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悪役令嬢として十八年生きてきましたが、ある日執事から「本日をもって役目は終了です」と業務終了通知を渡されました。悪役令嬢って役職制だったんですか?

作者: remisterra
掲載日:2026/04/10

 朝の空気は冷たいのに、土はもう春の湿り気を含んでいた。


 ラウラ・エーヴェルハルトは、霜除(しもよ)けの布を剥がしながら腰を伸ばした。


 五時半。


 六時前には鶏を出し、六時半には薬草の選別を始める。


 そうしないと午前の便に出荷が間に合わない。


 午前便を一本逃せば、ハルニレ草の根は二日で値が三割落ちる。


 公爵令嬢だった頃には、誰も教えてくれなかった知識だ。


 霜に弱い葉、乾燥が早すぎる根、朝のうちに抜くべき雑草の種類。


 葉脈(ようみゃく)の角度で病気を見分けること、土を一(すく)いし舐めて湿度を測ること——全部、自分の手の皮を三回剥いて覚えた。


 前世はOLだった。


 転生先は公爵家の赤子で、そこまではまだよかった。


 問題は、自分が乙女ゲームじみた世界の悪役令嬢ポジションだと気づいた瞬間から始まった。


 茶会では感じよく微笑むより、感じ悪く笑うことが求められた。


 舞踏会では場を和ませるより、場を冷やすことを期待された。


 王子と聖女が並べば、その隣に立って空気を悪くする係をやらされた。


 やりたくてやっていたわけではない。


 なのに、うまく嫌われれば「さすがラウラ様」、少しでも外せば「悪役らしさに欠ける」。


 おまけに公爵家の娘なのに魔力が一切ない——それすら「弱い悪役令嬢」という設定に使われた。


 十八年。


 きっちり婚約者をやり、きっちり嫌味を供給し、きっちり最後は断罪された。


 婚約破棄。


 追放。


 追放先は荒れ地だった。


 壁も屋根もなく、あったのは傾いた柵と水の出ない井戸だけだった。


 ドレスを裂いて手に巻き、椅子を壊してまきにし、固い芋と売れ残りの菜葉で冬を越した。


 井戸を掘り直すのに三か月かかった。


 最初の薬草が売れた日、銅貨を握ったまま小屋の裏で吐いた。


 嬉しかったのか悔しかったのか、今でもわからない。


 そうして今だ。


 ようやく薬草の出荷が軌道に乗り、王子のことなんてもう考えている暇がない。


 ハルニレ草の根の乾きが甘いほうが、今のラウラにはよほど深刻だった。


 そのとき、砂利を噛む車輪の音がした。


 一台ではない。


 二台でもない——三台。


 先頭のほろ刺繍(ししゅう)された金糸の紋章を見て、一瞬だけ目を閉じた。


「……午前便の時間なんですけど」


 先頭の馬車から降りてきたのは、黒い執事服の男だった。


 背筋が定規みたいに真っ直ぐで、白手袋に皺ひとつない。


 顔にも声にも、感情というものが存在しない。


 エドガー。


 役職管理局所属の国家執事官。


「退職手続きでございます」


 ラウラは手にした霜除けの布を腕に掛けたまま、眉ひとつ動かさなかった。


「誰の」


「ラウラ様の」


 ラウラの目が、ほんの少しだけ細くなった。


「畑の?」


「悪役令嬢の、でございます」


 ラウラは薬草の束を抱えたまま止まった。


「……はい?」


 二台目から書類の束を抱えた財務官と、無言で羽ペンを構えた記録官が降りてきた。


 三台目から——金髪碧眼の王子アルフォンスと、血の気を失った聖女ミレーヌ。


 侍女が二人、その後に続いた。


 ラウラは薬草の束を選別台に置き、泥のついた手を腰の布で拭った。


「……なんで全員来たんですか」


「最終手続きには関係者全員の立会いが必要でございます」


 エドガーは微動だにしない。


 まばたきすら業務の一環のように正確だった。


「嫌な制度ですね」


「左様でございます」


 言い切った。


 否定すらしない。


 農場の簡易作業台が即席の役所になった。


 鶏が一羽、書類の端をつつきに来て、記録官に静かに追い払われた。


 王子が口を開きかけた。


 ラウラはそちらを見もしなかった。


「殿下、お話しするのは手続きが終わってからにしてください。今は——私の業務の時間内ですので」


 作業台の縁に指を置いたまま、視線をエドガーに戻す。


「先に言っておきますけど、お茶は出ませんよ」


「承知しております」


「帰ってください、なら言えます」


「手続き後であれば」


 ラウラは小さく息を吐いた。


「最悪ですね」


「左様でございます」


 エドガーが封筒を開いた。


 ——業務終了通知。


 令嬢型拮抗(きっこう)配置要員(第三等)。


 ラウラ・エーヴェルハルト。


 本日をもって任期満了につき業務終了とする。


 勤続十八年三か月。


 長年のご尽力に感謝する。


「お疲れさまでした」


 ラウラは動かないまま、まばたきを一度した。


「十八年間の、何の話ですか」


「悪役令嬢業務でございます。物語のバランスを保つための国の係員です。王子型主人公の成長促進、社交界への緊張感供給、破滅ルート進行補助が主任務でした」


「嫌すぎる主任務ですね」


 エドガーの白手袋が、封筒の角を整える。


 正確に、無駄なく。


「適性判定はAでございました。嫌味の通りの良さと立ち姿の圧が評価されました」


「褒めてます?」


「実務評価でございます」


 ラウラの視線が記録官へ向いた。


 羽ペンが紙の上を走っている。


「嫌だなその才能」


 記録官を睨む。


「それ記録するんですか」


「全てでございます」


「公開処刑じゃないですか」


 エドガーが二枚目を取り出した。


 白手袋の指先が書類の端を正確に揃える。


「続きまして、業務実績の概略でございます。確認のため読み上げます」


「いりません」


「規定でございます」


 エドガーは表情を変えなかった。


 羊皮紙(ようひし)に視線を落としたまま、淡々と読み上げる。


「就任三年目、春期茶会。聖女様が紅茶にレモンを入れ忘れた件について、笑い役を担当。台本指定の冷笑、二秒。評価Aでございました」


 聖女の肩が、かすかに揺れた。


「あれ、台本だったの……?」


「就任五年目、夏期舞踏会。殿下のダンス習熟度向上のため、中央広間にて妨害的視線を継続供給。当該夜会後、殿下のダンス評価が二段階向上いたしました」


 王子の顔から、血の気が引いた。


 両手が膝の上で拳を作っている。


「就任八年目、王立学院入学式。殿下を引き立てる『出来の悪い婚約者』役として配置。殿下が『あんな婚約者を抱えて頑張っている努力家』として認知される基盤を形成いたしました」


「待て」


 王子が立ち上がりかけて、椅子の脚が砂利を削った。


「待ってくれ。私の——」


「就任十一年目、ヒロイン覚醒イベント。聖女様の魔力開花を促進するため、精神的に追い詰める係として配置。聖女様を追い詰めることで、聖女様が自信を持つきっかけを作りました」


 聖女が、両手で口を覆った。


「就任十五年目から十八年目、ヒロインルート進行補助。殿下と聖女様の絆形成のため、共通の敵役として継続稼働。最終断罪シーンでは、台本通り反論せずに退場。模範的な業務完遂でした」


 王子の唇が動いた。


 声は出なかった。


 ラウラは、王子を一度も見なかった。


 記録官の羽ペンの音だけが、作業台の上で続いていた。


「以上が主任務でございます。なお、付随記録として。殿下の成長記録三十七項目のうち、二十九項目がラウラ様の在任中に達成されております」


 王子の喉が動いた。


「……二十九」


「業務記録上、殿下の『成長』の七割八分は、ラウラ様の業務成果として計上されております」


 誰も、何も言わなかった。


 鶏が一声、間抜けに鳴いた。


「では、給与明細に移ります」


 ラウラは腕を組んだ。


「聞きたくない予感しかしませんが」


「基本給、銀貨三枚」


「……月額ですか」


「はい」


「十八年間?」


「はい」


 ラウラの指が、自分の腕に食い込んだ。


「続けてください。途中で止めたところで心が死ぬだけなので」


「悪役手当、銀貨一枚。高笑い習熟手当——括弧、努力賞——銅貨五枚」


 ラウラの眉が片方だけ上がった。


「努力賞」


「最後まで語尾の残響が貴族水準に達しませんでした」


「高笑いに残響が必要なんですか」


「五段階評価の第二等でした」


「評価項目が嫌すぎる」


 エドガーは書類から目を上げもせず、次の行に進んだ。


「婚約者牽制業務加算、銅貨七枚。前世OL経験者加算、銅貨八枚。断罪当日特別出勤手当、銀貨二枚。追放サバイバル補填、銀貨一枚」


「前世まで査定して、断罪が出勤扱い」


「事務耐性、理不尽耐性、表情筋の持久力を加味しております。断罪は特別業務日程でございます」


 ラウラは天を仰いだ。


「控除項目に移ります。婚約指輪の傷、マイナス銀貨五枚。ヒロインへの慰謝料の立て替え、マイナス銅貨九枚」


 初めて聖女を見た。


 視線だけ。


 三秒。


「なんで私が立て替えてるんですか」


「悪役令嬢側負担でございます」


「最悪の経費精算ですね」


 エドガーが書類を裏返した。


「手取り合計、銀貨三枚、銅貨四枚」


 ラウラは腕をほどいて、作業台の縁を掴んだ。


「……退職金は」


「金貨十八枚。勤続一年につき一枚」


「……十八年働いて金貨十八枚」


 鶏が一声鳴いた。


「……前世のコンビニ夜勤より安いんですけど」


「仰る通りでございます」


「畑で薬草一束売ったほうが高いんですけど」


「仰る通りでございます」


 財務官が胃を押さえていた。


 顔色が書類より白い。


「奉仕職のため、給与水準が抑えられておりまして」


「奉仕職!?」


「魂契約第二十二条でございます」


「出たよ魂契約」


 ラウラは腕を組み直した。


 声だけは平坦を保っている。


「そもそもその契約、同意してません」


「出生時に魂が同意済みです」


「赤ちゃんの魂が!?」


「説明は魂に読み上げ済み、監査は管理局が兼任。制度上は問題ございません」


 ラウラの目が据わった。


「終わってるなこの国」


 エドガーが最後の書類を取り出した。


「では最終工程です。魂契約の正式解除に、ラウラ様の署名をお願いいたします」


 羊皮紙が一枚、作業台に置かれた。


 その横に、羽根ペンが添えられた。


 ラウラは無言でそれを手に取った。


 ラウラの知っているどの紙よりも古い。


 文字が淡く光っている——これだけは、魔法のものだった。


「署名をもって魂契約は即時解除されます。それに伴い——」


 エドガーの声が、ほんの僅かだけ遅れた。


 表情は何ひとつ変わっていない。


「——配置要員に施されていた魔力封印も、同時に解除されます」


 ペンが止まった。


「……魔力封印」


「悪役令嬢要員には、着任時に全魔力の封印が施されます。業務中の暴走防止措置でございます」


 ラウラの指先が、羽根ペンを持ったまま止まっている。


「それ、先に言うことでは」


「退職手続き時にお伝えする規定でございます」


「最後まで嫌な制度ですね」


「左様でございます」


 ラウラは一度だけ目を閉じ、開いた。


「ちなみに、封印前の魔力量は」


「測定上限を振り切っておりました。記録上、過去二百年で最大値でございます」


 ラウラは、ペンを持った手で、額を一度押さえた。


「……それ、本当に先に言うことでは?」


「退職手続き時にお伝えする規定でございます」


 ラウラはペンを持ち直した。


 十八年間、魔法など一度も使ったことがない。


 公爵家の娘なのに魔力がないとわらわれ、悪役令嬢としての「弱点」に仕立てられたあの設定が——全部、業務上の処置だったとは。


 「魔力なし令嬢」と陰で笑ったあの令嬢たちの顔が、一瞬だけ、よぎった。


 すぐに消した。


 もう、どうでもいい。


 名前を書いた。


 インクが羊皮紙に沈む。


 ——光った。


 足元から。


 腹の底から。


 骨の芯から。


 何かが割れた。


 耳には届かない。


 けれど体の内側で、巨大な硝子(ガラス)の檻が粉々に砕ける振動が骨格を伝った。


 空気が、死んだ。


 ラウラの足元から白い光が土を割って噴き出した。


 地面ではない——地層が裂けている。


 亀裂が走り、その中から光の根が這い出し、畑を、柵を、作業台の脚を、蔦のように這い上がった。


 薬草の葉が一斉に裏返る。


 書類が渦を巻いて空に吸い上げられる。


 鶏が悲鳴のような声を上げて柵の向こうへ走り、柵そのものが軋んで傾いた。


 財務官の椅子が浮いた。


 椅子ごと後方に吹き飛び、二回転して地面に叩きつけられた。


 財務官が白目を剥いた。


 記録官の羽ペンが手の中で灰になった。


 ラウラの髪が浮いた。


 重力を忘れたように銀灰色の髪が扇状(せんじょう)に広がる。


 頭蓋(ずがい)の奥から、何かが押し上げてくる感触があった。


 頭蓋(ずがい)ではない、もっと深い場所から。


 巨大な何かが、内側を満たしていく。


 地面の亀裂が畑の端を越え、丘を越え、地平線に向かって光の断層(だんそう)が大地を切り開いていく。


 十八年間、鎖で縛られていた何かが立ち上がろうとしている——のではない。


 もう立ち上がっていた。


 王子が剣を抜いた。


 柄を握り、鞘走(さやばし)りの音が鳴る——その音が終わる前に、剣が消えた。


 鋼鉄の刀身(とうしん)が根元から掻き消えた。


 溶けたのではない。


 赤熱(せきねつ)もしなかった。


 存在ごと消し飛んだ。


 王子の手に残ったのは、柄と、刃があったはずの空間だけだった。


 柄の金具が赤く光っている。


 王子は握ったまま動かなかった。


 膝が折れ、地面に両手をついた。


 額が、土についた。


 口が開いていたが声は出ず、息をしようとして、できていない様子だった。


 聖女が走った。


 三歩目で止まった。


 足が動かない。


 地面に縫い止められたように、靴の底が大地に張り付いている。


 光の根がいつの間にか足首に絡みついていた。


「——あ」


 声にならない声が、聖女の喉から漏れた。


 引っ張ってはいない。


 締め上げてもいない。


 絡みついているだけで、聖女の膝から力が抜け、その場に崩れ落ちた。


 ラウラは止めなかった。


 止める理由がなかった。


 光がさらに膨れた。


 もはや畑ではなかった。


 ラウラを中心に半径数百メートルの空間そのものが白く飽和している。


 空を見上げれば、雲が円形に裂けていた。


 空そのものが光にかれて白い穴を開けていた。


 遠くで——音がした。


 低く、重い。


 大地の底から這い上がる振動が、足の裏を揺らした。


 全員が振り返った。


 意識のある者だけが。


 地平線の向こうにそびえていた白い尖塔(せんとう)が——揺れた。


 ゆっくりと。


 嘘のように静かに。


 王城の壁面に亀裂が走り、窓硝子(ガラス)が一斉に弾け飛んだ。


 光の粒子(りゅうし)が裂け目から噴き出し、城そのものが内側から発光した。


 建材も結界石も、何も意味をなさなかった。


 東翼の尖塔(せんとう)が折れ、中央棟の天蓋(てんがい)が裂け、西翼の最も堅牢(けんろう)な塔が根元から浮き上がって空中で塵に分解された。


 地響きが遅れて届く。


 何リーグも離れているのに、足の裏に振動が伝わった。


 王城が、消えた。


 千年の歴史を持つ白亜(はくあ)の城が、更地(さらち)になった。


 ラウラはそれを見ていなかった。


 自分の手のひらを見ていた。


 白い光の粒子が指先から零れ、春の風に溶けていく。


 ここから何リーグ離れている。


 集中もしていない。


 意図もしていない。


 ただ封印が解けて、力が呼吸のように溢れただけだ。


 余波だけで——王城が、跡形もなく吹き飛んだ。


 王子の顔から、すべての表情が消えていた。


 恐怖ですらない。


 理解の枠組みそのものが壊れた人間の、空白。


 剣はもうない。


 膝は土についたまま。


 泥にまみれた手が震えている。


 ラウラの白いエプロンには、朝から土がついていた。


 王子の純白の上着には、今、同じ色の泥がついていた。


 聖女は地面に額をつけていた。


 泣いてすらいなかった。


 ただ、動かなかった。


 ラウラは息を吐いた。


 長く、深く。


 光が——少しだけ、収まった。


 少しだけ。


 空気の魔力がようやく、人間が息のできる程度まで薄れた。


 王子が咳き込み、聖女が浅い呼吸を取り戻した。


 ラウラの声には、怒りがなかった。


 悲しみもなかった。


 何もなかった。


 十八年間の全てを通過した先にある、なぎ


「殿下」


 王子が顔を上げた。


 目が合った。


 王子は、目を逸らせなかった。


「聞こえていましたよね」


 王子の喉が、ひとつ鳴った。


「ダンスも、学業も、人望も。あなたが積み上げたと思っていたものの、話」


「……」


「私がいなくなった今、あなたに残っているものは、なんですか」


 王子は答えなかった。


 口が動いた。


 声が出なかった。


 それだけだった。


 ラウラは聖女に視線を移した。


 聖女の肩が跳ねた。


「ミレーヌ様。あなたが教会から受け取っていた支援金、ご存じですか」


「……」


「『悪役令嬢に虐げられた聖女への支援』名目で、あなたの分が私の給料から引かれていました」


 聖女の唇が震えた。


「……あの慰謝料立て替え」


「十八年分で、銅貨九枚でした」


 聖女は口を開けたまま、開けたまま、結局閉じた。


 ラウラは作業台に向き直った。


 会話は終わった、という背中だった。


「エドガーさん」


「はい」


「後始末の書類を。手短に。午前便がもう出ます」


「承知しました」


 エドガーが懐から新しい羊皮紙を取り出した。


 城が消えても、王子が泥に額をつけても、この男の白手袋には皺ひとつ増えていなかった。


「魂契約解除にともない、封印中の損害の埋め合わせ、退職金の計算し直し、追放期間の補償、機会損失、その他。合算、金貨二万枚」


 ラウラは作業台に両手をついたまま、首だけを傾けた。


「足りないと思うんですけど」


「……追加項目をお伺いしても」


「精神的拘束十八年。前世の労働経験を含めて二十年以上。一日銀貨一枚で計算してください」


 財務官が意識を取り戻し、計算をして、二回目の白目を剥いた。


「合算、金貨四万二千枚」


「……なお王国の年間歳入(さいにゅう)は、金貨一万八千枚でございます」


「振込先はうちの畑で」


「承知しました」


 ラウラの指が作業台を二度叩いた。


「あと、王家からの個別文書」


「文書、と申しますと」


「殿下のサインで、業務記録の全項目について事実確認の証文を。聖女様のサインで同様のものを。記録官立会いで、今日中に」


 王子が顔を上げた。


 何か言いかけた。


「拒否権はありますよ。私が王都に出向くだけです」


 王子の唇が動かなくなった。


「徒歩でも一日かからないと思います、今の私なら」


 王子はもう一度、額を土につけた。


「……書く」


 聖女はとうに地面に伏していた。


 声を出す力も残っていなかった。


 ただ、小さく首を縦に動かした。


 馬車が動き出す準備を始めた。


 王子の靴は泥だらけだった。


 両手も顔も泥だらけだった。


 聖女は自力で立てず、侍女二人に抱えられて馬車に運ばれた。


 従者が馬車から担架(たんか)を下ろしていた。


 財務官はそれに乗せられていた。


 記録官だけが黙々と鞄の留め金を閉じている。


 今日一日で羽ペンを三本使い切っていた。


 王子が馬車の前で足を止めた。


 振り返りかけた。


 何か言いたそうだった。


「業務外のご来訪はお断りしております」


 ラウラは振り返らなかった。


 手も止めなかった。


 選別台に向かったまま、薬草の根を仕分けている。


 指先は土で汚れていて、その指先から、もう光は溢れていなかった。


「ここは私の生活圏です。二度と——私の畑に王家の紋章を入れないでください」


「ラウラ」


 王子が言った。


 十八年間で初めて、敬称をつけずに名前を呼んだ。


 ラウラはハルニレ草の根を一本、選別籠に落とした。


 乾きが甘い。


 今日の便には間に合わない。


 明日の便に回す。


 それだけのことだった。


 返事はしなかった。


 馬車が一台、二台、三台。


 砂利を噛む音が遠ざかる。


 最後にエドガーだけが馬車の窓から会釈(えしゃく)した。


 表情は最初から最後まで寸分(すんぶん)も変わらなかった。


「管理局史上、最も有利な退職をされた方でございます」


「聞こえてます」


「さすがでございます」


「前世で鍛えられました」


 馬車が丘の向こうへ消えた。


 風が戻った。


 薬草の匂いが鼻先をかすめ、鶏がおそるおそる柵の隙間から首を出す。


 光の粒子が最後のひとつまで消え、畑はいつもの畑に戻った。


 亀裂だけが、土の中にうっすらと光の筋を残している。


 ラウラはエプロンの土を払った。


 指先に光はない。


 けれど呼べば来ると分かっている。


 十八年ぶりに——いや、生まれて初めて、自分の体が自分のものだった。


 選別台に向き直る。


 ハルニレ草の根の乾きは、まだ甘い。


 明日の便に回した分の埋め合わせに、ノコギリソウを多めに入れる必要がある。


 乾燥棚の二段目、左から三列目。


 あの列はもう乾いているはずだ。


「……さて、出荷の続きやりますか」


 王城が更地になった方角には、もう目もくれなかった。


 畑の向こうで、鶏が一声鳴いた。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


十八年分の業務報告を、最後まで聞いてくださってありがとうございます。

ハルニレ草の根は、無事に明日の便に間に合いました。


★評価やブックマークをいただけると、

次の出荷(次作)の励みになります。

感想欄も開けております。

(お茶は出ませんが。)


――ラウラ・エーヴェルハルト

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