豚ロースのムニエルと赤ワイン
——世の中の人間は二種類に分けられる。
——料理をする者と、しない者だ。
「ただいま」
返事はない。
ゴールデンウィーク初日。仕事を終えて帰宅した私は、静まり返ったマンションの部屋に入り、カーテンをシャッと閉めた。
妻の姿はない。
「ふう」
小さくため息をつく。
すぐに風呂に入りたい気もするが、その前にやるべきことがある。
いつものように、私は料理を始めた。
私はバッグから、今日買ってきた食材を取り出す。
その中から人参を一本手に取り、キッチンに立った。
ピーラーで、表面を削る。
一般に「皮」と呼ばれる部分だが、本当の皮は出荷の段階ですでに剥がれていることが多い。人参の皮は非常に薄く、洗浄で流れ落ちる。
では、あの硬い表面は何か。——乾燥した表面にすぎない。
たとえば、きんぴらのように火を通す料理なら、わざわざ剥く必要はない。
私がこの「皮」を削るのは、生で食べるときと、色合いを大事にしたいとき。表面はすぐに黒ずんでしまうからだ。
削った表面は、ソース作りなどに使える。私はそれを、冷凍庫にためておくことにしている。
しりしり機で人参を千切りにし、ビニール袋へ入れる。
そこにレーズン、絞ったレモン汁、塩、そしてオリーブオイルを加えて、手で軽く揉む。
袋の口を閉じて、冷蔵庫へ。
キャロットラペの完成だ。
食べる頃には、少しは味が馴染んでいるだろう。
風呂に入り、さっぱりとした。
次は、付け合わせを作る。
新玉ねぎは四つ割りに。小ぶりの新じゃがは皮付きのまま半分に切り、オリーブオイルを引いた鉄のスキレットで焼いていく。
片面にこんがりと焼き目がついたら返し、もう片面も焼く。
同じく焼き目がついたところで、スキレットごと予熱しておいた180℃のオーブンへ。タイマーを15分にセットする。
そのあいだに、まな板と包丁を洗い、キッチンをリセットする。
次はメインだ。
買ってきた豚ロースのパックを開ける。
本当は、ロースよりも肩ロースのほうが好きだ。
ロース肉は、身と脂がくっきり分かれている。
その点、肩ロースは肉の中に適度に脂が入り、しっとりと焼き上がる。今日は手に入らなかったので、脂が少し入ったロース肉で手を打った。——しかも三割引だった。
豚ロースに塩胡椒を振り、小麦粉をまぶす。余分な粉は軽くはたき落とす。
作るのは、豚のソテー。
ただし、作り方はムニエルに近い。
もっとも、ムニエルは本来、魚の調理法とされている。
「ムニエ」とは、フランス語で“粉屋”を意味する言葉だ。
由来には諸説あるが、かつてフランスの粉屋の娘が、魚を小麦粉に落とし、そのまま焼いてみたところ——とても美味しかったという話がある。
……まあ、ここでは豚ロースのムニエルと呼ぶことにしよう。
フライパンにサラダ油をひく。
「ムニエルならバターじゃないの?」と思うかもしれないが、バターは焦げやすい。まずはサラダ油で焼き、あとからバターで香りをつける。
油が温まったら、盛り付けの時に表側になる方を下にして豚肉を置く。焼き目がつくまで、動かさずに放置する。
そのあいだに、隣の鍋でソースの準備。
赤ワインを入れてアルコールを飛ばし、続けてバルサミコ酢、醤油、みりん、砂糖を加えて煮る。使うのは、手頃な価格のバルサミコ酢だ。
——実を言えば、市販の安価な「バルサミコ酢」は、伝統的な製法のものではない。
本物は最低でも12年の熟成を経る高級品。一方、手頃なものは、ブドウ酢をベースに、カラメルや香料で味と色を整えた“似て非なるもの”である。
けれど、ソースにして煮詰めるなら、それで十分だ。そもそも安価なバルサミコ酢が悪いということではない。
高いバルサミコ酢も持ってはいるけれど、もったいなくてなかなか減らない。
ちょうどそのとき、「ピーピー」とオーブンの加熱終了を知らせる音が鳴った。
スキレットの下の段に空のお皿を中に入れ、余熱で温めておく。
豚肉をひっくり返し、スプーンで熱い油をかけてアロゼする。
アロゼとは、スプーンで油やバターをすくい、焼いている食材に回しかける調理法だ。油に溶け出した旨味を、もう一度肉の表面に戻すことができる。
裏面は、あまり焼きすぎない。
焼きすぎれば、せっかくの豚肉がパサついてしまうからだ。
頃合いになればフライパンの油をペーパーで拭き取り、バターを加える。
バターが溶け、香りが立ったところで火を止め、肉をバットに移して、オーブンの余熱で冷めないようにしておく。
次に、ソースの仕上げ。
鍋で煮詰めたソースをフライパンに移し、残ったバターと混ぜながら水分を飛ばす。
このとき、フライパンにこびりついた豚肉の旨みも、木べらでこそげ落とし、ソースに溶け込ませていく。
とろみが出てきたら、豚肉を戻し入れ、ソースを丁寧に絡める。
温めておいた皿に、新玉ねぎと新じゃがの付け合わせを置き、その上に豚肉をそっと乗せる。ソースをたっぷりとかけ、付け合わせには軽く塩を振る。
キャロットラペを小鉢に盛りつけ、買ってきたパンも用意する。
三十分ほど前に開けておいた赤ワインを、ボルドーグラスに注いだ。
——深いルビー色のワインが、トクトク、と音を立ててグラスに落ちていく。
その音が、静かな部屋にゆっくりと満ちていった。
ワインは、シャトー・シェニョー 2016。
九年前のワインと聞くと少し古く感じる人もいるかも知れないが、これでもまだ若い。
白地の中央に、血のような赤で描かれた十字がひとつ。どこか騎士団の紋章のようにも見えるエチケットだ。
メルロー主体の右岸らしい一本。
グラスをそっと回せば、ふわりと果実の香りが立ち上る。
抜栓直後は閉じていた香りが、いまはゆっくりと開きはじめている。
パン、と軽く手を打ち、「いただきます」と、ひとり静かに告げる。
豚肉にナイフを入れる。スッと刃が入った。切り口からは肉汁が垂れる。
一口。
パクッと口に入れると、やわらかさと肉汁がふわりと広がる。
ただ焼いただけでは、こうはならない。小麦粉が旨みをしっかり閉じ込め、それが口の中でほどけるたびに、香ばしさと甘みが弾けた。
ソースも濃厚だ。
醤油、砂糖、みりんの風味が合わさって、どこか照り焼きのような甘辛さ。
けれどそれだけではない。ワインとバルサミコが加わることで、和食を打ち消した異国の香りがする。
ワインを口に含む。
香りは控えめながら、口に含めば豊かな果実味が広がり、わずかにタンニンの渋みが舌に残る。
そして最後に、美しい酸がしっとりと余韻を引き締める。
豚肉の脂と、濃厚なソース。
その重たさが、この赤ワインとぴたりと噛み合った。
甘み、塩気、酸味、渋み。
すべてが一口の中で重なり合い、静かな調和をつくる。
いつも思う。
豚肉は、脂が美味い。
脂身を食べて今度はワインではなくパンを口に入れる。パンが口の中で脂を吸い、ワインとは違うマリアージュを見せてくれる。
赤ワインもグイグイと進む。
時間が経って、ようやく香りが立ちはじめ、酸が豚の脂をさらりと洗い流してくれる。
新じゃがは、皮がパリッとしていて中はホクホク。
新玉ねぎは、焼いただけなのに甘くて、とろけるようだった。
キャロットラペをひと口。
レモンの酸味と人参の甘味——このコントラストが、またいい。
パンでソースを拭う。
外ではためらうこの動作も、家では堂々とできる。
それが、家飯のいいところだ。
ふぅ。
食べた。
……食べすぎた。
さて。
やるか。
私はシンクの洗い物に目をやる。
大阪に遊びに行った妻が帰ってくるまでには、まだ少し時間がある。
——飲んだ証拠は、きっちり隠滅しておかねば。