第27章 一生に一度のお願い
最低のジョーク、最悪のタイミング、それは空の上に浮かんだ大きな文字。
迫田景人は抜けるような蒼穹に向かって、力一杯中指を立てた。
最後の最後までふざけた態度を取られている事に、少しでも反抗をしたかった。
このまま逃げ切る? 誰が許すか!
そう叫んでも、きっと思いは届かないだろう。
『イエーイおめでとう! 神は死んだよ!』
本当だろうか?
冗談ではないか?
そもそもこれは何かの罠か?
そんな風に考えを巡らせていると、遥か遠く、かつて楽園があった場所は、ただの瓦礫の山へと戻っており、人々が争うような声が響いてくる。
幻覚を見ているのではなければ、おそらく本当に死んだのだろう。
どこかの哲学者が言っていた戯れ言は、見事に現実となって目の前に横たわっている。
それはまるで悪臭を放つ腐乱死体。
犠牲者の名前は人類の夢と希望、そして未来。
楽園なんか無くてもいい。
神なんていなくてもいい。
むしろ死ねばいい。
もちろん何度もそう願っていた。
だが、一方ではそんな超自然的な力を持つ何かが、気まぐれでであったとしても、助けてくれるかも知れないと、甘い予想が無かったかと言われれば嘘になる。
人類なんて非力なものだ。
いざ文明を失ってみれば、包丁一つ作れやしないし、スズメの一羽も捕まえる事さえ難しい。
食べるものは食いつぶし、いつか無くなれば野垂れ死ぬ。
何とかなるさ。
明日があるさ。
そんな風に言ったところで、カネもコメもありゃしない。
だが、唯一救われるかも知れない事がある。それは――
「うう……何かあったんですか……」
「だああーっ、もう! 病人は寝てろ!
また私達から逃げようなんてバカなことしたら、今度こそギッタギタにしてぶっ殺すからね!」
「ああ……ご……ごめんね……」
景人達の元を逃げ出したはずの、光樹を見つけることができたからだ。
だが、見つけた時には既に骨が露出しており、笑いながら泣きながら、ぼりぼりと乳白色のそれを彼は掻きむしっていた。
急いで応急処置は施したものの、ちゃんとした医療施設で輸血などをしなければ、あまり長くはないかも知れない。
多分、それは本人が一番よく分かっている事だろう。
一方で、そんな事を感じさせないようにと、睦美は笑顔で空元気を振りまいている。
こんな腐った世界で、どうしようもない掃き溜めで、まるでお遊戯みたいな恋物語が展開されているのは、見ていて滑稽でもあり、同時に胸に込み上げるものがある。
口では荒くれた事を言って、いくら現実主義者になろうとしても、かつての自分はただのサラリーマンだった。
優しさや思いやりという言葉の意味も、ちゃんと知っていたはずだった。
クリスと出会うまでは、そのまま抜け殻のようになって、死んでしまうかと思っていた。
そんな矢先だったからこそ、女神のように美しい彼女と、その容姿のままに優しい彼女に心を奪われ、恋に落ちた。
そして、恋は絶望を希望に変えようと必死にさせる。
死への衝動を生への欲望にしてしまう。
どんな薬よりも、彼の治療に役立ったと自分でも思っている。
そんなクリスは、今も横でじっと神に祈っている。
神は死んだと出ている空の方を見たはずなのに、彼女は祈りを捧げている。
その事が、どうにも違和感を感じて仕方がない。
「なあクリス、神は死んだんじゃないのか? いや、嘘かも知れないが」
「神は、神の国は、常に私達の心の中にあるのです」
「まあ……そう言うだろうとは思ったが……」
彼女はなぜこれほど落ち着いているのだろう。
神は死んだなどというのは、どんな事実よりも重く肩にのし掛かる。
確かに彼女が元々信じていた神とは違うだろうが、それでもこの世界を支配していた神が死んだのだ。
もうちょっとうろたえてもいいような気もする。
横を見れば、相変わらず祈りを捧げるクリスがいる。
いったい何に祈っているのだろう。
死んだ神とは別に、自分達の信じる神はいて、その神が救ってくれると思っているのだろうか。
「よいしょっと。あー疲れたわ」
「谷村さんのところにいなくていいのか?」
隣に睦美が腰を下ろし、手に持っていた缶コーヒーを渡してくる。
別に喉は渇いていないが、たぶん何か話したい事があるのだろう。
ここは素直に受け取らないと、彼女のお小言を食らいそうだと思い、黙ってそれを受け取る。
「今は苦しみ疲れて寝てる」
「大変だな、彼も」
「やっと同情してくれるようになったんだね。少し、安心した」
缶コーヒーの栓を開け、一口飲みこむ。
「誰かを殺した事があるからって、別に心まで捨てたわけじゃない。
だったら、軍人なんて全員が殺人鬼だ」
「そうだねえ」
睦美は小さく笑うと、仰向けに空を見上げる。
相変わらず人を嘲笑うような、神の遺言らしきものは出たままだ。
「一つだけ聞きたいことがある。けれど、怖くて聞けないんだよ」
「何をだ」
「神が死んだのに、病気は治らないのかな」
当たり前だろうと言いそうになって、ふと考える。
これは神が新たに作った病気だとするならば、死んだら治ってもいいと思ってもおかしくはない。
たいていはそれで終わりだろう。
だが、神が作ったものが死と同時に無くなるのならば、世界は無に返ってしまうのではないか?
もし神が創造したものが神が死んでも無くならないのなら、この恐ろしい病気は永遠に人々を脅かす、まるで史上最強の不発弾だ。
いや、不発弾ではない。
どちらかと言えば、放置された地雷原の中で、日々を生きるにも等しい。
「治らへんのやとしたら、谷村さんこのまま……」
「そうかも知れないな。だとしたら、どうする」
「どうしよう……」
「私だってクリスだって、君だって感染の可能性はある。きっとこれからも、ずっとな」
「お医者さん。そう、医者を捜そうよ!」
「骨が痒いなんて、謎の奇病をこの荒れ果てた世界でいきなり治せと?」
「治せなかったら、私がぶん殴ってでも治させてやる!」
「殴ったら医者が、突然に治療法をひらめくのか?」
「うるさいっ! 何だよあんた!
さっきから否定ばっかりじゃないか!
少しくらい谷村さんの心配してくれたっていいじゃないか!」
「現実を無視してれば幸せになれるのか。めでたいな」
「じゃあどうしたらいいんだよ!」
「どうしようもない」
睦美は殴ろうとして拳を振り上げたが、その手は震えながら宙で止まった。
単に事実を否定して欲しいという、子供じみた欲求だった。
大丈夫だよ。
きっと治るよ。
なんとかなる。
問題ない。
根拠の無い励ましの言葉でも、今の自分を奮い立たせるためには必要だと思った。
「ぐあああああ――――っっっっ!」
「どうしたの?!」
光樹が寝ているビニールテントの中から叫び声が上がる。
急いで駆け寄ると、そこにはくずおれるような姿勢のまま、かろうじて片腕で体を支えながら、包帯でぐるぐる巻きになっている、肉の削がれた方の手で、くり抜かれた眼球を転がす光樹の姿があった。
「なっ、何やってんのよバカぁっ! 目だよ? 目! バカっ……バカぁっ……」
「仕方なかったんだ。目がね、目の後ろ半分が痒くて痒くてさぁ、ついくり抜いて、こうやってこりこりすると、すごく気持ち良くて。
もし僕が今こうしていなかったら、発狂しそうになってたよ。
ああ、とても最高の気分だ……はははっ……」
「腕の骨だけじゃなかったの?
目玉まで痒いの?
何でみんなに相談しなかったの?」
「相談したらどうなる? 骨の次は目玉が痒い。
言ったら治せるのかい?
僕はどうせ死ぬしかないんだ。
神が死んで、だから何?
僕の病気は治らないじゃないか。
神は死んでも病気は消えないじゃないか!
ね? 僕はもう駄目なんだ! 人生はこれで最終回だ!
ゲームオーバー! 来世にご期待下さいって事だろう?
ハハッ、アハハハハハハッ」
「谷村ァッ! テメェ何あきらめてんだこの野郎ッ!」
「まったく、彼の言うとおりだろう」
「迫田ッ!」
振り返り、景人の胸ぐらを掴む睦美。
その目には明確な殺意がこもっている。
だが、彼はその目を逸らす事はない。
もう手遅れだ。
そんな現実を、誰もが受け止めねばならない時が来ている。
嫌でも猫の首に鈴を着ける役が必要なのだ。
「彼の言うとおりじゃないか。
むしろ苦しみを長引かせてる、俺や君はいったい何だ?」
「でも、谷村さんは生きたいって思ってる! 私もそう思ってンだよ!」
「生きたいって言って生きられるなら、世界中に死人はいない」
「んだよォッ! 何だよ、だから大人は嫌いなんだ!
私達の言うことなんて、ちっとも聞こうとしねぇじゃねえか!
あんた達、大人なんだろ?
何とかしろよ!
何とかするよう考えろよ!」
「甘えるんじゃないぞ小娘?
地球温暖化も年金問題も、飢餓も戦争もみんな大人が悪いってか?
そうかも知れないが、大人だってみんなお前達と同じ青臭いガキの時代があったんだ。
何百何千何万何億、数え切れないガキが大人になって、今があるんだよ」
「じゃあ大人になったら、ガキの頃の事はみんな忘れちまうのかよ!」
「どうにもならない事があると、割り切れるようになった時、大人になるんだ」
「そんなのお前の理屈だ!
間違った大人の理屈だ!
私は信じない!」
議論は平行線を辿る。
だが、そこに割って入ったのは他ならぬ光樹だった。
「木戸さん……あんまりみんなを困らせちゃいけない……」
「ぐすっ……だってぇ……だってこのままじゃ谷村さんが……うわああああん!」
光樹は睦美を抱きしめ、その頭を撫でる。
血まみれで、片方の目が無く、腕の肉が削げていても、人間としての心はまだ、温もりを求めている。
この子を泣かせたくない。
歯を食いしばって、耐えて、男の子だろうと自分を言い聞かせながら、精一杯のやせ我慢。
腕を切らずに残していたから、抱きしめてあげられる。
それだけでも、我慢した甲斐はあったかも知れない。
もう少しだけ早く出会いたかった。
もう少しだけ長く生きたかった。
そう思っても遅すぎる。
ああ、多分僕は、この女の子のことが好きなんだろう。
その事に気付くと、妙に顔が火照って、その事を悟られないように、できるだけゆっくりと体を離した。そして、思い切って言いよどんでいた言葉を口にする。
「ねえ木戸さん、僕を殺してよ」
「はあ? 寝言は死んでから言えよ馬鹿野郎!」
「僕は真剣だよ」
「なおさら悪いわ!」
「あのね、僕は君が好きだ」
「へ?」
素っ頓狂な睦美の声。
そして、光樹は照れながら頭を掻く。
片方しかない目で睦美のことを見つめながら、彼はそっとその頬に手を触れた。
「こんな時に、こんな僕に言われたら、やっぱり迷惑かな」
「迷惑なんかじゃ……ないに決まってるだろう……」
「ふふふっ」
「なんだよ! 何笑ってんだよ!」
「君もやっぱり女の子なんだなって。
そう思うと、何だか嬉しくて、愛おしくてさ。
大好きだから、君に僕の最後を看取って欲しい。
このままじゃきっと、僕は痒みが全身に回りきって、発狂して死ぬだろう。
そんな姿を君に見られたくない。だから―」
「だ、だから何よ!」
「君に僕を殺して欲しいんだ」
「なんでそうなるのよぉーっ!」
「僕の人生に残された、最後で最大のイベントだから。
それを大好きな君の手でして欲しいんだ」
分からない、光樹の言うことがさっぱり分からない。
けれども、それが彼なりの精一杯の愛情表現なんだという事だけは、何となくは分かる。
別に狂っているわけじゃなく、彼は極めて正気なのだろう。
なのに、なぜそんなことを自分に頼むのか。
死んだら全てが終わりなのに。
愛してるとさえ言えないのに。
「死んだら終わりなんだよ……この大馬鹿……私にそんなことできるわけ……」
「君にして欲しい。大好きな木戸さん、いや、睦美ちゃんにして欲しい」
「そんなの……ぐすっ……そんな……」
「残酷な事を言うんだな、君は」
「一生に一度のお願いってあるじゃないですか。
僕は今、初めてそれを使うんです」
「さらっと言うじゃないか少年。
でも、気持ちは理解できる。
やるかやらないかは彼女次第だが」
「死にたいなんて思わせないよ!
大丈夫、もしあんたが狂いそうになるって言うなら、私が殴ってでも正気に戻してやるから!」
空元気で精一杯の明るい声。
そして胸を張り、どんと叩く。
だが、光樹は黙って首を振った。
どれほど強く殴られたとしても、その程度で正気が戻るのならば、今頃自分の両目は揃っているだろう。
腕の肉だって削ぎ落としたりはしていないはず。
自分の認識は、あまりにも甘かったのだ。
痒いという事が痛いという事よりも、遥かに苦しい事だとは、今まで想像したことさえ無かった。
痒いなんてのはせいぜい、腕や足などに小さく虫さされができて、その部分が痒みを帯びてくる。
仕方なくぽりぽりと掻くと、ぷっくりと小さくふくらみができて、さらにかゆくなってしまうという悪循環。
それが普通だ。
なのにこの痒みは、まるで心や魂にまで深く根を張っているようだ。
一度込み上げて来たら最後、強烈な痒みは少し掻いたくらいで消える事はない。
そして、掻けば掻くほど気持ちが良くなるというおまけ付きだ。
目玉はくり抜いてからしばらくして、痒みが徐々におさまっていった。
だが、腕は相変わらず痛みながらも、痒みが治まる事は無い。
そして、それは徐々に範囲が広がっているようにさえ感じられる。
こんな事がこれからも続く事があれば、いつか自分は発狂して死んでしまうだろう。
何が何だか分からない、ただ叫び掻きむしるだけの獣のようになり果ててまで、生を長らえる意味は無い。
こんな世界じゃ医者も医学も期待できない。
そもそも神が死んだと言うのに、病気は現に無くなるどころか、むしろ悪化している。
だからこそ、殺されたい。
愛する人に、たった一度しかしてもらえないこと。
彼女に手を掛けられて、死出の旅路に乗れるなら、僕の人生は本望だ。
「私も死ぬ。あんたが死んだら、私も死ぬんだからっ!」
「いつか人間は死ぬんだ。だから、君は生きて」
「嫌だ!」
「お願いだ。その代わり僕は、一足先に向こうで君を待ってるから」
「嫌だもん……ぐすっ……嫌だって言ってるだろう馬鹿……」
泣いてもだだをこねても、きっとこの流れは変わらない。
奇跡は起こらず、新しい神が現れる事もない。
それでも人は生きねばならず、命を絶つ者が出る。
クリスは全てを見届けた後、テントを出て、空に向かって祈りを捧げた。
何が正しいのか、何が間違っているのか、自分には分からない。
神のみぞ知る世界。
いや、神さえも知らない未来。