裏切り
それはある初夏のことだった。
私は同僚に呼び出されたホテルで静かにそのときを待っていた。
コンコン、コンコン。
ドアを叩く音が聞こえると即座にチェーンをはずしドアを開けてあげた。
「よ、よろしくお願いします・・・・」
丁寧な口調で日本語を話す、金髪碧眼の少女だった。
何故このようなことになったのか。経緯を話すと少し長くなる。
事の発端は4年前に遡る。
そのとき私は内閣情報調査室の対外調査官としてロシアに渡っていた。
表側は政府系企業の海外勤務ということになっているが、実際は内地の情報を日本側へ引き渡すのが役目だった。
といってもスパイ映画のような派手な活躍はしない。
現地の新聞のスクラップや政府の人間から聞き込みをするのが主な仕事だ。
一見地味な活動に見えるが、ロシアという超大国は『情報』にシビアらしい。
私が政府の人間だと分かると、FSB(ロシア連邦保安庁)のエージェントが接触してきたのだ。
私は死を覚悟した。たとえ身分が保証されているとしても、それが安全に繋がるかと言われればそうではない。殺されることは無くても、北の大地に拘留させられるかもしれない。
不安と緊張の中私は極秘にロシア側のエージェントと接触した。
「来てくれると思っていました。寒かったでしょう」
丁寧な日本語を話すエージェント。正直驚いた。
「それで私に何の用ですか」
「日本ではそういうのを単刀直入というのでショウ?」
「ええその通り。お詳しいのですね」
互いに腹を探り合う会話。気分が悪くなった。
気まずくなったのか、すると彼はボルシチをご馳走してくれた。
もしかしたら毒が盛られているかもしれない。少しづつ味わって食べた。
「毒なんて入っていませんよ」
「それは失礼した」
はやり向こうもプロだ。小手先のことなど通用しなかった。
「むしろ私たちとしては協力関係を築きたい」
「私に祖国を裏切れと」
「まぁ・・・そういうことでしょうか。
ですが、私たちの国も情報を持ってかれている。このまま引き下がるわけにもゆきません」
「断ったら?」
「どうでしょうかね。それは私が決めることではありません。
ただ、協力してくれるというなら報酬も弾みます。
それにアナタは自分の境遇に不満を持っているんじゃありませんか」
それは胸に突き刺さる一言だった。
「上司は諜報活動のことなど知りもしないエリート。なのに実際に活動するプロパーは一生駒のような扱い。
命をかけて仕事をしているのに、このような扱いでいいんですか?」
「な、何を・・・・」
私はどうしていいのか分からなくなった。
国益を守るはずの公務員が国を裏切るなどあってはならない。
だが自らの生命がかかっていると考えたとき、そんなジレンマは消え去っていった。
「3年後だ。3年待ってくれ」
「ほぉ・・・そう決断してくれると信じていました」
「だが完全にそう決め付けたわけじゃない。回答は3年後に日本で出す。いいな」
「分かりました、それではまたお会いしましょう。Mr津村」
エージェントはニコニコとその場を立ち去っていった。
私はこのときから『裏切り者』になったのだ。