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爪の音  作者: 一人旗目
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第33章 たぶん私は空気人形

「先生はやっぱり、私の事嫌いでしたか?」

「やっぱりって何よ。私はみんなの事、嫌いじゃなかったわ」

「だって先生……いえ、いいです……」

 さすがに声のトーンがおかしいんだろうか。

 それとも態度に不信感があるのか。

 かれこれ三十分くらい一緒に過ごしているのに、本当に一度もまばたきをしない。

 ロボット?

 ゾンビ?

 それとも?

 そもそも核戦争が起こったり、神が降臨したり、変な病気が蔓延したり、私の一生で全部使うぐらいのびっくりが起きた後なのに、なんでまだそこに追加されるかな。

 夏子としては、このまま走って逃げ出したらどうだろうかと妄想したり、何も考えずに顔をつねれば、夢オチになってベッドで寝ぼけた自分がいるんじゃないか。

 そんな風に考えて、とりあえず逃げるのは無理として、顔をつねってみるが、やはり頬に鈍い痛みが走るだけで、何も世界は変わらない。

 考えに考えたあげく、夏子は思いきって質問する事にした。

 もしも自分にとって敵なら、今頃は地面に自分の首が転がっていたり、身ぐるみはがれてもおかしくはない。

 つまり、クリスは少なくとも敵ではないのだ。

 と、決意した時点で不意に気付く。

 質問する、というのは、


『ねえクリス、何であなたまばたきしないの? 人間じゃないの?』


『ドライアイってあるじゃない。あれって病気の一種なんだよ。クリスは知ってる?』


『アンドロイドってさ、私は嫌いじゃないよ。

 カッコイイし、ロボット三原則とか、人間は共存をちゃんと考えてるんだから凄いよね』


 など、どれを聞いても失礼に当たるし、親切に答える前に、場合によっては相手の逆鱗に触れる事にもなりかねない。

 ただ分かっているのは、クリスは一度としてまばたきをしないということ。

開いたままの目は閉じられる事はなく、憂いを含んだ美しい蒼い目で、自分や景色を見ている。

そんな彼女が着ている修道女のような服は、べっとりと血に汚れている。

 この血が、下手な質問をしてはならないという心のブレーキを踏み、その場の空気を、流れを乱すことをためらわせる。

 考えれば考えるほど思考は迷路に迷い込み、出口から遠ざかっていく。

 そもそも、まばたきしない女って何よ!

 何で私が悩まなきゃいけないのよ?

 いっそ逆ギレして、よく分からない説教の一つでもぶちかましてやろうか、などと半分本気で思い始めた時に、クリスはぽつりと呟いた。

「先生と私が出会った時、私はもう黒髪で、カラーコンタクトをしてましたね」

「いきなり何?

 出会った時って、三年生の担任になって、ちゃんと話したのは確かゴールデンウイークの手前くらいだったかしら。

 私の趣味が映画を観る事で、アカデミー賞作品のDVDを一つずつ揃えてるってのを知って、貸して欲しいって言ってきたのよね」

「そうでしたね。

 それからも時々、先生にお願いしてDVDを貸していただきました。

 明るく振る舞ってるけれど、実は友達もいなくて、学校に来るのも苦痛だった私には、先生のそういう小さな気遣いが、すごく嬉しかったんです」

「友達、いなかったの……?」

「私も含めて、みんな女の子は良く言えば今時の、ギャルっぽい女の子ばかりでしたね。

確かにそれなりの進学校でしたが、みんな明るく元気で、むしろ元気過ぎるくらいで、おとなしい生徒はまるで空気のよう。

 そこにいても、目には見えないに等しい」

 まばたきをしない瞳で、彼女は寂しそうに俯く。

 彼女は一年生、二年生と金髪碧眼で、おとなしい生徒だったとは知っている。

 しかし、空気のように誰からも気にされない存在だったのか?

 そんなことはないはずだ。

 男子生徒達は時折美人の生徒がいると言って、クリスの名前を挙げていた。

 女子の間でも、あんな金髪は反則だと、やっかみ混じりに羨んでいた。

 むしろ空気と言うべき生徒は、他にもたくさんいた事だろう。

 この時点で既に、空気どころか周囲の耳目を集める、ちょっとしたマドンナ的存在だ。

 目立つのは構わない。

 個性があるのは大いに結構、むしろぐんぐん伸ばして欲しい。

 だが、逆に『空気のような生徒』などというのは、できれば存在してはならないのだ。 私は情熱を傾けた。

 精一杯の仕事をしていた。

 いじめ、仲間はずれ、落ちこぼれ、不登校、援助交際。

 そんな問題はどんなに模範的な学校に行ったところで、必ず一つや二つはある。

 どれほど目を皿のようにして気を遣っても、取りこぼされる生徒が出る。

 それでもせめて、自分が担任しているクラスの生徒くらいは把握しようと、自分なりに必死だった。

夏子はもう一度、頭の中で彼女が自分の生徒として、教室にいた時代を思い出す。

 クリスティ・カデル。

 三年生に進級し、春の始業式と同時に黒髪とカラーコンタクトを入れて、外見はまるで品行方正の鏡のようになった。

 しかし、言葉遣いはまるで正反対。

 誰とでもフレンドリーに、悪く言えば教師相手にも友人同然で敬語も使わず、自分に対しても砕けたしゃべり方をしてくる。

 だが、別にそれは不愉快な事ではない。

 彼女は成績も優秀だったし、校則を破るような事は何一つしていない。

 授業中の態度も真面目で、ごく一般的な生徒。

 それこそまるで空気のようで――

「私は……クリス……」

 はたと気が付く。

 いや、気が付いてしまった。

 しかし、それは事実ではない。あくまでも仮定の話だ。

 彼女は空気のようだった。

 限りなく透明だった。

 だから、自ら変わろうとした。

 いや、変わったのだ。

 しかし、その結果は決して彼女が予想したようなものではなかったとしたら?

 思えばクリスは一年生から二年生に掛けて、近付きがたい雰囲気を放っていた。

 その整った顔立ちは、アメリカと言うよりはヨーロッパ的な落ち着いた雰囲気。

 もちろんドイツ人である両親の血筋によるものだろう。

 そして、厳格なしつけを受けて育ってきた彼女は、身のこなしや言葉遣いを一つとっても、慇懃無礼と相手には感じられるほどだ。

 クリスは誰もが羨む金髪碧眼の美少女。

 しかし、それは女子生徒達から敬遠される原因となり、まるで美術館に展示されている、高名な彫刻家の作品のようにも見えるだろう。

 お高く止まった女。

 私達とは相容れない。構うことはない。

 無視に始まり、時には陰湿ないじめに発展する可能性だってあるだろう。

 そしてそれは、彼女自身が訴え出なければ、表面化する事もほぼあるはずがない。

 自分自身が高校生や中学生だった時、いじめはそこに無かったか?

 先生は必ず気付いていたのか?

 自分はいじめの存在を知って、何をした?

 ああ、ひょっとすると私は、とんでもない過ちを犯していたのかも知れない。

 今さら謝っても遅く、償っても償えないようなこと。

「先生、今の私は人間に見えますか? 透明ではありませんか?」

 血まみれの両腕を広げ、太陽の逆光を受けて私を見る。

 その姿は神秘的で気高く、痛々しくて悲壮感に満ちている。

「三年F組、出席番号八番。

 クリスティ・カデルは私の教え子。

 透明なんかじゃないわ」

 途中で詰まりそうになりながら、夏子は最後までその言葉を言い切る。

 それが今、彼女にできる精一杯の事だった。

 そして、夏子は彼女を抱きしめると、いつの間にか泣いていた。

 これから言われるだろう事に、恥と後悔と自責の念が強すぎて、自分ではもはやどうしようもない感情の重荷がのし掛かる。

 そんな夏子の耳元で、クリスは小さく呟いた。

 『神のご加護がありますように』

 笑えないブラックジョーク。

 なのに少しだけ救われたような気がしたのは、思い上がりじゃないと信じたい。

「先生とちょっとだけ、私に関するお喋りがしたいです」

「そうね。お茶でも飲みながらゆっくり話しましょう」

 ペットボトルに入ったお茶を渡すと、相変わらず作り物のような笑みを彼女は浮かべる。

 もちろん、まばたきしない瞳でこちらを見ながら。

「ありがとうございます。いただきます」

「礼なんていいわ。そこらにまだ、いくらでも転がってるから」

「くすくす。やっぱり先生はお優しいです」

「優しいなんて思えるほど、おこがましくも無いつもりよ」

 自分もまた、ぬるいスポーツドリンクを乾いた喉に流し込むと、複雑な感情を抑え込むように目を逸らす。

 ちらりと横目で見るクリスの顔は、少しだけ優しい気がした。

「では、そろそろ聞いてください。私が話す私の事を――」

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