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ひとり寿司、春のネタ

 父が骨折した。椅子から滑り、尻餅をついて、恥骨と仙骨などを三カ所。キャンプの予定だった連休の初日は、介護保険の申請とお見舞いで埋まった。二日目の今日、ぽっかり空いた。銀行への振り込みを済ませ、時計は正午を回る。腹の音が鳴った。


 向かったのは、たまに寄る近所の寿司屋。今月三回目だ。

「一人です」と告げると、空いていたカウンター席へ案内された。


「ドリンクは? お茶でいいですか?」

 問われた私は、迷わず答える。


「生ビール」


 すぐに冷えたジョッキが届く。

 飲みたい気持ちをぐっと抑えて、まずは注文から。

 桜鯛の造りと、メゴチの天ぷらを頼んだ。


 そして、ようやくビールにありつく。一口目の喉越しと苦味。やはり、ビールの真価はこの瞬間にある。


 さほど待たずに、桜鯛の造りが届いた。

 湯引きされた皮付き。分厚い切り身には少し鱗も残る。鱗を取り、わさびと茗荷を少しのせ、醤油をチョンとつけて口に運ぶ。

 鯛のねっとりとした甘みが、じわりと広がる。

 活きのいいコリコリした身も悪くないが、やはり鯛は寝かせてこそ旨い。


 続いて、メゴチの天ぷらが届く。

「メゴチ」と言っても、標準和名のそれとは違い、たぶんネズッポの仲間。江戸前の天ぷら種で、ネズミゴチやヌメリゴチのことをまとめて「メゴチ」と呼ぶ。コチ科にも同名の魚がいるため、ややこしい。

 衣はふわっと軽く、身はねっとり。噛むほどに旨味が滲み出る。

 江戸前の天種といえばキスが定番だが、このメゴチも決して負けてはいない。


 刺身も天ぷらも、ビールで流し込んだ後は日本酒だ。

 選んだのは高知の酒。坂本龍馬が起草したとされる国家構想にちなんだ名を持つ。

 キリッとした潔いほどの辛口。天ぷらの旨味と合わさって、口の中に極上のハーモニーが広がる。




 隣のカウンターでは、地元の社長らしき男と、転勤してきたばかりの銀行員が話している。

 社長は足を組み、いかにも「奢ってやってる」空気をまとっている。

 大将や女将とも親しげに話していて、少し注文しにくい。


 ようやく隙を見て、握りを頼んだ。

 玉子、コハダ、真鯵をお願いすると、真鯵は売り切れとのことでサヨリに変更。

 目の前にある下ろされていない真鯵はきっと夜用なのだろう。


 頼んで数分もせずに3種の握りとガリが置かれた。

 この店のシャリの形は美しいとは言えない。それも街の寿司屋の醍醐味。料理の見た目は大切であると私は思っているが、この無骨な寿司もまたいいものなのだ。


 玉子は厚焼きで、出汁巻きでもカステラでもない。

 寿司屋の玉子で仕事を見る——とも言われるが、単に食べたかっただけだ。分厚い玉子の旨味が口いっぱいに広がる。まずはこれで口を寿司モードに整える。


 次にコハダ。酢の角はなく、ふっくらとした旨味が口中に広がる。これほど酢飯に合うネタがあろうか? あるけど「無い」と言いたい。


 最後にサヨリ。

「腹黒」と揶揄されることもあるが、その身は繊細で、まさに春を感じさせる味。立派な個体だということが、切り身の大きさからも伝わってきた。




「大将、白身は何がある?」

「今日は鯛だけやね」

「イカは?」

「紋甲イカがあるよ」

「じゃあ桜鯛とイカ、赤海老ください」


 三貫がすぐに握られる。

 桜鯛は今度は皮を引いた状態。甘みがより際立つ。

 紋甲イカは分厚く、ねっとりと甘い。新鮮なイカのコリッとした食感もいいが寿司にはこちらの方がいい。

 赤海老は甘エビよりしっかりした食感。風味も強く、醤油がよく合う。




 そろそろ、あれを頼むか——

 赤貝と鳥貝をお願いする。


 赤貝の握りと貝ひもの軍艦、そしてツメの塗られた鳥貝が並ぶ。


 まずは鳥貝。サクッとした食感、淡い香りと繊細な旨味。

 まさに「春の貝」だ。

 次に赤貝のヒモ。磯の香りが強く、好みは分かれるかもしれないが、私はこの香りが好きだ。海苔と酢飯に合わされば、最強の日本酒の友。


 最後に赤貝本体。コリコリとした食感、磯の風味、そして甘みの余韻。まさに「貝の王者」。




「うなぎと桜ぶりとサーモンください」

「ごめん!ブリ品切れ!」

「えー、じゃあトロ鯖で」


 ブリは冬が旬だが三重では春先に脂が載ったブリが上がる。これをブランド化して桜ぶりとして売り出している。残念だ。実に残念だ。


 出されたのは、うなぎ、炙りトロ鯖、そして——炙り桜鯛。

「あれ? 頼んだのサーモンですよ?……ま、これも食べるけど」

 ヒョイッと鯛を口に入れる。


 鯛は皮が炙られて香ばしさが増し、これもやはり美味い。

 炙りトロ鯖は脂の焦げる香りが鼻腔をくすぐる。口の中で解け,溶ける。脂の旨味が素晴らしい。

 うなぎも香ばしく口の中でとろける。タレの甘さがうなぎの皮の香りと混ざり合い口に残る。残るのはダメではない。これは酒で洗い流すために残っているのだ。

 日本酒をグイッと飲み干した。つまり空になった。


 選んだのは福井の名酒。永平寺近くで醸される銘酒で、透明感のある綺麗な味わい。危険なほどスイスイ飲めてしまう。


 遅れて出されたサーモンの旨味を感じながら日本酒を飲む。甘さが引き立った。


 次に頼んだのは鯖寿司。

 ぎっしりとシャリが詰まった押し寿司は、身も分厚い。

 少食の人なら、二切れで十分だろう。

 鯖の押し寿司ほど日本酒に合う寿司はない。と、思う。

 鯖の脂が舌の温度で溶ける。その脂が口中に張り付く。日本酒はゴシゴシとブラシをかけるように口にこびりついた脂と旨みを舌に落とす。もはや言葉は要らない。




 そろそろ締めか。やはり最後はアレ。


「赤身とネギトロ軍艦と大トロください」


 ついに注文してしまった。

 寿司の王族の三種盛り。


 目の前に置かれた三貫。赤い身が証明で輝いていた。まずは赤身。王家の血統を感じさせる一本筋。鉄板の旨味、寿司の原点。

 次にネギトロ。当然葱など載っていない。ねぎとるからネギトロ。これが通説だ。ミンチ状で食感はないが旨味が深い。海苔との相性が抜群である。

 最後は大トロだ。心の中で手を合わせる。口に入れると体温で溶けて旨みだけが残る。これほど酢飯に合う寿司があろうか。


 これで終わりか…

 隣に座っていた社長はすでに帰り、後から来た男が一人瓶ビール片手に寿司を楽しんでいた。

 その男が「トロ鉄火、土産に二本」と言うのを聞き、思わず私も口を挟んだ。


「こっちも一本頂戴」


 すべてを食べ終えた後、腹は「満ちる」を超えていた。

 まさに「画竜点睛を欠いて過ぎたるは及ばざるが如し」を体現した状態。


「お勘定……」

 告げると、9900円だった。


 一万円でお釣りが来た——!!


 会計後、店の人と少し世間話をし、気持ちよく店を後にした。


 父の介護のことを思えば、やはり心は重い。けれど今、寿司と酒が、ほんのひとときとはいえ、そんな心を支えてくれていた。


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