とある伯爵夫人の幸せな結婚
我が道を行く伯爵夫人の幸せな結婚生活の話
とある伯爵夫人の幸せな結婚
夏でも涼しい高原の風に吹かれ、アリスは目を細める。どこまでも青い空に、白い雲が流れていく。吸い込んだ空気の爽やかな香りが肺を満たし、全身に巡って行った。
低い柵に囲まれた放牧地では、馬たちが思い思いに過ごしている。楽しそうに駆けている者、下草を食んでいる者、アリスと同じように雲を眺めている者もいる。
「今日もいい天気ね」
近づいて来た仔馬の背を撫で、そのしなやかな毛並みを堪能すれば、母馬が少しだけ怒気を孕んだ鼻息を吐いた。
「あらあら、ごめんなさいね」
馬も人と変わらず、母子の情は強い。癇癪を起こさないでね、と仔馬から手を離し、アリスは馬たちに背を向けて歩み始めた。
草を踏みしめれば、青臭い匂いが立ち昇り、馬たちの嘶きが背中に纏わりつく。下っていく道の先に見える厩の周りにも何頭もの母子馬が仲良く歩いていた。
(ああ、幸せだわ……)
仔馬たちの毛並み、体格、どれもこれも素晴らしい将来を予感させる。
この子は重量賞間違いなしだわ、この子は障害物競争に強そう、この子は運搬力が抜群になりそう、などとと親馬鹿ならぬ馬馬鹿を発揮しながらアリスは踊り出しそうになっていた。
「お母様、相変わらず楽しそうですね」
苦笑を浮かべながら声をかけてきたのは、娘のバイオレットだ。その名の通りの菫色の瞳は、楽しそうな色を宿している。
「今年の子たちも、みんな将来有望そうなのよ。嬉しくなってしまうわ」
「昨年も同じことを言っておりましたよ」
「ふふ、来年もきっと同じことを言っていると思うわ」
ここ五年ほど、お褒めにあずかることが多くなっている。それもこれも、アリスの二十年以上にわたる努力の賜物だ。
「先王陛下から直接お言葉を賜ったと聞いた」
不意に割って入ってきた声に、バイオレットは顔を一瞬顰め、アリスは首を傾げた。
「よくやったな、アリス」
どちらさまですか、と口に出す寸前で思い出したものだから、
「はあ」
と、何とも間の抜けた声になってしまうのも仕方のないことだろう。
「……あの……何か御用でしょうか?」
動物臭い、馬糞の匂いが染み付いていて気持ち悪い、と領地にも牧場にも顔を出したことのない男だ。それでも、領主としての腕は悪くないのだから、頭はいいのだろう。ついでに、容姿も。若い頃は、常に浮き名を流していた美貌は、歳を取ってもそれなりに保たれている。
「王族方や大公家、辺境伯家の覚えもめでたいと聞く」
「ありがたいことですわ」
一体何が言いたいのか分からず、アリスはますます深く首を傾げる。
「沢山のご招待をいただいている。領地になど引き籠らず、王都へ来い。誰も彼も、我が家と近づきたくてたまらないのだ。これは、好機だぞ。それなのに、お前ときたら、いくら手紙を出しても、使いを出しても、断ってくるから、わざわざ私が領地まで出向いてやったのだぞ」
要約をすると、先王陛下や王族方に目をかけられている相手と親しくして利益を得たい、ということだろう。だが、わざわざ付き合って利にならぬ者達のために時間を割くことはアリスの趣味ではない。
手紙も使者の言葉も聞いているが、アリスはにべもなく断っていた。夏は、仔馬の育成の大事な時期だ。公的な外せない行事や冠婚葬祭以外で領地を離れるつもりはない。
「お断りいたしますわ」
「な……!」
「契約と異なりますもの」
二十年近く前に締結した結婚契約だが、有効期限はない。
「お忘れですの?わたくしが夫人として社交をするのは、公的行事、社交シーズンの公的な色合いが強い予定、冠婚葬祭のみ、となっておりますわ。ご招待は、公的行事ではございません」
ごく当たり前のことを言えば、あんぐりとした様子でこちらを見てくる。
「何を言っている!?筆頭公爵家からのご招待もあるのだぞ」
「お断り出来ないのでしたら、フランツ様がお受けになればよろしいのではないでしょうか。わたくし宛てにご招待はいただいておりません」
アリスが社交シーズン以外は領地にあるマナーハウスにいることは、周知の事実だ。そして、家業に集中するため、冠婚葬祭以外の招待を受けないことも、付き合いのある家の者達は知っている。それなのにも関わらず招待を寄越すということは、新たに交友を求める者ということだ。おそらく、利益のおこぼれに預かりたいと思っているのだろう。
「お前の事業の話を聞きたいと言っているのだ。好きな馬の話を心置きなく出来るのだから、簡単なことだろう」
「簡単でしたら、フランツ様でもよろしいのではなくて?」
領地の一大事業である馬の繁殖と牧場の運営に全く興味を示さない男がどれだけ語れるかは分からないが。
「それに、公爵家のご領地は南方の穀倉地帯と港ですわ。我が家の事業に農耕馬は含まれておりません。荷役用の馬でしたらお役に立てるかも知れませんが、そちらでしたら、我が家よりも東方の辺境伯家の方がご専門ですわよ」
領主としてはそれなりに優秀なのに、事業のことは一行も読んでいないらしい。
「せっかく公爵家と縁が出来るかも知れないのだぞ?そんなもの、適当に話を合わせればいい。たかだか馬の話だろう」
「たかだか馬……ですか」
はあ、とアリスは息を吐いた。
「その馬で、先王陛下からお褒めのお言葉を賜りましたのよ。大陸ダービーの優勝馬を輩出した功績ですわ。先王陛下も競走馬の一大馬主でございますからね」
この国は大陸の真ん中にある小国群の中にある。東西の大帝国に挟まれた緩衝地帯だ。どちらかの帝国がその気になれば、あっさり滅ぼされておかしくない、吹けば飛ぶような国である。
先王陛下は、先々代の長子であったが、下に弟王子が二人いた。本来ならば、弟たちのどちらかが王位を継承するはずだったが、それぞれ東西の大帝国の皇帝の一族に婿入りしている。婿入り、とは名ばかりの人質だ。
元々先王陛下は、大公家に降嫁する予定だった。そのため、大公家の事業の一つである競走馬の育成に熱心な御方であった。流石に王位を継ぐのが決まってからは退かれたが、十年程前に現王陛下に譲位されてからは、先の王配であった大公殿下と共に再び競走馬の育成に夢中になっている。
はっきりと口や態度に出すことはないが、国力や戦では敵わぬ大帝国に対しても、競走馬の世界では一矢報いることが出来るから、という気持ちもあるのだろう。実際、各国の威信をかけて年に一度行われる大陸ダービーでは、緩衝地帯にある小国から優勝馬が出ることもある。
「先王陛下とは、ご退位された頃から親交がございますの。ありがたいことに、わたしくの事業に目をかけていただき、陛下の持ち馬と当家の馬との交配も盛んに行っておりますのよ。今年の大陸ダービーで優勝した馬も、我が家の繫殖牝馬に陛下の持ち馬の種牡馬を掛け合わせた子ですわ。遡れば、競走馬の始祖とも言える馬に辿り着く、由緒正しい血統ですのよ。東西の大帝国の歴史よりも古く受け継がれた血脈ですわ」
ついつい熱くなって語れば、夫は目を丸くしている。
「ああ、いま、わたくしが申し上げたことを申せば、公爵家からのご招待にも対応出来るのではなくて?」
筆頭公爵家の夫人は、淑女中の淑女と称された方だ。家政科のトップとして降臨された方は、馬のことはよく知らない。それは、領地経営科の首席であった公爵ご本人も同じだろう。
「……勝手なことを言うな!我が家に不利益になることをするなら、離縁するぞ」
「承知いたしました」
「な……!い、いいのか?」
離縁を申し出たのに、動揺するとはどういうことだろう。そもそも、アリスたちの婚姻に夫婦生活はない。普段、フランツは王都のタウンハウスに、アリスは領地のマナーハウスで暮らしている。社交シーズンのみアリスはタウンハウスに滞在するが、寝室は別だ。
フランツは、婚約中から愛と恋に生きる男だった。両親は憤慨し、婚約の解消を何度も提案してきたが、アリスは頑として首を縦に振らなかった。その代わり、婚姻の際に厳格な契約を締結した。
夫婦生活をしないこと、フランツには子を生さないことを条件に自らの資産の範囲で自由恋愛を楽しんでいいこと、子については神殿の子授け医療の力を借りて二人儲けること、後継者はアリスが産んだ子にすること、フランツの領地経営とアリスの馬の繁殖事業にはそれぞれ口を出さないこと、など細かいものを含めれば三十以上にわたる条項がある。
「ええ、構いませんわ。後のことは、弁護士の先生を通してお話することでよろしいでしょうか」
「わ、私と別れれば、お前の事業も立ちゆかなくなるぞ。それに、お前に帰ることろなどないだろう」
焦ったように言われるが、アリスは再び首を傾げた。
「何故でしょう?」
「離縁すれば、我が家の牧場への出入りは出来なくなるだろう」
「そうですわね。この牧場は気に入っていますが、致し方ありませんね」
縁の切れた家の牧場に大切な馬たちを置いておく訳にはいかない。
「そうだろう。どうする?私の言う通りにすれば、離縁をせずにやってもいいぞ」
「離縁で構いませんわよ。契約書に記載されております通り、馬たちの所有権はわたくしにございますので、移送の手続きを取ります」
「ど、どこに行くつもりだ?お前の実家は、異母弟が継いでいるのだろう?気の合わぬ継母も健在の家に帰れるとでも思っているのか」
「あの……何度も申し上げておりますが、改めて申しますね。確かにわたくしの実家は異母弟が継ぎ、母は継母ですが、二人の関係は良好です。実家も馬の繁殖を生業にしており、獣医師の資格も持つわたくしは重宝されております。家族はいつでも戻ってきていいと言っておりますわ」
「だが……お前は冷遇されていたのだろう?だから、私と白い結婚を選んだのではないか」
このよく分からない思い込みは、婚約したばかりの頃に始まった。
デビュタント直後から派手に恋愛を楽しんでいたフランツにはなかなか縁談が持ち上がることがなかった。
そこに、婚約の申し込みをしたのがアリスである。
歴史のある伯爵家の嫡子であることを差し引いても、瑕疵の方が目立つ男に婚約の申し込みをしてくるような家は、爵位が低いか、何か訳ありと相場が決まっている。だが、アリスにも実家の伯爵家にも特に問題が見つからなかったものだから、実家で冷遇された令嬢の厄介払いと思い込んだのだろう。母親が継母だったのもその思い込みの根拠になっている。
「いいえ。両親は、何度も婚約解消をした方がいいと勧めておりましたわ。でも、わたくしが婚約継続を望みましたの。父は呆れておりましわ。優しい母は、泣きながらわたくしの幸せを祈ってくださいました」
「継母だろう?異母弟や異母妹もいて、家に居所がなかったのではないか」
「いいえ。わたくし、継母を母と思っておりますわ。実母は産後の肥立ちが悪く、わたくしを出産した後、すぐに儚くなってしまいましたから、母と言えば継母のことですもの」
物心ついた時には既に「母」と呼んでいた相手だ。それに、継母も実の子たちと分け隔てなく接してくれた。血の繋がりはなくても、確かにアリスのとっての母である。
「しかし、幼い頃は離れて暮らしていたと……」
「それはそうでしょう。弟と妹が年子で生まれて、乳母の手を借りているとはいえ、わたくしまで手が回らなかったのです。祖父母が領地に呼んでくださり、そこで数年過ごしました。離れていても、頻繁に継母は領地にも来てくださいましたし……大切にされていると感じていましたわ」
その数年でアリスはすっかり馬に魅せられた。アリスの生家も、馬の繁殖を生業にしており、多くの馬たちに囲まれて育ったのだ。
「ならば、何故婚約を解消しなかったのだ?」
「決まっていますわ。馬の為です」
間髪入れずに答えれば、顎が外れたように口をあんぐりと開けている。せっかくの整った美しい顔立ちが台無しだ。
「……う……馬……だと?」
「わたくし、幼い頃より馬の繁殖に興味がございましたの。学園で騎士科の入ったのも、馬と接する機会があるからですし、大学も獣医学部に進んだのも、全ては馬のためですわ。結婚も、同じです。わたくしの実家も、あなたの家も馬の繁殖を事業の一つとして営んでおります。交配させる馬の数を増やすには、婚姻が最適な選択肢ですわ」
濃すぎる近親交配を防ぎ、生まれた仔馬が優秀だった場合の権利帰属などの問題も解消出来る。婚姻で親馬の数を増やすのは、非常に効率的だ。
「で……では、私と婚姻をしたかったのは……」
「あなたの家の馬が欲しかったからですわ。優秀な血統の馬が揃っておりましたから、とても魅力的でしたの」
しかも、実家の馬との血統の相性もよい。これは、いい馬が生まれるぞ、とほくそ笑んだのはまだ十代のアリスである。
「私の自由恋愛を認めたのも……」
「わたくしの興味は馬の交配ですもの。人間の恋愛は対象外ですわ」
より強く、より速い馬を生み出す。それがアリスの生涯をかけた野望である。
「だ……だが、お前は私の子を望んだではないか。それは、私を愛していたからだろう?いまからでも遅くはない。本当の夫婦になろう」
「離縁しようと言ったり、本当の夫婦になろうと言ったり、忙しい方ですね」
脅しとして言った離縁だが、実際に離縁した場合の不利益を即座に計算出来る程度の能力はあるらしい。領主としては本当に優秀な男だ。だからこそ、種馬としては良かった。自分の目に狂いはなかった、とアリスは内心深い笑みを浮かべた。
「わたくし、我が子をこの腕に抱いてみたかったのです。自分の子に、最高の環境を与えてあげたいと思うのは、親として当然のことでしょう?あなたは、恋愛が詰まった下半身を除けば、とても優秀でしたし、建国時からある歴史ある伯爵家の血を継がれております。子のた……父親としてよいと思っておりましたの」
危うく種馬、と言いそうになり、慌てて父親と訂正した。隣で黙って聞いていたバイオレットが小さく笑いを漏らしたから、ばれてしまったようだが。
「でも、流石に夫婦生活は無理ですわ。どのようなご病気を持たれているか分かりませんでしたし……」
婚約期間中の不貞行為の証拠は簡単に集まった。婚約解消どころか、破棄にも出来るほど。だからこそ、アリスに有利な契約を結べたのだ。それに、不貞行為が証明出来れば、先王陛下の肝いりで成立した「子授け医療を利用できる白い結婚」制度を利用可能である。
「そんな……」
「二人の可愛い子ども達を授かれたことは、とても幸せでしたわ。子授け医療に感謝ですわね」
アリスが満面の笑みを浮かべれば、フランツの頬が引き攣った。
「そうそう、子授け医療は、馬の交配で活用されていた技術の応用ですのよ。馬の繁殖は牝馬に決定権がありますからね。優れた種牡馬であっても受け入れるとは限りません。気に入らないと、あの素晴らしい後ろ脚で種付けのためにやってきた牡馬を蹴飛ばして再起不能にすることもあるのです。そのため、かつては、種付け前に別の馬を宛がい、気を鎮めてから改めて種牡馬との交配をしていました。いわゆる当て馬、というやつですわね。ですが、それでも完全に蹴り飛ばすことがないとは言えませんの。……ふふっ、当て馬は蹴られ損ですわね」
「……」
フランツの顔は引き攣ったまま固まっている。何を想像しているのやら、脚が小刻みに震えていた。
「そこで、産み出されたのが子授け医療……隣国では『人工授精』と呼ばれる技術ですわ。馬の繁殖の世界では当たり前になったその技術を人間に応用出来るように承認していただいたのが、先王陛下ですのよ。本当、先王陛下には頭が上がりませんわ」
フランツは知らないだろうが、先王陛下とは世代や身分を超えた馬友である。もし離縁になったとしても、契約は必ず履行させられる。
「貴族同士の結婚なんて、馬の交配と同じですもの。よりよい子を儲けるための血統の掛け合わせですわ。そこに愛や恋など必要ございません。馬だって、子育てをするのは母馬だけですわ。……そう考えると、わたくしたちの結婚は本当に馬の交配のようですね」
婚約しようが結婚しようが、恋愛至上主義のフランツには一生理解出来ないだろう。年上の未亡人からデビュタント直後の令嬢まで、手当たり次第に愛を囁く男だ。
「馬の交配……」
茫然と言葉を反芻するフランツは、魂が抜けたように座り込んだ。当たり前のことを言っただけなのに、傷つくなんて貴族家当主として軟弱としか言いようがない。どうでもいいことだが。
「お母様、そろそろ昼食の時間ですわよ」
「まあ、もうそんな時間?今日は馬たちにトラブルもなさそうですから、心置きなく食べられますね」
「お兄様も帰ってらっしゃればいいのに」
学園の夏季休暇でマナーハウスに帰ってきているバイオレットも、馬に興味を示している。いずれは、アリスの事業の一部を引き継ぐことになるだろう。バイオレットの兄にあたる息子は、フランツの後を継いで伯爵となることが決まっている。馬の繫殖事業に関心はあるが、それは領主として自領の事業に対する興味に過ぎない。領主としては、馬狂いよりそちらの方が良い。
ゆっくりとアリスが歩き出せば、バイオレットも同じ歩調でついてくる。座り込んだままのフランツは微動だにしない。
「クラウスは、適度に帰ってくればいいのよ。領主としての勉強や社交の下地作りの方が大切ですからね」
夏季休暇は帰省や旅行にあてる者も多いが、社交の下地として友人の領地や学生同士の交流会に顔を出す者もいる。いずれ領地を継ぐ者は後者の割合が高い。
「お父様はどうなさるの?」
ちらりとバイオレットが振り向くのは、固まったままのフランツである。
離縁をちらつかせればアリスが言うことを聞くとでも思っていたのだろうか。二十年も夫婦でいたのに、全くアリスのことを分かっていない。アリスにとって大事なのは馬と子ども達。婚家も、夫も、義家族も、アリスにはただの契約相手に過ぎない。幸い、フランツの下半身の素行の悪さのお陰で、白い契約結婚を通しても、結婚を継続してくれるだけでありがたい、と義両親も黙認している。跡継ぎとなる孫もいるし、夫が好きなだけ遊んでいても離縁を切り出さない奇特な嫁などなかなかいないだろう。
「お腹が空けば、勝手に厨房にでも行くのではなくて?小さい子どもではないのですから」
「それもそうですわね」
二人の子ども達は王都にあるタウンハウスから学園に通っているが、父親とはたまに食事を共にするくらいで、関係性も希薄だ。学園に入学するまでは、アリスがマナーハウスで養育をし、社交シーズンに顔を合わせるくらいの人だから、血のつながった他人、くらいの認識なのかも知れない。
「でも、よろしいの、お母様?」
「何がですか?」
「お父様と離縁なさらなくて」
「いたしませんよ。あなたやクラウスの縁談に差し支えるでしょう」
既に二人の子には婚約者がいるが、親が離縁していると、先方の家の印象はよくない。それで破談になることはないだろうが、一本線を引かれた付き合いになる可能性が高いし、社交界に話題を提供するようなものだ。
「……それに、わたくし、別にあの人との結婚を後悔してはいませんのよ」
「え?」
「だって、あなたやクラウスというとても可愛い子ども達を授かったのですもの」
これは噓偽りない本音だ。自分の子どもの可愛さは特別だ。初めてこの腕に抱いた時、こんな可愛くて愛おしい存在がこの世に存在するのかと感激した。考え得る最高の教育を施し、大切に育てた。そのお陰で、二人はとても優秀だ。
「あの人は、女性関係にはだらしない人ですけれど、領主としては優秀ですしね。派手な遊びも、きちんとご自身で稼がれたお金の範囲でなさっていましたし、社交で必要な時にないがしろにされたこともございませんでしたわ。……それに、わたくしを自由にさせてくださいましたしね。結婚の時期も、獣医学部を卒業するまで待ってくださって……夫としては十分にいい人だと思いますわ。だから、わたくしの結婚生活はとても幸せなのですよ」
学園を卒業してすぐに結婚する者が多い中、大学卒業まで結婚を待ってくれるような人は貴重だ。アリスが馬の繁殖事業に邁進出来たのも、フランツあってこそだという認識はあるし、感謝もしている。義務を果たしてお互いに好き勝手している、こんな夫婦の在り方もいいのではないだろうか。
「お母様がいいのなら、それでいいと思いますけれど……私は、愛はなくても家族の情くらいはある結婚生活がいいですわ」
「あら、バイオレットもそういうお年頃なのね。残念ながら、お母様にはアドバイス出来そうにありませんけれど」
「馬の交配と結婚を同じという人に何も求めませんわ」
「あら、馬同士も、本人たちの相性が良ければ、よりよい馬が生まれますのよ」
「お母様の馬のお話は、昼食と一緒に伺いますわ」
肩を竦めながら空を見上げる娘は、呆れた顔をしている。
「天気がいいですから、昼食は外で召し上がりますか?」
「ええ、いただきます」
娘と他愛のない話をしながらマナーハウスに向かって歩く時間は、どこまでも穏やかだ。通り抜ける高原の風が緑の匂いと馬たちの穏やかな鳴き声を運んでくる。
二十年続き、明日も続いていくだろうアリスの結婚生活は、この上ない幸福に包まれている。
登場人物たちの補足
アリス:この世界のダーレーアラビアンを生み出すのが人生の目標
フランツ:好きなだけ浮気が出来るし、生業を大繁盛させてくれるし、アリスを便利でいい妻だと思っている。ついでに、自分に惚れ込んでいると思い込んでいた。(自分が)楽な妻なので、嫌っている訳ではない。
バイオレット:お互いに我が道を行く両親を冷めた目で見つつ、別に嫌いではない。母親には大事されていると感じているし、父親もちゃんと義務は果たしているので問題ない。
実際の婚約期間を含めた話もちょっと書いてみたい




