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爪の音  作者: 一人旗目
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第25章 人間の証明

 独りぼっちは嫌だ。

 独りぼっちは怖い。

 僕はこんなに努力してきたのに、なぜまた今、こうして独りぼっちなんだろう。

 夏子達と別れた後、勉は行くあてもなく彷徨ううちに、木戸優美の死体を見つけた。

 ご丁寧にタンスの中に入れられているのは、最初に出会った夏子がそうしていたからだ。

 そのそばに倒壊したコンビニらしきものがあった事もあり、ペットボトル入りの飲料や、スナック菓子などを見つける事ができた。

 パック入りのごはんもあったが、こちらは電子レンジやお湯が無いため、固くてあまりおいしくない。

「ねえ、君も食べるかい?」

 名も知らぬ、半裸の女性の死体に向かって問いかける。

 もちろん死人は喋らない。

 だが、死人は自分を否定しない事に、勉は安堵を感じていた。

 つまらない奴らに囲まれて、つまらない人生を送りながら、つまらない現在を生きて、つまらない死を迎えるはずだった。

 頑張った僕は誰にも理解されないけれど、きっといつかは報われる。

 だけれども、そんな事を保証してくれる人は誰もいない。

 そう、それが例え神様だとしても。

「蚊、そこら中を飛んでるね。僕ももうすぐそちらに行くよ」

 死体となった優美に話し掛ける。

 白目を剥いて、血の気の失せたその姿に、哀れみと同時に喜びを感じる。

 そして、そんな自分がとても情けない。

 死ねばいい。

 こんな僕は死ねばいい。

 死ねばいいと思っているのに、自殺もせずに生き延びて、感染もせずに生き延びて、のうのうとここで膝を抱え、ぼんやりと沈む夕陽を見ている。

 太陽は生きていない。

 生きていないから美しい。

 僕は生きている。

 だから醜い。

 嫌なことから逃げてばかり。

 やりたくないことには言い訳ばかり。

 働きたくない事を理由に大学院に進学したけれど、研究したかったわけじゃない。

 ただ、社会に放り出される事に不安しかなくて、理系ならば大学院で年齢をいくら重ねても、下に扱われる事はないと思ったからだ。

 ましてや僕が居たのは国立大学で、そこそこ名も知られている。

 分野としては地味だと言われているものの、高度な研究には人材が不足している。

 だから、いつでも僕が就職したいと言えば、きっとどこも諸手を挙げて歓迎してくれる。

 そうに違いない。

 そのはずだ。

 勉は膝を抱え、声を殺して泣いた。

 横にいるのが死体でも、笑われるような気がした。

 だから彼女に聞こえないよう、背中を向けて嗚咽を漏らす。

 けれども、気がしただけで実際には笑わない。

 死体は優しい。

 どんな過去も、どんな思いも、全てを聞き流し、表情を変える事は無い。

「お茶、飲むかい? って、返事できないだろうけどさ。せめてもの気持ちだよ」

 そう言って、ペットボトルのお茶で軽く優美の唇を濡らす。

 何だか良いことをしている気がして、ほんの少しだけ心が軽くなった。

「楽園……行きたかったな……」

 夏子は、毅は、仁は、藤次は、今頃どこに居るのだろうか。

 無事に楽園にたどり着き、自分を嘲笑っているかも知れない。

 綺麗な服に袖を通し、暖かなご飯を食べ、柔らかい布団で眠りに就く。

 当たり前だった毎日が、こんなに幸せだったなんて。

 最悪だ最低だと声を殺して泣きむせび、栄養補助食品の大豆バーをかじる。

 ふと顔を上げると、夕闇の迫る荒野の中で、遠くに人の姿が見える。

 思わず声を上げて後ろにひっくり返り、転げ落ちそうになった小高いごみの山に必死にしがみつくと、顔だけを出して様子を伺う。

 男が二人に女が一人、息を切らして近付いてくる。

 敵か? 味方か?

 今この世界にいると言うことは、三千万円を用意できなかった人達だろう。

 ならば、自分と同じ境遇、仲間じゃないか。

 そう結論を出すと、廃車の上に飛び乗って、おーいと大きく声を上げ、手を振る。

 だが、向こうはゆっくりとした足取りで徐々に近付いてくるものの、自分にまるで気付いていないかのように、誰も反応をしてくれない。

 物取りというわけでも無さそうだが、その無関心が返って不気味だ。

「僕は柳勉って言うんだ! あなた達は?」

 結構そばまで近付いている。

 だが、ちらりとこちらを見るだけで、反応は薄い。

 しかし、別に手に武器を持っているわけでもないし、何より女性もいる。

 それだけでもまだ、信用に値するだろうと思い、勉は優美の死体のそばを離れ、彼らに近付いていった。

「あの、僕に何か用事かな?

 お茶とかお水なら、倒壊したコンビニがそばにあるから、まだまだたくさんあるよ!」

「うるさい……」

 自分より少し年上の、三十歳前後と思われる男性が不機嫌そうに答えた。

 その態度に戸惑いつつも、勉は精一杯の笑みを浮かべて、隣の若い女性に声を掛ける。

「ねえ、なんでそんな怖い顔をしてるの?」

「痒いからよ……」

 彼女の言葉を聞いた瞬間、反射的に勉は後ずさる。

 彼ら、彼女らは感染者だ。

 だとすれば、近くに居ること自体が危険だ。

 けれども、感染したとして、だから何だと言うんだ。

 自分はまた逃げて、誰とも分かり合わないままなのか。

 そう思い、ちらりと優美の死体を見る。

 頑張れ。

 彼女の焦点の無い白目が、そんな風にささやき掛けている。

 そんな気がした。

「あの、かゆみ止めあるよ! みんな、これが目当て?」

「えっと、柳さんか?

 俺達はね、あんたに用事があるわけじゃないんだよ」

 そう言いながら、三人は優美の死体に向かっていく。

 彼女の知り合いだろうか。

 少なくとも自分に危害を加えるつもりは無さそうだが、それ以上に無関心なのだ。

 しかし、彼らの目は爛々として何か異常な光を帯びており、その視線は優美の死体に向けられている。

 追い剥ぎ? 必要が無い。

 死姦愛好? いきなり三人もそんな倒錯者がここに来るだろうか。

「彼女の死体に、何かあるんですか?」

「大ありだよ。やっと見つけたんだ」

「え?」

 その瞬間、最初に辿り突いた男が、取り出したナイフを優美の腹に突き立てる。

 ぐちゃりと嫌な音を立てて、男はゆっくり手を引いた。

 赤黒い、そして灰色の内臓達が姿を現す。

 映画や漫画で見るよりも、その色は遥かに毒々しく、生臭い。

「ちょっと、何してるんですか!」

「うるせえ……少し黙ってろ。お前に危害を加えなきゃいいだろ……」

 血と脂にまみれた手を腹から抜くと、勉の額のそばで止める。

 万歳をするような姿勢で手を挙げて、数歩後ろに下がった。

 すると、後から来た若い男女もナイフを取り出し、今度は死んでいる優美の胸と額に突き立てる。

 ぐちゃりぐちゃりと音がする一方で、喉にナイフを突き立てた方は、今度はそれが抜きづらくなって、うんうんと唸っている。

 狂ってる。

 ただその言葉以外に、何も表現しようがない。

 ついに見捨てられた世界の中で、頭がおかしくなってしまったのだろうか。

 呆然としている勉の前で、三人はぼそぼそと何かを呟く。

「これじゃない……これでもない……」

「あああ、あなた達、何をしてるか分かってるんですか」

「分からないと思ってる?」

 女は唇に付いた付着物をぺろりと舐め、感情のこもらない目で勉を見る。

 その間も手を休める事はなく、優美の胸の中に手を突っ込んで、ぐちゃりぐちゃりと動かしている。

「あった! これだ! これだわ!」

 不意に女は叫ぶと、空いている方の手を優美の中に突き入れ、強引に横にいる男の手を押しのける。

「テメェ、何するんだよ!」

「あった! あった! あった! あった!」

「うるせえんだよ!」

 押しのけられた男は、体を起こすと女の左頬を力一杯殴る。

 すると、体の中に手を入れたままだったせいで、優美の死体が手に引きずられて起きあがり、首を切り落とそうとしていた男の手元を狂わせる。

「痛ぇっ!

 っつあっ、な、何しやがるんだこの野郎!」

「あ? 知るかよ!

 そこのクソアマが悪いんだろうがよ!」

「ああああ! あった!

 あった! あったよおあったよお!」

 男達は声を荒げるものの、そこからケンカを始めるでもなく、必死になって優美の死体に群がる。

 そして、殴られた女もその隙間を縫って、その体に必死に手を入れる。

 何がどうなっているんだろう。

 勉はその光景が、いったいどんな状況なのか、全く理解ができない。

 だが、自分を励ましてくれた、たった一人の理解者である優美の死体が、突然に現れた男女に好き放題に手垢まみれにされることが、この上なく腹立たしい。

 しかし、ここに来て一瞬頭が冷静になる。

 逃げればいい。

 よく分からないが、感染者であり頭のおかしい奴らが三人もいる。

 こんな場所からはさっさと去るべきだ。

 そもそもよく知らない女の死体なんて、そこら中にいくらでも転がっている。

 彼女もまた、そんな名も無い、極めて統計的な死者に数えられる一人に過ぎない。

「やったあーっ!」

 女が不意に声を上げ、何かを高らかと持ち上げた。

 見た目ではよく分からないが、両手に持って少し余る程度の大きさのそれは、何か内臓の類だろう。

 同じ女同士だろうに、なぜこんなに嬉しそうにしているのか。

 死んでいるのに、冷たくなっているのに、弔いの言葉の一つも無しに。

 僕はまた逃げるのか?

 気が付くと、そばにあったぼろぼろのアタッシュケースを手に取り、思い切り振り上げて、女の後頭部に叩き落としていた。

「ひぎゃあっ!」

 聞いたことの無いような悲鳴。

 それは耳に嫌な余韻を残す。

「お前……おかしいよ……僕もおかしい……みんなおかしい……」

 呼吸が荒い。手に嫌な汗が流れる。

 言葉が続かない。

 足が震える。

 生まれて初めて、誰かを肉体的に傷付けたのだ。

 それも、よりによって相手は女。

 まるで犯罪者のやることだ。

 けれど、今はそうせねばならない。

 すぐに男達から反撃を受けるかと思ったが、彼らはまるで興味が無さそうに、一心不乱に優美の体をまさぐっている。

 一人は相変わらず、首の骨を切り落とそうと必死だ。

「ひああっ! ひもっ、ひもひいい!

 ひもひいいひょお!」

 足下から声がする。

 それは倒れた女が、歯が欠け、額に大きな傷が入った状態で、さっき持っていた内臓に手を入れたまま、手を小刻みに動かして歓喜の声を上げている。

「ひあああああ! あふっ! あひゃはははははっ!

 やっは! やっはああああ!」

「何なんだ。何なんだよ!」

 女はゆっくり体を起こすと、地面をまな板のようにして内臓を開き、小さな胞子状の何かと、微細な血管らしきものが貼り付いたそれを、子供が遊ぶようにぐちゃぐちゃと触る。

「これだ……俺の痒みの原因……」

 優美の死体から、また一つ男の手によって内臓がもぎ取られている。

 見た目だけではよく分からないが、それはおそらく胃袋だろう。

 そして彼もまた、それを地面に叩きつけると、ナイフで中身を開いて手を入れる。

「あははははっ! これだこれだあ!

 うう、気持ちいい! 畜生、まるでバケモノだな俺は!

 もういい! もういいよ! あはははは!」

 腐りかけの優美の死体が、まるで食用に解体された家畜のように、徐々に空っぽの何かになっていく。

 その姿は、見ていて心にまで穴が空いていくようで、後には嫌な寒さだけが残る。

 膝を突いて、呆然とする勉に向かって、まだ首を切り落とせない男が、背中を向けたままでぼそりと言った。

「お前、感染してないから分からないだろう。

 俺にもよく分からないが、この女の体の中身を掻かないと、俺の痒みが治まらないんだ」

「言ってることがよく分からない……」

「俺だってなあ、好きで見知らぬ女の死体をはずかしめるような真似をしたいわけじゃないんだ!

 でも、こいつの頭蓋骨の裏辺りが痒くて痒くて……痒くて痒くて痒くて痒くて、いっそ殺してくれと思うくらいなんだ!」

「自分の頭蓋骨なり尾てい骨なり、好きなところを掻けばいいだろう?

 他人の死体の骨なんて掻いて、痒みが取れると思うのか?!」

「ああ、取れるんだから仕方ないだろう」

 ごりりと嫌な音がして、優美の頭は切り離される。

 そして、男はそのまま頭を地面に押し付けると、頭の後ろにナイフを刺し、ごりごりと中に手を入れていく。

「早く……早くしろ……気が狂っちまいそうだ……」

 ちらりと横に目を向ければ、胃を地面にこすり付ける男と、笑い続ける女の姿。

「ああもう! ああもう! あはぁーっ! この胃が! 胃が! 畜生畜生! 胃が!」

「ひほははあああ! ひへえっ!

 ひあっはあっ! ほふぉあああ!」

 ああ、人間じゃないよ。

 お前達、なんでそんな醜態を晒す?

 僕は下らない。

 僕はつまらない。

 僕は逃げてばかりで、どうしようもないクズだ。

 けれども、こんな姿になってまで、生き延びたいとは思わない。

 お前達は単細胞生物よりも、遺伝子情報だけのウィルスよりも、なお下等で、なお劣っている。

 どうしようもなく救われない何かだ。

 だから僕がもう一度、お前達に人間としての死を、正しい死を与えてあげねば。

 今度はアタッシュケースではなく、そばにあった金属の棒を手に取ると、二人いる男の頭を連続で叩き割った。

 ぐしゃりと嫌な音がして、血と脳漿が辺りに飛び散る。

 だらしなく舌を垂らして、男達は静かに横たわった。

 ついにやってしまった。最低で最悪の結末だ。

 しかし、それはやらねばならない事だった。

 つまらない僕だけど、価値の無い自分だけれど、初めて何か成し遂げた気がする。

「ひゃひゃひゃひゃーっ! あひあーっ!」

「君も、さよなら」

 最後まで目を開いたまま、彼ら、彼女らが死にゆく様をじっと見届けた。

 それは勉なりの贖罪であり、罪を背負う覚悟だった。

 何だかんだで死にきれず、結局誰かを救う事もできず、そして自分自身さえこの有様。

 人をこの手に掛けてしまった重みを感じ、ふらふらと熱病にうかされたような頭のまま、その場にどっかと腰を下ろす。

 さっきまで男に手を入れられていた優美の頭部を持ち上げると、涙が込み上げてきて、思わず彼女に謝罪をしていた。

「ごめんね……何だか……すごくごめんね……」

 生きている女はおろか、死んだ女さえ守れない。

 結局こうして汚されて、取り返しのつかない事態になってから、初めて自分は動いた。

 だけどもそれが精一杯。

 さんざん逃げてきた自分にとっては、振り絞った一滴の勇気。

 例え血まみれだったとしても、人としての道にそぐわないとしても、そうしなければいけない事がある。

 だって、僕は人間だから――

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