第21章 進化する地獄、深化する絶望
「痒いって、こんなに苦しい物なんだね」
薬を塗りながら、光樹は諦め半分に呟く。
確率わずか五%だったのが、どうやら大当たりをしてしまったのだろう。
異常な痒みは、もはや疑いようも無い。
左腕の肘から上の部分、ほぼ全部が痒いなど、尋常な事ではない。
早くも自分は人類脱落だろう。
意外と人生の幕切れはあっけない。
「ねえ木戸さん。クリスさんと迫田さんと一緒にどこかに行ってもいいんだよ?」
「うがあーっ! うっさい病人、寝ろ!」
「そんなに目くじら立てなくても……」
「喋る元気があるなら寝てな!」
「眠くないよ、別に」
「ブン殴られて眠りたい?
絞め堕とされて眠りたい?
それとも永遠に眠りたい?」
「どれも遠慮するよ」
苦笑しながら光樹は頭を掻いた。
徐々に痒みの範囲は広がってきている。
だが、かゆみ止めの薬をケースで発見したおかげで、しばらくは大丈夫となった。
それに関しては、特に迫田景人の活躍がある。
一番無愛想で、自分を邪魔者扱いする景人だったが、光樹にとっては命の恩人だ。
何とか仲良くできないだろうかと、蚊帳の中で寝ころびながら思案する。
どちらにしろ、自分は本当に長くない。
既に感染は確定しており、かゆみ止めが常時必要な程、その感覚は時間を追って強くなっている。
その面積も、時と共に徐々に広がりを見せている。
自殺すればいいだろうか。
しかし、そうすれば残された睦美が悲しむかも知れない。
いや、そもそも彼女は自分のことを悲しんでなどくれるだろうか。
「僕はまた、思い上がった勘違いをしているのかな」
寝返りを打って、目をつぶったままぼんやりと考える。
思い返せば、小学校に上がってから高校を卒業するまで、ずっといじめに遭っていた。
大学に入って、友達は居ないけれども平和な日々が始まる。
自動車の免許なんて取ってみたり、コンビニエンスストアで深夜のアルバイトをするようになった。
経済学部の勉強は好きじゃないけれど、やっと自分にも平和が訪れた。
そのはずだったのに。
「戦争なんて、いじめより嫌いだ」
独りぼっちのテントで、ぎゅっと唇を噛む。
ぼりぼりと音を立てて腕を掻いた。
左腕は、見た目に全く変化は無い。
だが、何か毛虫がはい回るような不快感だ。
思わず掻きむしらずに居られない程の衝動、不思議な感覚だった。
そして、痒い部分を掻くことで、それがある種の恍惚感をもたらしている事に、一抹の不安を感じる。
痒いから掻くという、その単純な行動が快楽に変わるのだ。
「やばいよね、このままじゃ」
皆の居る前では、これ以上心配を掛けるわけにいかない。
痒いと言っても、実際には相当我慢をして、空元気で笑顔を作っている。
本当は、掻きむしりたくて仕方が無く、かゆみ止めを目一杯すり込んでごまかしているのだから。
「ううう、痒い痒い痒い痒い」
薬が切れてきたらしい。
腕の皮膚は真っ赤になり、至る所が内出血をしている。
掻くどころか、触るだけでも痛みが走る。
かゆみ止めも最初は効果があったが、徐々にそれも薄れてきた。
「お加減はいかがですか?」
「あ、クリスさん、ご迷惑をお掛けしています」
「迫田さんと木戸さんが今、新しいかゆみ止めを探しています。
ご心配なさらないでくださいね」
「ありがとうございます」
睦美が連れてきた二人の男女。
片方は目が青く、金色の髪をしたドイツ人だと名乗る女性。
そして、日本刀を持って、爛々とした目をした筋骨たくましい男性。
二人は本当に僕の味方だろうか?
ひょっとしたら、感染した僕を殺すために。
嫌な想像を追い払いたくて、光樹は頭をぶんぶんと振る。
クリスは何がおかしいのか、そんな彼を見てくすくすと笑った。
「痒み、まだ収まりませんか?」
「え、ああ、はい」
急に真顔になって、クリスは光樹の腕を取る。
不意に女性に触れられて、思わず腕を引っ込めてしまう。
「だめですよ、か、感染しちゃいますから!」
「まだ感染すると決まったわけではないでしょう」
「そうですが、万が一という事も考えられますし!」
「あら、血が出ていますね」
よく見ると、腕の一カ所に小さく傷ができていた。
掻きむしり過ぎたせいかも知れない。
「掻きすぎてはいけませんよ?」
静かで憂いを湛えた笑み。
思わず、ぼんやりと見とれてしまう。
ああ、こんな人が自分の恋人だったなら、自分の人生はもっと違った方に動いていたかも知れない。
温かで、穏やかで、どんなに辛いときも希望の光が射し込むような。
「それでは、迫田さん達の様子を見てきます」
「はい、ありがとうございました」
テントと蚊帳の外に出ていくクリスの後ろ姿をぼんやり見送る。
ほんの微かに、香水のようなハーブの香り。
或いはそれも、病気に伴う幻かも知れない。
ぼりぼりぼりぼり。
気が付くと、人目が無くなれば無意識に腕を掻いている。
「ん? 痒みが……」
突然、それは訪れた。
言葉にできない感覚。
痒みという何かが、徐々に肉へと染み渡っていく。
本来、皮膚の表面に『痒み』というのはあるものだ。
ところが、それが今は皮膚の遥か下に感じられる。
掻きむしっても、それはまるで、服の上から皮膚を掻いているような、もやもやとした不快感だけが残る。
「ちょっと待て、落ち着け、落ち着こう」
ぐるぐると、頭の中で記憶が錯綜する。
頬をつねってみる。
何が起きているのか。
さっきまで痒かったはずの腕の表面が、いくら掻いても収まらない。
さらに強く力を入れる。
だが、分厚い肉の層が本当に痒い部分に届くのを邪魔しているらしい。
らしいというのもおかしなものだ。
だが、実際に痒いのはもっと皮膚の下、そう、それはまるで―
「骨が……痒い……?」
信じられない。
元は痒かったはずの腕の皮膚を、ぼんやりと掻く。
気が付くと、外は雨が降り始めていた。