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爪の音  作者: 一人旗目
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第30章 両手からこぼれ落ちていく

 光樹が死に、後を追うように睦美が死んだ。

 今が平和な時代だったならば、こんな自殺に手を貸すような事も無かっただろう。

 いや、それこそ普通の偽善者面をして、命の大切さなど説いたかも知れない。

 だが、今は新世紀が始まってすぐに訪れた世紀末。

 そして愛する人を失った時、生きる希望はどれほど簡単に崩壊してしまう事だろう。

 いくら死ぬな、生きろと連呼したところで、到底無理に違いない。

 止める権利など、誰にもあるはずないのだから。

 せめて自分にできるのは、苦しまないように殺してやること。

 二人があの世で再会して、幸多かれと祈ること。

 あまり喋らないクリスと二人きりに戻って、世界は少し広く感じる。

 今さらだが、光樹も睦美も悪い奴らじゃなかったと思うと、少しだけ自分の態度がきつかったことに、景人は軽い後悔を憶える。

 楽園が無くなって、神が死んで、それでも自分達は生きていかざるを得ないのだ。

 神無き世界に産み落とされ、豊かだった過去に取り残されてもなお、人々はもがきながらも死を選ぶ事はない。

 これからはもう少し、人に優しくしてもいいかな。

 そんな風に考えながら、簡単ではあるが小さな墓を作って二人を埋葬した。

 あまり体力を使う事はしたくなかったが、そんな心の余裕が出てくる程度に、自分の中にも秩序が戻りつつあることが、少し嬉しくもある。

「クリス、君はもっと泣いていいんだぞ」

「はい」

「君はいつも冷静だな。羨ましいよ」

「そうでしょうか」

 いつもと同じ表情だが、ほんの少しだけ、悲しそうにクリスは俯く。

 彼女の笑顔は、どこか作り物のように感じてしまう事がある。

 時に、その優しさや祈る姿さえ、人形を見ているような感覚に陥り、思わず自分でも頭を振ってしまう程だ。

 だが、それ故に彼女は美しい。

 自然が造り得ない、或いは人では達し得ない境地に達した何かのような彼女の凛とした心の芯は、こんな世界に生きる中で、安心感を与えてくれる。

 だが、もう一度二人きりになったのに、なぜか心はぽっかりと穴が空いたようで、どこか虚しい。

 あんなうるさい奴らでも、死んだらいけないんだ。

 何度か人を手に掛けたはずなのに、今さら命がどうとか考える。

 とても皮肉な偽善だ。

 ぼんやりと膝を抱え、空の向こうを見ていると、クリスも横に座った。

 例えこの世界が嘘だとしても、自分自身さえ嘘だとしても、彼女の温もりは現実だ。

 だから自分は、そのために生きる。

 そう誓ったはずだ。

 肩を寄せるクリスを抱き寄せ、軽く溜息を吐いた。

「寂しそうですね」

「そんなことはない」

「強がらなきゃいけないとか、思い込んでませんか?」

「そんなことはない……」

 分かりやすすぎる嘘にも、彼女は何も言わない。

 まるで子供のような強がり。

 人は一人だけで生きていけない。

 だからこうして言葉を交わして、泣いたり笑ったり、怒ったり喜んだり、愛し合ったりしている。

 見知らぬ誰かと出会って、分かり合って、反発し合って、そしてまた分かり合ったり、そのまま分かり合えなかったり。

 これから自分は、隣に座っている愛する人を守らねばならない。

 何があろうとも、例え世界を敵に回したとしても。

「ねえ景人さん、もし私が嘘を吐いていたとしたら、怒りますか?」

「別に。今さら何が真実だとか、こだわるのも馬鹿馬鹿しい」

「私が人間じゃないとしても、愛してくれますか?」

「君が悪魔だろうと天使だろうと、俺のそばにいてくれるならそれでいい」

「私、幸せです」

「これからもっと幸せになるんだ。二人で一緒に」

 そう言って、口付けを交わす。

 甘やかなその一時、唇と唇の間が銀色の細い糸で繋がる。

 この大切な人を守らなければ。

 ぎゅっと抱きしめ、頬をすり寄せる。

 まるで思春期の中学生のように、胸がドキドキする。

 馬鹿馬鹿しいが、これが幸せというものかも知れない。そう、初めて具体的に思えた。

 恋なんてものは、所詮はテレビやラジオから流れる歌の中のものだと思っていた。

 そんな自分がこんな状況で目の青い金髪の女性に心を奪われているのだから、運命とは皮肉なものだ。

 もし戦争が無かったら、彼女とは出会わなかっただろう。

 それこそ神のお導き、というやつかも知れない。

 つまらない冗談だな。

 そう思い、自分でも苦笑する。

「ねえ景人さん。あなたに言わねばならないことがあります」

「何かな」

「私のお腹に、赤ちゃんがいます」

「え?」

「妊娠検査キットが落ちていたんです。つい、好奇心で使ってしまいました」

「俺と……クリスの間に子供が……?」

「はい」

 そう言って、彼女は初めて人間らしい、照れた笑みを浮かべる。

 それがあまりにも嬉しくて、美しくて、景人は立ち上がると笑い声を上げた。

 見ろよ神! 俺は生きる。生き抜いてやる。

 生きて生きて、二人の間にできた子供を、立派に育てあげてやるんだ!

 空に向かって誓ったその瞬間、耳をつんざく一発の銃声が辺りに響いた。

 右腹に焼けるような痛みが走る。

 何が起こったか分からず、その場に膝を突いてうずくまった。

「やったか?」

「まだだ。まだ死んでない」

 男達のくぐもった声が聞こえる。

 殺気のこもった目で辺りを舐めるように見回すと、隠れる事もせずに、堂々とした足取りで白髪混じりの男達が二人、車の影から出てくると、こちらに近付いてくる。

 だが、その二人の姿に違和感がある。

 よく見ると、一人は腕が片方しかない。

 そしてもう一人は、耳が一つと鼻が無いのだ。

 どちらの顔も血の気が失せて、どこか乳白色の病的な肌の色をしている。

 ああ、まるでバケモノだ。

 ひょっとしたら自分も、今こんな風になっているのだろうか。

 よく考えてみれば、戦争が終わってからこちら、ずっと鏡を見たことが無い。

 痛みに遠のきそうになる意識を、唇を噛みしめ、出てきた自分の血で喉を潤しながらも考える。

 違う。

 自分はこんな奴らじゃない。

 こんなバケモノになり果てちゃいない。

「すまないねお兄さん。痛かったろう? でも、俺達にも事情があるんだ。分かってくれ」

 へらへらとして、どこか掴みようのない、男達は両生類のような笑みを浮かべる。

 二人の手には銃が握られている。

 ご丁寧にも一人一挺だ。

 それに比べて、こちらは身を守るために穴あき包丁が一本あるだけ。

 武器としては限りなく心許ない。

 油断していたせいで、日本刀からは距離が離れた場所にいる。

 さあてどうしよう、この暴漢達を。

 人の土手っ腹に風穴を空けておきながら、二人は極めて冷静で取り乱した様子もない。 おそらくは、三千万円争奪戦の時に人を何度か殺したのだろう。

 腹が疼くたびに込み上げる怒りはあるが、たった今撃たれたばかりでは形成が不利だ。

 もし相手が物取りだったら、そこにある食糧さえ渡せば済む事だ。

「すまないって何だ……食い物と水ならそこにある……とっとと持ってけよ……」

「いや、食べ物や水なら、まだまだその辺のコンビニやスーパー跡を探せばそれなりに手に入る。

 お前達もそうだろうが、こちらもそれほど困っちゃいないんだ」

 男達の目は、クリスの方に向いている。

 だが、彼女は逃げる事もせず、ただじっと目を閉じて、神に祈りを捧げている。

「クリス……逃げろ……」

「クリスって言うのか、そこのお嬢さん」

「馬鹿っ! 早く逃げろ!

 ここは俺が何とかする!」

 その時、再び銃声が辺りに響き渡った。

 今度は弾が右脇腹をかすめて、肉が一部そげ落ちる。

「ぐああっ!」

「お兄さん、少し黙っててくれませんかね」

「クリス……馬鹿野郎ッ……早く……逃げろ……」

「正確に言うとなあ、そこの女にも用は無いんだ。

 ただ、その腹ん中にある、お子さまに用事があるんだよ」

 何を言っているのか分からない。

 自分の気が動転しているからだろうか。

 彼女の妊娠を知ったのは、つい今し方の事で、それも二人だけの会話だ。

 盗み聞きするにしても、彼らの位置からは聞こえなかったはずだ。

「おい、何の事かさっぱり分からないんだが」

 わざと知らない振りをしてみる。

 何かの間違いであって欲しかった。

「妊娠してるんだろ?

 そのお腹の中に子供がいる。

 なあ、そうだろう?」

「待て……何をしようとしている……」

「見たところ、まだ腹は膨らんでないようだし。

 かなり小さな胎児の状態なんだろうな。

 この場でいきなり産んでくれるならいいんだが、そうもいかないだろう」

「お前ら……ちょっと……待てって……」

 クリスも武器をもっている。

 だが、それはその辺で売られているだろう、かなり錆びたカッターナイフだけだ。

 銃とやり合えば結果は目に見えている。

 しかも、彼女はそれを構えようともしない。

 じりじりと距離を詰めていく男達に対し、クリスはまるで人形のように、目を閉じたまま祈っている。

 諦めたのか?

 終わりなのか?

 ああ、そんなことは俺が許さない。

 許せるはずがない。

「痒いんだよ。そのお腹の中の子供が、俺達の痒みの原因なんだ」

「痒いなら自分の体を掻けばいいだろう?

 何を言ってる? 頭がおかしいのか?」

「俺は腕が痒かった。だから切り落とした。

 こいつは耳と鼻が痒くて、切り落としたらほとんど言葉が喋れなくなった。

 だが、これでお互いに痒みは治まった。

 そうしたら、今度はな、全身が痒くて仕方がないのに、掻いても気持ち良くならねぇんだよ。

 俺は困ったよ。

 どんなに引っかいても掻きむしっても、てんで治まらないんだからな。

 さすがに自殺は嫌だ。

 だが、この痒みに付き合っていたら、あと数時間もしたら発狂しちまいそうだ。

 そして、気が付くと隣にいた相方も同じように痒みが再発していたよ。

 やがて分かったんだ。

 痒みの原因は、まるで別の場所にあると。

 不思議なことだ。

 自分の体の痒みの原因が、自分達じゃないところにあるってんだからな……

 見えない何かに導かれるように、痒みが指す方へ。

 ただ本能が赴くままに、まるで夢遊病みたいに俺達は歩き続けた。

 そして今、見つけたんだ。

 この女の腹の中にある、胎児が痒みの原因だってな」

 ああ、痒みからついに頭がおかしくなったのか。

 哀れだ。

 だが、同情したところで病気は治らない。

 そして、彼らは今、俺とクリスの明確な敵だ。

 話を聞きながら、自分も護身用に隠していた包丁を手に持つ。

 相手に見えないように力を込めながら、隙を窺いつつ相手の話に聞き入る振りをする。

「胎児が原因なんて馬鹿げてるだろう?

 俺も本気でそう思う。

 でもなあ、事実だから仕方がないんだ。

 科学だとか医学だとか関係無い。

 だが、この女の腹ん中にいる奴が、俺達の地獄の原因なんだ。

 本当は話してるのだって辛い。

 きつい。

 叫びたい。

 痒くて痒くて痒くて痒くて痒くて痒くて……お前に分かるか?

 なあ分かるか?

 お前が女とちちくり合おうと、こちとら知ったこっちゃねえけどな。

 俺達の事情も分かってくれよ! な?

 あんたにも良心ってものがあるだろう?

 俺も同じだ。

 殺したりしねえから、ちょっと腹を蹴らせてくれ。

 なあに、簡単なことだ。少しばかり中の胎児を吐き出してくれりゃいい。

 どうせ産むつもりは無いんだろう?」

「ふざけるんじゃねえええええええええええ!」

 歯を食いしばり、脱兎の如く飛び上がると、男の首筋に包丁を立てる。

 ホースから飛び出すように、辺りに血しぶきが飛び、体中が血まみれになる。

 まだもう一人。

 どこだ? そう思った次の瞬間に、背後から銃声がした。

 それは背中の上の方にクリーンヒットする。

 呼吸が苦しい。

 肺をやられたか?

 ああ、もう駄目かも知れないなあ。

 だが、クリスにもこれからの子供にも、指一本触れさせるわけにはいかない。

 愛しいクリス。大好きなクリス。

 そして生まれてくるだろう我が子。

 娘だろうか。

 息子だろうか。

 お父さんがしてやれる、これが最初で最後の子育てだ。

「まだ死ねないんだよ!」

 遠のきそうになる意識を、唇を噛みつぶして無理矢理に正気を保ち、血を地面に吐き出すと、そのままもう一人の男の胸元に飛びかかる。

 みぞおちのど真ん中に突き立つ穴あき包丁。

 にじみ出す血の、嫌な暖かさが手に伝わってくる。

 だが、もう一押し強く中に押し込むと、つま先で男の足下をすくい、倒れる反動でそれを引っこ抜く。

「ざまあみろ……俺の妻と子供にゃあ手を出させてやらねえぞ……」

 もはや足に力が入らず、男達とは反対側に倒れ込む。

 だが、その頭を柔らかな感触が包み込んだ。

 クリスが覗き込んでいる。

 少しだけ悲しそうな顔をして、しかし涙は流さない。

 ああ、まるで人形みたいだ。

 相変わらず綺麗だよ、クリス。

 君は、綺麗だ。

「景人さん、何で私を守ったの」

「当たり前だろう……馬鹿な質問するなよ……」

「愛してる。私も言葉では言えるのに、まだよく分からないんです」

「何を言ってるんだ……?」

「でも、今少しだけ分かった気がします。

 私も、景人さんのこと、愛してます」

 人工的な彼女の顔が、また少しだけ人間らしく見える。

 それが何だかとても嬉しくて、ふっと心の力が抜ける。

「あはは……出会った時からそうだったが……最後までよく分からない女だな……でも、そんなクリスが俺は好きだよ……愛してる……」

「ありがとう、景人さん」

 泥で汚れたその顔を、白いハンカチでそっと拭うと。

 まだ温かい景人の唇にキスをする。

 自分から初めて、そうしたいと思えた。

 不思議だけれども、嫌な気分じゃない。

 さようなら、大切な景人さん。

 ありがとう、抱えきれない思い出を。

 また会えるといい。

 また会いたい

 人は死んだらどうなるのだろう。

 私は死んだら、どうなるのだろう。

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