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爪の音  作者: 一人旗目
19/42

第18章 偽善であれ、光りあれ

「クリス、蚊帳かやを見つけたぞ!」

「かや? それはなんですか?」

「蚊が入るのを防ぐ網のようなものだ。

 ホームセンターの残骸らしかったから、調べたのがラッキーだった」

「よくわかりませんが、迫田さんが幸せであれば私は幸せです」

「ふん、お前はもう少し人の事より自分の事を考えろ。

 こんな時代じゃ、俺だっていつお前を裏切るかわからないぞ」

「迫田さんにならば、殺されてもかまいません」

「冗談を本気にするな!」

「うふふ、おいたが過ぎましたか」

 見渡す限り、地平線の果てまで続く瓦礫の荒野。

 楽園入場券の争奪戦が終わった今、人が多い場所は危険だと思い、景人はクリスを連れて来た道を戻っていた。

 吸血鬼と聞いていたせいで、てっきり映画で観たようなヴァンパイアが襲いかかってくるのだと思っていた。

 ところが、実際の敵は蚊だという。

 最初、そのアナウンスにほっと胸を撫で下ろした。

 だが、すぐに事の重大さに気が付き、景人は愕然として膝を突いた。

 もしどこかで眠っていたとしたら、知らぬ間に何らかの病に感染している可能性がある。

 人間や獣と違い、彼らは羽音以外はほぼ姿を捉える事も難しい。

 本物の吸血鬼の方が、よほどありがたかったかも知れない。

 人類は常に、ほぼ見えない敵と戦わねばならなくなったのだ。

 心休まる場所などどこにも無い。

「かつて、ペストはヨーロッパで猛威をふるったんだってな。

 ペストの媒介は鼠に付いていた蚤だったらしい」

「そうなんですか。よくご存知ですね」

「常識だろう。世界史で習ったはずだ」

「もう覚えてませんわ」

 落ち着き払った上品な笑顔。

 景人はそれを失いたくは無かった。

 鉄パイプを四方に立て、そこに蚊帳を吊る。

 完全な防御と言うには厳しすぎるが、無いよりは遙かにましだ。

 少なくとも、蚊には絶対的な防御力を発揮するだろう。

「問題は外出時だな」

 食料の調達、水の調達には必ず蚊帳の外に出ねばならない。

 その際は、虫除けスプレーをするか、厚着をする他はない。

 顔を出すことさえ憚られる。

「どうしましたか?」

「何でもない」

 怒りにはエネルギーが要る。

 矛盾した世界、非力な自分、愚かな戦争を起こした人類。

 しかし、神は手を差し伸べるどころか、自分の命を絶望と奈落の底に叩き付けたのだ。

 滅びてしまえばいい。

 何もかもくだらない。

 全部滅びてしまえばいい。

 滅び去れ!

 などと、永久に怒るわけにも行かないのだ。

 今自分には守るべき恋人が居る。

 食べ、飲み、睡眠を取らねばならない。

 楽園という希望を閉じられ、混沌を包み込んだ夜が近付いてくる。

「クリス……俺は……」

「何ですか?」

「弱くて、済まない」

「なぜ謝るのでしょう。

 私は迫田さんに感謝こそしても、恨んだ事など一度もありません」

「愛した女一人守れずして、まるで人形じゃないか」

「精一杯守って下さって、私はとても嬉しく思います」

「世辞だろう? 空元気だろう? 絶望的なこんな世界で、俺なんかを選んで後悔してるんだろう? そうだろう? なあ、そうなんだろう?」

「ふふふ、そんなつまらないことで悩んでいらっしゃったんですか」

「つまらない? そんなことは」

 そこまで言った時、ふわりとその唇が塞がれた。

 それは時を止める魔法。

 ほんの一瞬で、全ての言葉は奪われる。

「愛しています。あなたのことを」

「クリス……」

「地獄に堕ちても、後悔などしません」

 まっすぐな瞳に、思わず膝を突いてしまった。

 聖母が居る。

 ああ、俺の愛しいこの人は聖母だ。

 彼女を救うためならば、どんな悪鬼羅刹にでもなろう。

 ぼんやりとする景人の頭を、そっと胸元に抱き寄せ、クリスは頭を撫でた。

 甘い匂いが鼻をくすぐる。

「私が先に神の国に行けば、門の前であなたをお待ちしています」

「馬鹿っ! 死ぬことなんてもう言うな。

 口が裂けても言うんじゃないっ!」

「ふふふ、では私を守って下さい、景人さん」

「当然だ!」

 消えかけていた希望の炎は、いともたやすく燃え盛る。

 守るべき人がいる。

 その間、自分は死ぬわけにいかない。

 防御の仕方さえ把握すれば、病気に掛かる事は無いだろう。

 とにかく蚊帳をつり下げ、床には拾ってきたガムテープで補強する。

 隙間を無くす事で、蚊が一匹も入れなければいい。

 内部はさっき見つけておいた殺虫剤を撒く。

 これでほぼ完璧なはず。

 この中に居れば、当面の間は問題ない。

「素敵なお城になりましたね」

「そのうち、ちゃんとしたベッドで抱いてやるよ」

 蚊帳の中で、華奢なクリスの体を抱き寄せ、半ば強引に唇を奪う。

 ちょっとした仕返しだ。

 抗わず、ゆっくりと愛撫されるがまま、舌がクリスの歯と歯の間に差し込まれてゆく。

 ぴちゃりぴちゃりと、淫靡な水音だけが聞こえる。

 むさぼるようにして舌を絡ませ、控えめに彼女はそれに応える。

 胸に手を滑り込ませようとした、その時だった。

「そこの人、助けてくださいっ!」

「うおっとっ、なっ、何だいきなり?!」

 突然後ろから大きな声で呼び掛けられた。

 まさに今、事に及ぼうとしていた時だけに、その焦りは計り知れない。

 だが、必要以上に取り乱す事も出来ず、急いで呼吸を整える。

 声がした方を見ると、片方の足を引きずるようにして、こちらに近付いてくる女の姿があった。

 怪我をしているのだろうか、鉄パイプを杖にして、実に辛そうな様子だ。

「お願いです。谷村さんを助けてあげて!

 お願いっ、ひぐっ、お願いします」

「藪から棒に何だ。あんた誰だ?」

「私は木戸睦美って言います。

 あっちの方で谷村さんが倒れてるんです。

 何かおかしくって、あの、罰ゲームの病気みたいで」

「罰ゲームの病気?」

 その言葉を聞いた瞬間、ぎょろりと景人の目が動く。

 今ここにやってきた、睦美の全身を舐めるように見回す。

 もし切り傷などでもあろうものなら、そこから血液感染している可能性もある。

 そうであれば、この娘も、すぐに斬り捨てねばならない。

「悪いが俺は医者じゃない。他を当たってくれないか」

「そんな……」

 女はその場にへたり込む。

 もう打つ手が無いのだろう。

 この辺りには人が無く、それ故この場所を選んだのだ。

 下手に他人と関わり合うような真似は、自殺行為だ。

 相手が女子供だろうと、それは変わらない。

 利用するかされるか。食うか食われるか。

 憐憫や同情は自分やクリスの死を招く。

 それは絶対にあってはならない。

「私に何ができるかわかりませんが、お手伝いしましょうか?」

「クリス?!」

「まだ若い女の子じゃありませんか。

 その願いを無碍に断るなんて」

「君は甘いんだよ! いい加減にしてくれ!

 俺がどれほど心配してると思ってる?」

「では、この子と共に私をここで斬り殺して下さい」

「くっ」

「あなたはおっしゃいましたよね、一人殺すのも百人殺すのも同じだと」

「クリス、私を困らせないでくれ」

「私の命は殺された一人の命、百人の命に等しいのです」

「等しくなんか無い、命には価値の差がある」

「では私の命は安いものでしょうね」

「クリス!」

「お名前は何というの?

 私はクリスティ・カデル。

 あちらの男性は迫田景人さん。

 それで、谷村さんとおっしゃる方はどちらに?」

「私は木戸睦美です。

 紹介はいいから、彼はこっち、来て!」

 クリスの手を引いて、走り出そうとした瞬間、睦美は自分が怪我をしていることに気が付く。

 だが、既に地面に勢い良く足を突いていた。

「うあああっ」

「大丈夫?!」

「私はいいから、それより谷村さんのこと」

 ぼろぼろと涙をこぼしながら、睦美はすがるように言葉を搾り出す。

 それに答えるなど、偽善そのものの姿。

 既にここに居る者達は、全て地獄行きが確定している。

 ああ、それなのになぜ助け合う?

「あなた、足から血が出てるわ」

「うるさい! これくらいどうってことないから! それより谷村……痛っ」

 見ていられない。

 しばった傷口に血を滲ませて、痛みに耐えている。

 それも、自分ではない誰かのために。まるでどこかの大馬鹿野郎にそっくりだ。

 そいつはどうしようもない寂しがり屋で、意地っ張りの―

「おい女、その谷村って奴に何をどうすりゃいいんだよ」

「女じゃない、私には木戸睦美って名前がある!」

「うるせえ! その谷村に何すりゃいいんだって聞いてんだよ!」

「助けて……くれるの?」

「ああ、だから早く場所を案内しろ」

「はっ、はいっ!」

 睦美は半分べそをかきながら、クリスと景人に光樹の居る場所を伝える。

 ここから、わずか数十メートル向こうの方にある、倒壊したビルの裏側に居るらしい。

 それを聞いて、まだ自分の気配を感じる力の低さに、景人は少々落胆した。

「ありがとう……二人ともありがとう……」

「感染だけは勘弁して欲しいがな」

「大丈夫、薬を探すのを手伝って欲しいだけだから」

「薬?」

「かゆみ止めだよ」

 思わず耳を疑う。

 だが、睦美の表情は真剣そのものだった。

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