒を飲みながら話をする。
でも、その大変な日々が嫌いじゃないと、私は苦笑いしてグラスに口を付けた。
そんな回想をしていると、どこからか乾いた映写機の音が聞こえてくる。
からから
からから
薄いクリーム色のスクリーンに映し出されるのは、まぶたの裏に焼き付いていた過去。
手を伸ばせば届きそうな気がするのに、触れようとした瞬間に全ては消える。
夢想から目を覚ました時、ぼんやりと込み上げる現実に、頬を涙が伝っていた。
「みんないい人で、いい子達ばかりだったのに、ね」
東の空には、風に揺れるカーテンのように光が揺らめいている。
雲間から除く金色の帳。
逢魔ヶ刻の幻のように、それは妖しく揺れている。
「楽園に行けないと罰ゲームかあ」
思い出を心の奥にそっとしまうと、神とはいったい何かと考える。
彼女は戦争で滅亡寸前まで自分達を追い込んだ人類を軽蔑し、馬鹿にしている。
仮に三千万円を用意するために、何人も罪無き人々を殺した鬼畜が居るとしよう。
神はそんな人間を、金さえ用意すれば楽園に招待するのだろうか。
一万人もまともな手段だけを用いて、三千万円用意できる?
普通に考えればあり得ない。
そう考えると、三千万という変に中途半端な数字と、現金と言う具体的な欲望の権化は、白々しい罠のような気がする。
例えば欲に目が眩んだ人間を騙し、まとめて処理するとか。
「でも、それは絶対じゃない」
声に出して自分に確認をする。
そうかも知れない、という予想であって、罠だと決まったわけではない。
そもそも神が嘘を吐いてどうする。
だいいち、あんな渋谷のセンター街に一山百円で売っていそうな、頭の悪い女子高生言葉を使うような女神が?
考えれば考えるほど、夏子は頭痛がしそうになってくる。
そもそも明日をも知れぬ身で、水や食料の心配をしなければいけないのに、なぜこんなことにまで神経を使わされるのだろう。
そう考えると、開き直っていた心が、今度は神に対する怒りへと変わってくる。
「あーもう、うざったいわ!」
こうなったら確かめるしかない。
夏子は思い立ったら即、行動に移す方だ。
まだ夜はこれからだと言うのに、ありったけの食料をぼろぼろのリュックに詰め込み、光が射す方を目指して歩き出した。
一応腰には三得包丁を差している。
喧嘩に自信は無いが、何を今さら恐れるものか。
失うものなど命だけだ。
いや、正確に言えば怖いのだが、こういう時に限って人の心は得てして、良い方に物事を考えてしまいがちになる。
怖くない。
そう思い込むことで、本当に怖くなくなる。
むしろ、映画などで危険を回避し続ける主人公のように、自分もそうなるのではないかという、漠然とした自信が湧く。
とにかく前に進むことで、何かが変わり、何かが分かるような気がした。
どちらにせよ、このまま留まり続けても近いうちに食料は底を尽く。
目的を持つことは、死や絶望的な未来から自分を少しでもごまかしてくれる。
心は今、空気の抜け続ける風船も同じ。空元気でも、中に入れねば壊れてしまう。
「楽園だ! 優美待ってろ、私の方が先に到着してやる!」
意気揚々と口に出し、ポケットの中にある財布の中身を確認すると、今や意味の無いクレジットカードが三枚と、三万二千円だけが残っていた。
「よし、あと二九九六万八千円!」
………
……
…
「にっ、にせんきゅーひゃくきゅうじゅうろくまんはっせんえん!」
繰り返すとくじけそうになる。
頑張れ自分。超頑張れ。
言っていて、涙がこぼれそうになると、ぐいっと金色の空を見上げる。
かつて坂本九が上を向いて歩こうと歌っていたのは、まさにこういうことだったんだ。
さすが日本人初のUSAでビルボードのランキングトップを飾ったアーチスト。
危機的状況だからこそ身にしみる、それはまさに知恵袋。
なのに、溢れ出した涙はやっぱり、頬を伝って地面に落ちる。
強引に袖でそれ拭うと、銀行が集中している駅の方に向かって夏子は歩き出した。