第29章 ハート型の血溜まりの中で
それは例えば映画や、ドラマの中だけの話のように思っていた。
木戸睦美は頭を抱え、今置かれている状況をできるだけ冷静に整理しようとする。
平和だった時代、テレビのワイドショーを見ていて、通り魔や強盗、果ては痴情のもつれに至るまで、人殺しや暴力沙汰のニュースが流れると、軽く痛ましい気持ちを感じつつ、所詮は対岸の火事だと思いながら日々を過ごしていた。
まともに生きていれば、人の死と遭遇するなどということは滅多に無い。
まして、殺したり殺されたりなどというのは、ヤクザと創作の世界の話だ。
不良生徒なんて言われたりもしたけど、成績が悪い子が通う学校というのは、自然とそういった奴らばかりが集まる。
そうすると、なめられないために自分自身もその色に染まらざるを得ないのだ。
セレブにはセレブの社交界があるように、底辺には底辺の、クズの世界がある。
授業はされていても聞く人間はいなくて、昼寝してる奴と漫画を読んでる奴と、そもそも学校に来ない奴の三種類しかいない。
ケンカなんて日常茶飯事で、男達は私のような女の股ぐらを開かせる事と、バイクの事だけには熱心に頭を使うが、それ以外には一切何も考えない。
腐った世界の腐った私は、これからも腐った人生を歩み、腐りながら死んでいく。
一生懸命勉強したのに、頭にちっとも入ってこない。
取り残されて置いてかれて、私はこんな場所にいる。
これは頑張り切れなかった私が悪い。
分かってる。
分かってるけれど言いたい。
天は人の上に人を作り、人の下に人を作った。
あなたと私は違うんです。
私と姉も違うんです。
世間と私は違うんです。
私の居場所は違うんです。
一生懸命染まろうとしたのに、クズに私は染まれない。
カツアゲされる奴がいる。
パシリにされる奴がいる。
男達の肉便器にされる奴や、ストレス解消のサンドバッグにされる奴がいる。
怖い怖い怖い怖い。
私は怖くて仕方がない。
だから、精一杯強い振りをする。
でも、強い振りをしているだけの、私は虎の威を借る狐。
いいや、借りる虎の威さえも無いけど、借りている振りをしているだけの狐。
頭に蘇るのは、ある日の現代文の授業で習ったとある歌人の短歌。
白鳥は 哀しからずや空の青 海のあをにも染まずただよふ
それはまるで自分そのもの。
真面目にもなれず、不良にもなれず、流されていないような振りをするだけ。
上っ面人間、嘘吐き、不器用、どうしようもない。
世間じゃあよく、不良の生徒を描いたドラマや映画なんかで、実は落ちこぼれほど善良な心を持っているみたいに言われるけど、そんな奴らに私は言いたい。
お前ら、一度私の学校に来てみろ。
底辺と言われる高校に来てみろ。
いじめ?
そんな三文字で済ませられるような半端な世界じゃねえよ。
救われない人間と、救いようもない人間と、人間以下の何かが混ざり合って、ゴミみたいな日々を過ごしてるんだ。
だから、核戦争で世界が滅びるのも悪くない。
一瞬にして灰になれるなら、影だけを残して消え去れるなら、どれほど幸せな事だろう。
残された人間の事とか、幸せだった人達の事とか、私にはまるで関係ないじゃん。
どうしようもない世界だから、ゲーム機みたいにリセットボタンを押してしまおう。
アメリカ大統領、ロシア大統領、フランス大統領、イギリス首相、どこの誰でもいいからさあ、核を持ってる奴らが一発、どーんと花火を打ち上げて、それでお互い撃ち合いになって、地球は終わりでいいじゃない。
猫も杓子も男も女も、私も姉もあいつらも、みんなみーんな灰になって、それで終わりでいいじゃない。
だから私は、灰になれなかった時の事なんて考えてなかった。
灰になれなかった時に、大切な人に巡り会うなんて思ったこともなかった。
運命なんて大嫌いだよ。
「君に辛いことをさせる、僕は最低な男だね」
「馬鹿野郎ッ!
分かってるなら、分かってるなら生きろよッ!」
「君の前でこうやって、正常な僕を見せられる時間はもう限界が近いんだ。
いや、腕の肉が一部分無くて、目も片方しかない時点で、正常じゃないけれどさ。
それでも君にできるだけ、優しい僕でありたいと思ってる」
一秒が、一分が、永遠になればいい。
抱きしめられるその温もりに、ずっと包まれていたい。
なのに、そんな温もりを自ら手放さなければならない。
彼を殺さなければならない。
苦しみを長引かせる事そのものが、彼の幸せを奪う事になるからだ。
「ねえ木戸さん、約束して。僕が死んでも、君は生きるって」
「ああ、約束する」
「嬉しいよ」
片方しかない目で、血まみれの顔で、光樹は無垢な笑みを浮かべる。
そして、睦美の頬を流れる涙をそっと拭った。
「じゃあ、そろそろお別れだね」
くるりと景人の方に振り返ると、彼は自分の武器である刀を睦美に手渡した。
さっき見知らぬ人の死体を使って、首を切り落とすための練習をした。
横一文字には切れないけれど、頭上から振り下ろせばなんとかなる。
狙った場所に振り下ろすのも、それほどに難しい事ではなかった。
後は実践に移すだけ。
光樹は廃車のボンネットの上に寝そべり、首を切りやすいよう仰向けの姿勢になる。
白い首筋が、どこか無機的で人形のように無機質に感じる。
世界が色褪せて、まるで自分は映画か何かを見ているようだと睦美は思った。
そんな無責任とも言えるような空気の中に身を置くと、やれるような気がする。
大切な人だから、大好きな人だから、苦しみを長引かせるような失敗は許されない。
仰向けになった光樹の顔を覗き込むと、彼女は自分から唇を重ねる。
「んっ……」
光樹はそっとまぶたを閉じ、彼女の唇に唇で応える。
見よう見まねの、漫画や小説で得た知識の口付け。
不器用で青臭いキス。
やがて体を離した睦美は、少しだけ照れくさそうに、十代の少女が見せる純粋な笑顔を見せて光樹に言った。
「これ、私のファーストキスなんだ」
「僕もそうだよ」
「私、谷村さんが死んでもキスできるよ」
「愛されてるね、僕」
「そうだよ、あなたは私にすっごく愛されてる。
世界で一番幸せなんだから」
「あはは、嬉しいな」
その笑顔がまぶしくて、とても胸が痛い。
とてもとても寂しい。
苦しい。
愛しい。
切ない。
だから笑って別れよう。
くるっと回って仲直り。
いい笑顔だよ、谷村さん。
そのままでいて。
「バイバイ」
振り下ろした日本刀が地面に当たり、金属音が耳に響く。
赤いスプリンクラーみたいに血は辺りに吹き出して、落ちた首さえ染め上げる。
しばらくして、少し出が悪くなったところで光樹の首を持ち上げると、睦美は持っていたミネラルウォーターで彼の顔を丹念に洗い、髪をタオルで拭く。
櫛で少しだけ髪型を整えると、それを抱きしめて彼女は泣いた。
景人とクリスが見ているそばで、誰はばかることなく、子供のように泣きじゃくる。
やがて泣き疲れた睦美は、景人の方を見る。
「ねえ迫田さん、お願いがあるの」
「ああ」
「私の事も殺してください」
「分かった」
約束は破られるためにある。
秘密とは広まる運命にある。
死んだ光樹も、本当は薄々分かっていた。
分かっていても言えない事がある。
吐かなければならない嘘がある。
光樹の髪を拭いたタオルで、刀に付いた血を拭き取るのを見て、睦美も同じように光樹の横に寝転がる。
「優しいんだね、意外と」
「生きろって言う奴は、生きるための理由と未来を保証する必要がある。
それも分からず闇雲に、命だ未来だと言う奴は信用できない。
少なくとも俺はそう思う」
「私も同意だね」
「珍しく意見が合ったな」
「今までお二人の邪魔してごめんなさい」
「俺達だって、暇つぶしにはなったよ」
「クリスさん、私達の分まで幸せになってね」
「はい。ありがとうございます」
覚悟という言葉が、この場に居合わせた皆の胸の中にある。
精一杯生きて、知って、失って、見つけて、死んでいく。
もう手遅れという頃になって分かり合い、残り少ない時間を分かち合う。
誰もが優しくて不器用で、そんな人達が生き残っていけば、そのうち世界はまた元に戻るだろう。
その頃にまた会えるといいね。
空の上で会えるといいね。
私、今なら少しだけ素直になれた。
「二人とも素敵だったよ。
ありがとう!」
「さよならだ」
その言葉と共に、今度は景人が刀を振り下ろす。
まだ新しい血だまりの上に、睦美の頭が転がる。
二人の血が混じり合って、大きな赤い水たまりができた。
勢い良く噴き出す血が治まったあと、さっき睦美がしたように、彼女の頭を水で洗い、二人の首を並べる。
「安らかで幸せそうな顔をしています」
「ああ、そうだな」
「私達も死ぬときは、こんな風にありたいですね」
「まだ当分先の話だ」
クリスを抱き寄せ、その温もりを全身で確かめようと肌を寄せる。
地獄の中で生きているのと、あるのか無いのか分からない死後の世界に旅立つこと。
どちらが幸せなのか分からないと思いながら、景人はクリスに頬を寄せる。
分かっていることは、まだ何も終わらないということだけだった。