第35章 クリスの思い
チキチキチキチキ
使い古されて、錆びたカッターナイフの刃を出したり引っ込めたり。
祈って祈って祈り抜いても、私の生活は変わらない。
あれから一年、そして三年、気が付けば五年経過した。
私は清く、正しく、つつましくあった。
常に神の教えを胸に、神の意向に沿った生き方をしてきた。
けれども、世界はだんだんと色褪せていき、私の人生はまるで下り坂を転がる岩のようだった。
くだらない。
つまらない。
なぜ生まれたんだろう。
私も誰かも、皆死ねばいい。
それは狂った欲望で、本当は救われたいという叫びの裏返し。
小利口な私は、自分が狂いたくても狂えない。
その程度の事は理解していた。
だが、そんな私と私の家族にも転機が訪れる。
ある時、私達は賃貸のマンションから、庭のある一戸建ての家に引っ越した。
一軒家を購入できたのも、信心深かったからだと父は言い、母も私も同調した。
幸せになる私達。
光の階段は目前に。
私は今まで以上に祈り、感謝した。
私はやっと、いじめる子のいない学校に転校したのだ。
これはきっと、私と家族が清く正しくあったから。
祈りが通じたからに違いない。
私はここで始まる新しい生活に、きっと満足するに違いない。
だって神様がくれた、最高のプレゼントだから。
そんな風に考えていた。
けれども世の中は、私が思うようには、神様の理想のようにはできていない。
いじめというのはどこに行っても付きまとう問題で、きっと人類が滅びるその日まで、無くなる事は無いだろう。
結局日本人らしくない私に、居場所などできないのだ。
異物は排除する、それがシステム。
いや、異物であったとしても、自ら努力すれば良かったのかも知れない。
今となっては分からないことだ。
そして、一軒家を買えば幸せというのもまた、場合によっては幻想の毒薬だ。
父は三千万円の住宅ローンを抱え、必死で働いた。
働いて、働いて、祈って、働いて、祈って、また働く。
なのに、会社は倒産した。
なぜか私は殴られた。
お前の祈りが正しくないから。
祈りが足りてないからだと。
母は黙って祈るだけで、私の味方も、父の味方もしない。
だから私はもっと祈った。
強く祈った。神の足下にすがり、自分と家族と世界の平和を祈り続けた。
それはまるで消耗戦。
兵糧攻めに遭っているようなもの。
なぜなら心はすり減って、継ぎ足される事は無いからだ。
チキチキチキチキ
カッターナイフの音が聞こえる。
チキチキチキチキ
静かな狂気。
私の友達。
家族と世界と血と刃物。
私は夢想する。
当たり前のように生きる私。
自由な私。
奔放な私。神を信じない私。
例えば渋谷のセンター街辺りにいるような、テレビでよく見かける女子高生。
あんな風になりたい。
頭空っぽにして騒ぎたい。
分かってるよ。
本当は彼女達だって考えたり悩んだり、色々あるってことくらい。
ノートの隅に落書きしてみる。
黒髪で黒い瞳の、純粋な日本人の私。
日本人の私は誰にもいじめられなくて、カワイイものが大好きで、友達がたくさんいて、めいっぱい恋して、オシャレして。
あなたはクリス。
私もクリス。
どっちが本物?
どっちが偽者?
ねえクリス、教えてクリス。
私は私は私は私は、いったい誰が何なんだろうね。
ああ、お父さんの足音が聞こえる。
こっちに近付いてくる。
この時間に私の部屋に来るのは、私の祈りが足りないからって、殴りに来たんだ。
私は祈ろう。目を閉じて祈ろう。
痛くないよ、痛くない。
私は素直で純粋で、神に祈るしか能が無い。
私は求めます。愛を、救済を。
お願いします神様。
神様助けて。
カミサマタスケテ