第17章 ハツコイエンペラーの乱心
ぼりぼりぼりぼり。
毅はつむじの辺りを執拗に掻きむしっている。
我慢出来ないほどの痒さではないが、たまに掻かないとむず痒くて仕方がない。
ぼりぼりぼりぼり。
ぼりぼりぼりぼりぼりぼりぼりぼり。
「ねえ、三木原さん」
「ああ」
ぼりぼりぼりぼり。
「すごく、言いにくい事なんだけど」
「何ですか」
「それ、蚊にかまれたのよね?」
毅の手が止まる。
恐れていた一言を、ついに聞いてしまった。
「ただの蚊であって、病気とか関係無いですからね?」
「本当に?」
「当然ですよ!」
毅以外の三人は、神の啓示のあと、明らかに距離を取っている。
その病気が感染するかどうか、神は告げなかった。
ならば、感染する可能性は否定できない。
もし空気感染、血液感染、皮膚感染ならば?
「ちょっと待てよ、俺の事を汚らしいものみたいに扱うのか?!」
「悪いが三木原さん、あんたは近づかないでくれ」
「陣内さん?!」
「あんたに恨みは無いし、嫌いなわけでもない。
ただ、現状リスクがある以上、俺達に無闇に近づこうものなら殺す」
「ちょっと待ってくださいよ。じゃあ何ですか、俺一人でこのままどこかに行けって言うんですか? 俺が何をしたって言うんですか?」
「すまない……」
「すまないって何です? 今さら冗談じゃない!
ただでさえこれから始まる罰ゲームなのに。
皆で協力して乗り切らなきゃいけないでしょう?」
「あんた、既に感染者かも知れないだろう」
「感染したって証拠は? たかが五%程度の蚊ですよ?
証拠も無いのに、あなた達は決めて掛かるんですか?」
「感染してない証拠も無いな」
「ひどい! あんまりだ! 人権侵害だ! 俺はほら、正常なんだぞ?」
「うるさい」
グロックの銃口が火を噴いた。
それは毅の足下に着弾すると、砂埃を上げて宙に消える。
今必要なのは沈黙だ。
多少荒療治だとは思ったが、これが一番有効だっただろう。
「とにかくちょっと落ち着け、ハツコイエンペラー」
「知ってたんですか?!」
「すまん、気付かない振りをしてた」
言った後で、しまったと後悔するがもう遅かった。
毅の顔からみるみる血の気が引いていく。
ただでさえ分裂した状況で、これは最悪だ。
「わかったらこっちに来ないで。ハツコイエンペラー」
「その名で呼ぶなあああああああ!」
「だってハツコイエンペラーじゃない」
「君島さん、ハツコイエンペラーをいじめないで」
「藤次君、俺の名前は三木原毅だから……」
「そうよハツコイエンペラー」
「だからその名で呼ぶなあああああああ!」
「落ち着けえっ!」
辺りの空気が痺れるような大音声。
禅寺の僧が入れる喝のように、仁の叫び声で周囲は静けさを取り戻した。
一方、毅はなぜ自分が怒られるのか分からないまま、頭の中で状況を整理しようとする。
とりあえず自分は悪くないはずだ。
何度も言い聞かせるように、違う方向を見たまま頷く。
「ハツコイエンペラーはいつもサイレントでクールな奴だ。
アイスマンという二つ名を持っていたことを忘れたのか」
「ああ、確かに俺はそうとも呼ばれていましたね」
(よし、掛かった)
「それが何だ、状況が変われば人も変わるのか? お前はその程度のつまらない男か?
いつもお前が使ってるキャラ、元ソ連KGBの局長だったミハイル・チャレンコフそのままに、お前の戦いぶりには無駄が無かった。
そして、ミハイルならきっと今のお前を見て言うだろう」
一呼吸の間を置いて、仁は続ける。
「北極で戦ったシロクマの方が手強いぜ。ってな」
「北極のシロクマ……」
常識的に考えて、シロクマの方が強いには違いない。
だが、ゲームキャラクターの心情にシンクロした時、彼の中ではそれが最高の鎮静剤の言葉となっていた。
落ち着け毅、お前はそんなつまらない男じゃないはずだ。
シロクマごときに劣ってどうする。
ここぞという時に、慌てふためいてどうする。
「取り乱してしまってすまない。ロンドンキャット」
「落ち着いたようだな」
「ああ、もう大丈夫だ」
「でもさあ、どうでもいいかも知れないけど、ハツコイエンペラーっていう名前、センスのかけらも無いわよね」
一瞬にして空気と時間は凍り付き、一呼吸の後に動き出す。
「うおおおおおおお?!」
「てめえ、君島ぁッ、この馬鹿オンナあっ!」
「馬鹿女だあ?!」
「みんな落ち着いてよ」
事態が収拾するまで、その後十五分の下らないやりとりが続いた。
どこか抜けたような空気は、緊張感を和らげる。
それはあくまでも気休めに過ぎない。
仁は頭の中で冷静に、皆に気付かれずどうやって毅を始末するべきかを思案していた。