第38章 覚めない悪夢のこれから
クリスティ・カデルの話は、まるで寝物語のように感じた。
或いはこの極東の島国で誕生した、千夜一夜の物語。
気が付くと、夏子は声を殺して泣いていた。
別に理想主義者であろうとは思わない。
自分は徹頭徹尾の現実主義者だ。
三五人もいるクラスの中で、全員を理解できると思う方が無理があるし、取りこぼす生徒が出る事だって必然で仕方の無いことだ。
けれども、大きな問題を抱えた生徒や、本当に悩みを抱えている生徒に対して、自分は体当たりで接しようとしてきた。
ドラマのような、映画のような、そんな教師になりたかった。
別に取材されたり、全国のお茶の間に知れ渡りたいとは思わない。
ただ、ちっぽけでもくだらなくても、世界が平和だったあの時代、自分は教職者としての誇りを持っていた。
精一杯の仕事をして、取り組んでいて、小さなSOSの声も聞き漏らさないようにしていたつもりだったのだ。
だが、それは結局「つもり」でしかなかった。
そして自分の思い込みは、新しい大惨事を引き起こす事となる。
三千万円のカネを巡って争った人々。
喉や頭を掻きむしる病に陥り、死んでいった人々。
見知らぬ誰かに殺されてしまった、大切な幼なじみの木戸優美。
もし自分が教師としてあるべき仕事をしていたならば、二次破綻とも言うべき、この悲惨な状況を回避できたかも知れない。
そう思うと、情けなさと同時に、込み上げてくるのは果てしない後悔の念。
しかし、後に悔いると書くように、もはや自分ができる事など何も無い。
このクリスがまばたきしないのは、死んだ本物のクリスの残りものだからかも知れない。
今さらながら思い出してみれば、あの腹の立つ声をした女子高生は、確かにクリスティ・カデルそのものだ。
その時に自分は気付くべきだった。
気付いて、何が何でもその馬鹿なたくらみを辞めるように諭す。
それはきっと、自分に与えられた「仕事」だったのだろう。
もしもあの時、もしも自分が、もしも止める事ができていたなら。
考えれば考えるほどに、自分の無能さが鼻につく。
死んでいった人々の無念を考えれば、死んでも死にきれるものではない。
けれども自分に、何が出来ただろう。
教職者としての私は、本当はすごく無力な存在じゃないか。
この状況で、私には何が出来たと言うんだろう。
ああでも、それでも、やっぱり、私は。
「私は……何をしていたんだろう……」
「先生は悪くありません。きっと誰に何を言われても、もう一人の私はこの復讐を行った事でしょう」
「でも私は!
私は教師として!
あなたの担任として!
やるべき事があったはず!」
泣き伏す夏子のそばで、クリスはいつくしむような目をして言う。
「既に終わっている出来事を、歴史と人は呼ぶのです。
過ぎ去った時間と共に全ては歴史となり、私達は今と未来を生きるために、歴史を学ぼうとします。
それは決して後悔するためや、懺悔するためにあるのではなく、同じ過ちを繰り返さないためにあるのです。
――と、先生は最初の授業の時、おっしゃったでしょう?」
静まり返る世界に冴え渡る、それはまるで魔法の言葉。
今まで両肩に力を入れて、ハイヒールを履いたように背伸びをして、生きるために必死だった夏子にとって、かつて自分が教えたはずの、大切な事を教えられている。
嬉しさと恥ずかしさがないまぜになって込み上がり、どんな表情をしていいのか分からない。
ただ照れくさくて、嬉しくて、つい下を向いてしまう。
なのに涙は止まらない。
現実が、横たわっている。
「先生の一生懸命な姿を見るのが、私はとても好きでした。
だから先生、これからも歴史を学び、今を生きる私達に、色んな事を教えて下さい。
先生がこの世界でこうして生き残っているのは、きっとそのための神の思し召しです」
「神の思し召しって、クリス、こんな時まで冗談きついわよ」
夏子の言葉に、クリスは小さく首を横に振る。
「いいえ先生、信じるか信じないか、居るか居ないかは関係無いんです。
やっぱり神は私の心の中にいらっしゃって、全ての人々を見守っていると思います。
実際の神として、戦後にさらなる混沌を招いた罪深い私ですが、私などが神を名乗る、その事自体がやはり、おこがましかったのではないかと思います。
そして私は自分が生まれ、やがて死ぬことの意味をこれからも探そうと思います。
先生はそのために必要なもの、大切なものを教えてくださいました。
言葉に出来ないほどに、私は感謝しています」
クリスは夏子に深々と頭を下げる。
それは彼女なりの、最高の感謝の表れだった。
本物だったはずのクリスが死に、偽者であり残り物だったはずの自分がこうして生きていることには、何らかの理由がある気がする。
だが、それが何なのか分からない。
だからこそ、生きて探してみたいと思う。
奪われる命があれば、生まれる命がある。
そして、今自分のお腹の中には、景人が残した命が宿っている。
「おーい、新しいお仲間さんか?」
背中の方から声がする。
振り返ると、藤次を背中に背負った仁がこちらに向かって、ゆっくりと歩いていた。
ちょうどいい機会だ、クリスの事を二人にも紹介しよう。
そして、これからの事を一緒に考えよう。
「彼女は私が教師だった頃の教え子で、クリスティ・カデルよ」
「クリスです。初めまして」
深々とお辞儀をするその姿は、血まみれの修道服姿と相まって、どこか不思議で、神秘的な印象を与える。
相変わらずまばたきをしないクリス。
だが、それは本体ではないことによるものだろうか。
もし仁と藤次が気付いたら、ちゃんと説明してやらねばならない。
彼女は悪くない。
むしろ責めに帰すべきは自分なのだと。
「初めまして、俺は陣内仁と言います。
英語じゃなくても大丈夫ですか?」
「はい、むしろ日本語しか喋れませんから」
「なるほど。ちなみに俺が背負ってる、後ろで可愛い寝息を立ててる奴は向山藤次だ。
名前が違うところから分かるとおり、俺や君島さんの子供じゃない」
「お昼寝の最中なら、静かに話さなきゃいけませんね」
「ああ、そうだな。ところで君島さんよ、ちょっと話があるんだが」
「何かしら」
「最悪のお知らせだ。藤次が感染しちまった」