渡れなかった横断歩道 ~告白
大樹と彩の視線が絡んだまま、時間が止まる。
踏み出せ。
胸の奥で、誰かが叫ぶ。
一歩出ればいい。
腕を振りほどいて、車道を渡ればいい。
たったそれだけだ。
信号が青のうちに。
・・・なのに、足が動かない。
向こう側で、彩も動かない。
ただ、こちらを見ている。
声は届かない距離なのに、何かを待っている気がした。
・・・なのに。
「おいおい、何フリーズしてんの?」
背中をぽん、と軽く叩かれる。
「信号変わるって! 置いてくぞ~?」
「あ、もしかして可愛い子見つけた?」
どっと笑いが起きる。空気が、一気に日常へ戻る。
大樹は、ほんの一瞬だけ彩を見たまま・・・
「いや、別に」
肩を竦めて笑った。いつもの軽い調子。何もなかったみたいに。場の空気を崩さない、慣れた笑顔
横断歩道へ流されるように足を動かす。
「なに見てたの?」
腕に絡みついてきた女の子が、顔を覗き込む。
上目遣い。距離が近い。
「なんでもないって」
大樹は笑ったまま、さりげなくその手を外す。
「ちょ、暑い」
半歩、距離を取る。
「えー、ひどくない?」
「今日ずっと冷たいよ?」
「さっきまで普通だったじゃん」
周りがまた笑う。
「ほらほら、拗ねるぞ~?」
「大樹、ちゃんとフォローしろよー」
軽いノリ。いつもの空気。誰も深く見ていない。
大樹は、口角を上げる。
「拗ねてんの?」
わざと甘く、からかう声。女の子は頬を膨らませてみせる。
「だってー」
「歩きにくいんだけど」
やんわりと、もう一度距離を取る。
一瞬、腕が離れる。
空気が少しだけ軽くなる。
・・・なのに。
「逃げないでよ」
笑いながら、今度は両腕で絡んでくる。
強く。
周りが「うわー」と囃す。
「公開イチャイチャやめてくださーい」
「青春かよ!」
大樹は、また笑う。
「うるせーな」
声はいつも通り、軽い。
けれど、身体だけは僅かに固い。拒んでいるのに。
横断歩道を渡りきる。
振り返らない。
振り返ったら、そこからもう動けない気がした。
信号が赤に変わる。
向こう側に残された彩。
こちら側の笑い声。
世界が、わかれる。胸の奥がじわりと焼ける。・・・行けなかった。たった一歩なのに。
腕に絡む温もりが、急に他人のものに感じる。さっきまで心地よかった距離が、今はやけに重い。
「大樹、次カラオケな!」
「賛成~!」
「お前、今日おごりな?」
「なんでだよ」
即答できる。
笑える。
なのに。
さっきの彩の視線が、まだ胸の奥に刺さっている。
あのとき。
ほんの一歩、踏み出せば。
信号が変わる前に。・・・行けたのに。
自分で選ばなかったくせに。
足を止めなかったくせに。
それでも胸の奥で、何かを落としてしまった気がしている。まるで、もう取り戻せないものみたいに。
●●
カップの縁から、細い湯気がゆっくり上がっている。
彩はテラス席で、コーヒーを飲んでいた。
夕方になっても、まだまだ暑い。通りの向こうでは、信号待ちの人たちが足を止めている。
隣の椅子には、さっき寄った雑貨屋の紙袋。白い紙袋の取っ手が、風に揺れている。
彩は何気なく視線を上げた。
その瞬間、手が止まる。
通りの向こう側。
信号待ちの人の中に、大樹がいた。
思わず、息が浅くなる。
会社で見るスーツ姿とも違う。先日見たシャツ姿とも違う。白のオーバーサイズのシャツ。中はシンプルな黒のTシャツ。胸元が少しだけ覗いて・・・さらにカジュアル。手首の細いブレスレットがやけに目についた。
すっと立つ姿。
間違えるはずがない。
大樹だった。
胸の奥が、小さく鳴る。
こんなところで会うなんて。同じ会社なのに、街の中で会う事はほとんどない。
彩はカップをテーブルに戻した。
向こう側の歩道は賑やかだった。大樹の周りには、何人か人がいる。楽しそうな声が、車の音の合間に届く。
誰かが大樹の背中を叩く。大樹も笑っている。その隣に女の子がいた。腕を絡めている。ぴったりとくっついて歩いている。
彩はぼんやり、それを見ていた。
友達かな・・・。そう思う。
でも。
女の子が大樹の顔を覗き込む。大樹が笑う。それから・・・その子の頭をぽんっ、と叩いた。
彩の胸が小さく揺れる。
どこかで見た仕草だった。
BBQの帰り。車の中。距離が近くて。声も近くて。声が低くて。
「可愛かった」
あの言葉が、ふいに頭に浮かぶ。
大樹は笑っている。会社で見るのと同じ、あの気楽な笑い方で。女の子はまだ大樹の腕に絡んでいる。二人で笑っている。肩がふれる。
とても自然に。
とても楽しそうに。
彩はその笑顔を、よく知っている。
残業で遅くなった夜。
「まだ帰ってなかったんですか?」
そう言って、コンビニのコーヒーを差し出してくれた時。
展示会の準備で資料を抱えていた時。
「それ、半分持ちますよ」
そして・・・孔雀の羽のチョーカーをつけながら、手を握られた時。
あれは・・・。
彩はその光景を見ながら思う。
・・・別に。おかしくない。大樹はそういうタイプだ。友達も多いし。
女の子にも好かれるだろう。
ああいう距離感も、きっと普通なんだ。
自分とは違う。
それなのに。
胸の奥が、少しだけ痛い。理由は知りたくない。あれは・・・全部ただの社交辞令だったんだ。
大樹の視線が、ふいにこちらへ向いた。
目が合う。
胸が、強く鳴る。
思わず唇が動いた。
「・・・大樹」
小さな声だった。
自分でも驚くくらい、自然に出た。
彩はすぐに息を止める。今、名前で呼んだ。会社では、いつも「佐藤さん」なのに。
もちろん声は届かない。車の音も、人の話し声もある。
それでも一瞬だけ、大樹は確かにこちらを見ていた。
気づいたのかな。そんな期待が、胸の奥に浮かぶ。
もし今。
もし今、大樹がこっちに来たら。
彩はきっと笑ってしまう。
「偶然ですね」
そう言って。
それだけの会話になるだろうけど。
でも多分、少し嬉しい。
信号が青に変わる。人の流れが動き出す。
誰かが大樹の背中を押す。大樹が笑う。そして、そのまま横断歩道へ足を踏み出す。人の流れに混ざっていく。
彩は、座ったまま動かない。ほんの少しだけ、期待していた。
もしかしたら。
ほんの少しだけ。
でも。
大樹は振り返らない。そのまま渡りきる。
信号が点滅する。
赤に変わる。
通りの真ん中を車が走り始める。
彩はゆっくり息を吐いた。
カップを持ち上げる。
コーヒーは、もう少しで冷めそうだった。
向こう側の歩道には、もう大樹の姿は見えない。
さっきまで、確かに目が合っていたのに。
彩は小さく笑う。
自分でもわかるくらい、力のない笑いだった。
あの言葉も。
あの視線も。
あの少し近い距離も。
全部。
自分の思い過ごしだったのかもしれない。
彩は隣の椅子の紙袋に目を向けた。
さっき雑貨屋で買ったマグカップ。会社で使おうと思って選んだもの。大樹がこの前、「彩さんのマグ、シンプルすぎません?」って笑っていたから、少しだけ、色のあるものにしてみた。
カップを口に運ぶ。
コーヒーは、もうぬるい。
そして彩は思う。
さっき。
ほんの少しだけ。
大樹がこちらへ来る気がした。
そんな気がしただけだ。
・・・たぶん。
最初から、来るはずなんてなかったのに。可愛い期待をする歳は過ぎたと思っていたのに。
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