第19章 キミダケガボクノトモダチ
「ふうっ……ふうっ……ぐうう」
うめき声を上げながら、毅は瓦礫を投げ捨てるようにして目的の物を探している。
少し離れた場所で、テントのようなものを設営し、そこで仁、夏美、藤次は休んでいる。
蚊と蚤の対策と言っても、虫除けスプレーを体に掛けて、殺虫剤のスプレー缶を傍に置く以外には有効な手だてが取り得ない。
身を隠す場所など、この世界のどこにも無いのだ。
人類はただひたすら、見えない魔の手に怯えながら、昼夜を問わず脅かされる。
眠る時、誰かに自分を見張っていてもらわねば、気が付けば小さな悪魔の攻撃を受けているかも知れない。
「ああ、不安で不安で仕方ない。不安で不安で仕方ない」
ぼりぼりぼりぼり。
三木原毅はまさに、今自分がその悲劇の供物になろうとしている事を、頭の中では否定しつつも感じていた。
外に行くと言ってテントを出ると、思いっきり頭頂部を掻きむしる。
テントの中でやろうものなら、一瞬にして疑いの目を向けられるかも知れない。
そうすれば、仁はすぐさま自分に銃口を向けるだろう。
ぼりぼりぼりぼり。
早くかゆみ止めを見つけねば。
おかしい、あまりにもおかしい。
掻けば掻くほど、痒みの範囲が広がっていく。
痒みが強いほど、掻くたびに訪れる快楽が強まっていく。
気が付くと頭に手が行く。
そして爪を立ててしまう。
ぼりぼり。
ぼりぼりぼりぼり。
爪の音が青い夜に響き渡る。
ぼりぼりぼりぼり。
痒くて痒くて気持ちいい。
「危険だ、このままじゃ」
そろそろ仁がテントを出てくるのではないだろうか。
そうすれば、自分が感染していると思われてしまう。
とは言えたった五%だぞ?
たかが二十匹に一匹だ。
たまたま頭がすごく痒いのが、ちょっと強いだけかも知れない。
そうだよ、偶然だ。だからかゆみ止めを早く見つけて、あそこに戻ろう。
もし感染を疑われたりしたら―
「ああ畜生、早く出てくれよ、もう時間が無い」
この辺りにはドラッグストアがあったらしい。
虫除けスプレーも、殺虫剤もここで手に入れた。
蚊取り線香もあったし、栄養ドリンクも目薬もあった。
なのにかゆみ止めが見つからない。
戦争が終結したのは夏の終わり頃。
まだまだかゆみ止めはあっていい。
あるはずだ。
毅の手は瓦礫をかき分け、気が付けば手首は切り傷から出た血で濡れている。
だらだらと粘着質の汗が頬を伝い、コンクリートに小さなしみがいくつも浮かぶ。
この壁をどけたら出てくるかも。
このガラスの破片の中にあるかも?
やがて無情に顔を見せる、土とアスファルトの地面。
「クソッ、何で出てこないんだ?!」
無性に腹が立って、傍にあった瓦礫の山に蹴りを入れる。
だが、足の方が弱い。
すぐに痛みが全身を突き抜け、はたとその場に座り込んだ。
「痒いよ……やばいんだよ……何だよおい、俺が何したって言うんだよ……」
ぼりぼりぼりぼり。
ばりばりばりばりばりっ!
「ふう」
掻きむしり過ぎたせいか、頭頂部はひりひりと痛むようになっていた。
手にはごっそりと、血に混じって毛が貼り付いている。
絶望が、ゆっくりと心の中に忍び込む。
冷たいその手は、後ろから頬に触れ、顔全体を包み込む。
恐怖は既に、心の全てを支配していた。
「うわああああああああああ!」
思わずのけぞり、転げ回った。
と、その時手に掴んだもの。それは夏場によく見かける、かゆみ止めの薬瓶だ。
「よおおおおおおおし!」
急いで瓶の蓋を開け、頭頂部にすり込む。
「うああ、しっ、しみる!」
もはやぼろぼろになった皮膚に、薬は拷問のように染みこむ。
だが、同時にそれは全身を駆け抜けるエクスタシーへと変化する。
息が止まりそうな程、それは何とも言えない、甘い恍惚感をもたらした。
「はあ……はあ……ああ……何てこった」
その場に座り込み、膝を抱える。
どうすればいいのか、もはや自分でもわからない。
こんなおかしな体で、この先をごまかし、生きていけるだろうか。
感染しているのかも知れない。
いや、間違いなく感染しているのだろう。
毅の心は動揺する。
だが、落ち着こうとしても、落ち着ける理由が見あたらない。
彼は半ばパニック状態になっていた。
神に見放され、地獄へと堕とされる。
このままではどうすることもできない。
「ああ、そうだ、確か……」
カッターナイフ。
それはポケットの中でふくらみを作り、自分はここにいるよと訴えかけている。
使って欲しいよ毅さん。
ああ、カッターナイフの声が聞こえる。
「君は俺を助けてくれるかい?」
うん、だって毅さんが苦しそうだから!
「そうなんだ、俺は今とても苦しいんだよ。
苦しくて仕方ないんだ」
僕を使って毅さん!
「ありがとう。それじゃまずは取り出すよ」
チキチキチキチキ
「可愛い音だね」
やだよ、照れるなあ毅さん。
「そんなことないさ、君の刃は綺麗だよ」
じゃあ、僕を頭の上にかざしてね!
「ああ、こうかい?」
そのまま突き立てて!
ザシュッ
「うあああああああああ!」
痛い?
大丈夫毅さん?
「痛いよ! ああああ痛いよおおおお! 畜生畜生! 次はどうするんだ?」
痒い部分を中心にして、周囲を円で囲い込むように僕を回して!
きりきりきりきり
「ぐうあああああああああ?!」
ダメだよ。声が大きすぎると誰かに気が付かれちゃうよ?
「そ、それもそうだ……」
ゆっくり、慎重にね!
「ぐっ、くうっ、ふうううあああああっ……んんんんんん……」
うん、いいよ。
焦らないで。
ほおら、終わったよ毅さん!
「ぐうっ、そっ、それでどうすればいい?」
頭の皮を剥がすんだ!
「なにい?」
このままにしておくと、また痒みが襲って来ちゃうよ!
「そうかも知れないが……」
ほら、目の前にちょっと汚いけど帽子があるよ、これでごまかしちゃえ!
「そうだな、帽子か、ああ帽子だ」
それは泥にまみれ、部分的に破れてぼろぼろになっているベレー帽だった。
だが、今はこれをかぶらなければいけない。
そして、その前にやるべきことがある。
「ふううああああっ、づあっ!」
脳の中身をかき混ぜられるような、信じられない痛みだ。
だが、このままでは死ぬと思うと、手は止まることはない。
「はあっ、はあっ」
途中から一気に力を入れ、強引にそれを剥がした。
頭は割れるような痛みが伴っている。
剥がした頭皮を投げ捨て、目深に帽子を被ってみる。
「こ、これでいいのか」
うん、ばっちりだよ!
「ありがとう……助かったよ……」
嬉しそうな声。
カッターナイフが笑う。
なぜ声が聞こえてくるのか、疑問も浮かばない。
物が喋ろうと喋らまいと、もはやそんなことは些細な問題だ。
大切なのは今。
そして生き残るために、それはきっと必要な出来事なのだ。
夜が更け、気が付くと月だけが、毅の事をじっと見ている。
徐々に眠気が襲ってくる。
おやすみなさい、良い夢を。
薄れゆく意識の中、カッターナイフの声が聞こえた。