第10章 蒼い大海原とロンドン猫
そもそもやくざやマフィアがそれっぽい格好をしているという、世間的な認識が間違いなのだ。
本当に恐ろしい奴らは、ギンギンの派手なアロハシャツを着ていたり、髪を金色に染めたりはしていない。
それはチンピラ、三下、下っ端だ。
本物は同じ命の取り合い、戦場を駆け抜けてきた修羅だけが身に付けた、隠し切れない血の匂いと殺意がにじみ出ている。
そして、彼らは滅多に争う事はない。
銃や刃物を使う時は、どちらかが死ぬか再起不能になるまで殺し合いは続く。
本当に強く、本当に恐ろしい者達だからこそ、衝突は避けるのだ。
だが、それは平和だった時代。
今や状況は一変している。
途中で拾ってきた双眼鏡で、少し小高くなった瓦礫の山から身を隠しながら、仁と藤次は倉庫の周囲を観察していた。
さすがにマフィアも春日井組も、組織として壊滅してしまったのだろうか。
一見した限りでは人の気配は無い。
だが、いきなり正面から近付いていくのは危険にも程がある。
春日井組であれば、まだしも日本語が通じるだけマシだが、相手が香港マフィアであれば厄介だ。
言葉が通じない奴もいるし、交渉成立と見せかけて、背中から撃ってくる奴もいる。
一応距離を取りつつ、近付いていくのが正解だろう。
「陣内さん、あそこに悪い奴らがいるの?」
「うーん、俺達は金を奪おうとしてるからな、今は俺達が悪い奴ら」
「あれ?」
「深く考えるな、こういう時代だ」
「はい!」
「こんな時に元気な返事するな……」
懐の中にある、最後の武器を改めて確認する。
たまたま死んでいた警察官の懐から失敬したニューナンブ、それと、自分が元々装備していたグロック。
ニューナンブはリボルバー式になっており、替えの弾が無い。
一発は空砲になっているため、事実上の弾は五発。
一方のグロックは、替えのマガジンが一つあるので、全部で二十発は撃てる計算になる。
だが、敵の数や装備がわからない。居るとしても一人か二人だろうから、よほど正面切って挑まない限りは、問題は無いだろう。
ただ、ゆっくりとしている暇も無い。
ぼんやりしていれば食料も水も無くなり、楽園の枠も埋まってしまうだろう。
今朝方、あの渋谷系女子高生のような神のご神託が下った。
既に半分の枠が埋まっているという。
それは仁の心に、今までにない焦燥感を与えた。
時限爆弾を抱えて、その解体作業をさせられているような気分だ。
「落ち着け藤次」
「うん」
「焦るな藤次」
「うん」
「いいか、こういう時は深呼吸だ」
すぅー、はぁー。
「よし、大丈夫だ」
なでなで。
「…………」
「落ち着いた?」
「少しだけな」
「よかった♪」
思わず体育座りをしそうになって、さすがにぐっと堪える。
いい加減に子供に翻弄され過ぎだ。
自分の方が仮にも三十年近く人生の先輩をしているのに、いったい何をしているのだろうか。
いや、案外こいつが大物なのかも知れない。
ちらりと藤次を見ると、屈託の無い笑みを浮かべ、仁の方を見ている。
藤次の目は、自分を完全に信頼しきっている。
なるほど、それで落ち着いているわけか。
納得すると同時に、嫌なプレッシャーが胃に込み上げてくる。
守るべきものを傍に置いて戦う。
それはアニメやゲームでも現実でも、圧倒的に不利な事だ。そんなリスクを避ける為、相棒などは一切作らず、たった一人で生きてきた。
頼れるような身内も斬り捨て、一匹狼として闇社会に身を置くようになって久しい。
アキバ系に心を惹かれたのは、そこには失ったはずの心の平安があったから。
可愛くてひたむきな妹が居たり、厳しくて優しい姉が居たり、お日様の光と、緑の匂いがよく似合うような、学園での楽しい友達との生活。
どんなにひどいことをされても、主人公である自分を裏切らない二次元の恋人達。
そこだけが自分の逃げ場で、そこだけが彼の楽園だった。
ふと横を見ると、藤次が何か言いたげな仁の視線に気が付き、にっこりと笑う。
「なあに?」
「弟萌え、か」
「もえ?」
「うおおおおおおおおおおおお!」
できるだけ小声で叫ぶ。
自分で言ってみて、あまりの変態的倒錯振りに、さすがの仁もがっくりと膝を付いた。
ああでも、最近はそういうのも流行しているという。
まさにビジネストレンドの最先端かも知れない。
「ん?」
「そこ、かわいらしく首をかしげるんじゃない!」
「痛い痛いーっ、僕何もしてないよ?!」
「存在が悪い」
「よくわからないけど、何だかとてもひどいことを言われてる?」
「って、そんな馬鹿なことしてる場合じゃないんだって!」
「陣内さん、今日はテンション高いね」
「いつもと同じだ」
「痛いってばあ!」
いがぐりげんこつを叩き込みながら、もう片方の手で双眼鏡を覗き込む。
すると、目の前に人の顔が現れた。
言葉よりも先に手が動く。
ひょろっとした面長で、どちらかというと痩せぎすという感じ。
手にスライドが既に引かれたグロックを握ると、照準を相手の心臓付近に定める。
相手はもはや観念したように両手を挙げ、引きつった笑みを浮かべている。
「名前と目的、そしてここに居る理由を言え」
「西坂出学院大学大学院前期博士課程工学部素材学科、柳勉! あちらの倉庫にあるお金を拝借に来たところ、お子さま連れのあなたを見かけ、声を掛けようとした次第です!」
「何だ、一般人か」
こちら側の人間かと思っていたが、一気に緊張の糸が緩む。
殺気を感じなかったとは言え、こんなひょろ長い青二才に近付かれていた事に、仁は軽く落胆する。
「やれやれ、油断大敵か。こんな奴に近付かれるとは、俺もヤキが回ったかな」
「それはきっと、僕が通信教育で空手を習っているからですよ」
「よく分からないが、それは無い」
一言の下に否定すると、相手が銃を持っている事も忘れ、勉は露骨にむっとした表情を見せた。
だが、もちろん仁はそんなものを気にはしない。
「そこに隠れてるらしい二人、出てこいよ。こいつは鉄砲玉か?」
「あの、銃を持ってる理由を言っていただけないとたぶん出て来れないかと」
「ああこれか。モデルガンだよ」
「どう見ても、そんな安っぽさが無いのですが」
「細かいツッコミするね君、ここで死ぬか?」
「い、いえ、決してそんなつもりじゃ!」
「まあ元々あっちの業界に関わる仕事はしてた。違法な武器の密輸商人だ」
「やっぱり!」
「お前、喧嘩売ってるのか?」
「三木原さーん、君島さーん、助けて!」
勉が半べそになって声を上げるのを聞いて、またも緊張の糸が緩む。
こんなに根性の無い鉄砲玉も珍しい。それに脅しが強すぎて、目の前で小便をちびられても困る。
仁は銃を懐に戻すと、全てをリセットするように溜息を吐いた。
「悪いな藤次、嫌な場面を見せちまって」
「陣内さん、超カッコイイです!」
「へ?」
「なんか、ゲーム『エイジオブウルフ2』に出てきた殺し屋のカインみたい!」
「え? マジ? 今の俺ってちょっとカインっぽい?」
エイジオブウルフは、仁が大好きな格闘ゲームの一つだった。
いい大人がと笑われそうだが、平和な時代にはゲームセンターのオンライン対戦で上位成績を取った事もある。
カインは特に、仁のお気に入りのキャラクターになっていた。
「フフフ、テキサスの水牛の方が手ごわかったぜ」
「うわ! カインのキメ台詞!」
「似てた? 今の俺、似てたか?」
「ばっちりです! うわー、なんかすごい!」
生まれて初めて、仁はガッツポーズをした。恥ずかしげもなく、こんな場所で。
「俺、秋葉原のゲーセンでロンドンキャットって名前で、カイン使ってたんだ」
「なにいっ、貴様がロンドンキャット?!」
突然、勉が驚いたような声を上げる。
「む?」
「俺はブルーオーシャンだ……」
「何だと? あの店で最強のチャンプとして知られた謎の覆面ゲーマー、貴様が?」
「初めましてロンドンキャット。あなたの噂もよく聞いていたよ」
「ブルーオーシャン。こんなところでお前と会うとは、運命を感じざるを得ないな」
盛り上がる二人を後目に、壊れた自動車の陰に隠れていた二人が姿を現す。
だが、仁達はまるでその事に気が付いていない。夏子はやれやれと肩をすくめ、小さく呟く。
「何してるの、あんた達」
氷のような視線が、背後から二人を刺し貫いた。
その刹那、本能的に仁の中には改めて、恥ずかしさが込み上げてくる。
伝説の男にして最大のライバル、ブルーオーシャンに出会えた喜びと、いきなり現れた女性に自分の秘密を大声で聞かれた恥辱。
その両方が背筋を駆け抜ける。
「えーっとね、あの倉庫を攻略する為の善後策をロンドンキャットとだね」
しどろもどろになりながら、勉は答える。
「ロンドンキャット?」
「今はその名前で呼ぶなブルーオーシャン!」
「ブルーオーシャン?」
「すごい、ロンドンキャットとブルーオーシャンがこんなところで出会うなんて!」
「ごめん、私には何の話だかわからないんだけど」
「お姉さん、この二人は秋葉原のヒーローだったんだよ! 僕、あこがれてたんだ!」
「秋葉原のヒーロー?」
舐めるように足のつま先から頭のてっぺんまでを、じろじろと観察する。
確かに秋葉原って感じかも知れない。特に柳勉。
「なっ、なんだよその納得したって表情?!」
「その隣の人は?」
「あ、ああ、私は陣内仁という。今さら隠す必要もないが、裏社会の武器商人をしていた」
「ロンドンキャット」
ぼそっと夏子はつぶやく。
それは今、どんな武器にも勝る魔法の言葉。
「うぐあっ?!」
「裏社会の人なのに、ロンドンキャット」
「やっ、やめてくれえええええええ!」
「ブルーオーシャン」
「僕が悪かったよ君島さん」
良いネタを掴んだ。
将来危機的な状況になったら、この件は手札に使えるかも知れない。
あくまでも合理的な思考を巡らせる夏子。
その冷静過ぎる横顔を見て、毅は絶対に自分がハツコイエンペラーという名前で、同じゲームセンターの中で知られていた事を明かしてはならないと深く胸に刻んだ。