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ヒューマンドラマ

俺は友達ではなく詐欺師のカモだった件

作者: ダイノスケ

※本作品はフィクションです。実在の人物・団体・企業・サービス等とは一切関係ありません。また、特定の誰かを批判・誹謗中傷する意図もありません。



「ユート君は、今の収入に満足してる?」


え。ユートは反射的に小さな声を漏らした。


ユートに聞こえていないと思ったのか、レンは仮面のような作り笑顔を張り付けて、ゆっくりと振り返った。2LDK全体に聞こえるように、レンは穏やかに喋り始めた。


「ユート君はさ、将来が不安じゃない?今日君を僕の家に呼んだのはね、一緒にお昼ご飯を食べたかったからじゃないよ。本当はね、僕がやってるビジネスの話がしたかったんだ。」


午後一時半。目の前の空になった皿を見て、右手に握ったカップから伝わるコーヒーの温もりを感じながら、ユートは自分が嵌められたことに気づいた。

ざわざわ、全身の毛が逆立つ感覚がある。背丈以上の草原の中でちゃんと身を隠しているはずなのに、肉食動物に狙われているかのような。そんな感覚だ。


「ユート君、君は今の収入に満足しているかい?」


俺は、あなたと出会ったことを後悔してます。声には出さずその言葉を飲み込んだ。


いつもの優しそうなレンの姿は、もうそこにはなかった。薬物をやっているのかと疑いそうなぐらい目が血走り、2日間エサを与えられなかった猟犬のようにギラついた視線を向けている。


カッチ、カッチ、ユートが沈黙している間、時計の針が進む音だけが部屋に響く。その音はまるで、赤と青のコード、どちらを切るか選べとユートに強要してくる時限爆弾のように聞こえた。


さあっと血の気が引いていく。しかし、その反対に呼吸も心拍も体温はどんどん高くなっていく。


どうしてこうなったんだ。これは、何か悪い冗談なのか。お願いだから、悪夢なら、早く覚めてくれ。


時計の音やレンの声が少しずつ遠のいていく。「Youtubeの広告が長いから代わりにSNSを開く」それに似た感覚で、ユートは現在ではなく過去に現実逃避を始めた。


俺は、どこで間違ったんだろう。多分だけど、赤の戦うコードと青の従うコード、どちらを選んでもバッドエンドになりそうな気がした。


——


ユートがバレーボールを始めたのは、社会人一年目になってからだ。


ユートは才能のない自分のことが幼少期から嫌いだった。運動も、勉強も、友達作りも、歌も、ユーモアセンスも、何一つ持っていない。みんなが当たり前のようにできることが自分にはできない。そんな自分を変えたくて仕方なかった。


「常識とは、18歳までに培った偏見のコレクションである。」


「同じことを繰り返して違う結果を望むこと、人はそれを狂気と呼ぶ。」


これらは、アインシュタインの残した言葉だ。


「人は、30歳までは性格を変えやすいが、30歳を過ぎればそれまでの自分の性格を保つようになる。だから、自分を変えたいなら人生の早いうちから行動する方が良い。」


この言葉は、誰から聞いた話だっただろうか。何かのアニメだっただろうか。いや、誰が言ったのかはどうでも良い。当時20歳のユートに深く刺さったことに変わりはない。


コミュニケーション能力が皆無であることも、運動音痴であることも克服したい。嫌なことから逃げる人生はもう嫌だ。


そう思ったユートは、学生時代にやっていたサッカーではなく、バレーボールサークルの門扉を叩いた。


理由は、体育の授業でやったバレーが楽しかったことと、サッカーほど接触が多くないので怪我のリスクが少ないこと、男女混合という競技人口の多さや体育館さえあればできること等、コミュニティの多様性に惹かれたからだ。


サークルはたくさんある。空気に馴染めないなら、また別のサークルを探せば良い。


「だから大丈夫だ。」


体育館の扉の前で、自身に言い聞かせるように小さく呟いたが、内向的で人見知りなユートの心臓は早鐘を打ち始める。


だから、人目につかないところで1分ほど深呼吸をしてから体育館のドアを開けた。最初が肝心だ、舐められないように、いじめられないように、挨拶はこちらから大きな声で。


「こんにちは!!」


どのサークルに入る時も、ユートはそのルーティンを守った。


ユートが「エアロ」というサークルに加入したのは2年前、25歳になりたての頃だ。コロナウイルスが流行した22-24歳までの2年間はバレーボールを休んでいたが、バレーボール歴は計3年になり、ようやく基礎が身についてきた。この頃から、バレーボールをするのが更に楽しくなり始めた記憶がある。


「エアロ」の代表は、カズマというユートより2歳上の小柄で温和なお兄さんだった。いつも明るく、ノリが良くて、彼の周りにはいつも人が集まっている。


何より、カズマとその仲間達のノリがユートにとって心地良かった。良くも悪くも衝動的なユートは、ミスをしたら脊髄反射ですぐ叫んでしまう。


「うぉラア”ー!!」(推定100デシベル)


「イィヤ”ー!!」(汚い高音)


初参加で下手くそでしかもうるさい。周りの女性陣も怖がっている。ユートはパチンコや飲み会やダンスクラブ等騒がしいところが嫌いだ。だから、ユートの近くにいて爆音を聞かされるみんなには正直申し訳ないと思っている。だが、体の中の防犯ブザーのトリセツは25年間探したが未だ見つけられていない。これからもどうぞよろしくね、こんな俺だけど笑って許してね。


そんなユートは大抵のサークルで大勢から「扱いにくいな」という視線を向けられたし、心無い言葉を直接浴びせられたこともある。


みんなと仲良くしたいが、ユートの体はエヴァとシンジ君のようなものだ。体の主導権がエヴァに奪われてしまうと、あたり一面が焼け野原になるまで、シンジ君に暴走を止める手立てはない。


結局、自分を変えようと決意して5年経ったけど、運動音痴もコミュ障も何一つ治ってないな。半ばそう諦めかけた状態で「エアロ」に入った。


だが、代表のカズマも含め、このサークルのメンバーは奇人であるユートを温かく迎えてくれた。

更に加えて、月曜から夜更かしというバラエティ番組で「ア”ーイ!」という掛け声が有名なラーメン屋の店主になぞらえて、ユートは「ラーメン屋」というあだ名がつけられた。


試合が始まる時は

「ユート、今日もラーメン屋開くのか?」


スパイクが決まれば、

「さっきの、いい湯切りだったな!」


ミスが続けば、

「おい、今日売り上げとか店の調子悪い?」


とバリエーション豊かに話しかけてくれる。


そんなことを言われたら、ユートはいじってきた相手にスパイクをぶちかます。


「カズマさん、さっきラーメンの注文をしたよね?俺はちゃんと商品をお届けしたのに、なんで食べてくれないの!?食べきれんのやったらうちの店に来るな!出禁!」


と煽り返すノリが最高に楽しかった。俺の言葉にみんなが腹を抱えて笑い転げ、バレーが中断される時間が「今俺は…生きている。」と感じる至福の時間だった。


敵チームのサーブやスパイクで狙われたら、

「おかわり!替え玉一丁ちょうだい!」

と敵チームに叫び己を鼓舞した。


ただ単にバカにされ、いじられているだけなのかもしれない。だけど、ユートはありのままの姿を受け入れてくれるエアロのメンバーが大好きだった。


そして、ユートはその頃にもう一つ別のバレーボールサークルにも入った。友達の紹介で、ママさんバレーの「メープル」に、月に2回程度通うようになった。ユートの実力では、普通の社会人サークルはレベルが高すぎてついていくので精一杯だ。手も足も出ないから、大声だけ出しに参加しているようなものだ。強豪校で3年間ベンチにいて声出しをしていた人みたいなもんだ。

だから、「メープル」で基礎練ができるのはとてもありがたかった。


そして、「メープル」に通い始めて2ヶ月が経った頃、ユートはレンと出会った。


運命の歯車は動き出す。いや、動き出してしまったと言うべきなのかもしれない。


—-


レンとの出会いは良く覚えている。何せただでさえ男性比率の少ないママさんバレーに超絶爽やかなイケメンがやってきたのだ。学生時代野球を続けて鍛えた彼の運動能力は、コートで良く目立っていた。


「ユート君はさ、普段休日どんなふうに過ごしているの?」


不意に声をかけられ、驚きを隠せなかった。こんなにカッコ良い人が俺に話しかけている。


「僕は他のバレーボールサークルに通ったり、それ以外は読書とかピアノとか1人の時間が好きですね。」


「え、そんな多趣味なの!すごいね!」


「いやいや、どれも好きなだけで全然実力が伴っていませんよ。レンさんは普段どんなふうに過ごされてるんですか?今も野球をされてるんですか?」


「野球もたまにするし、スキーとかバドミントンとかバスケとか、いろんなサークルの代表をしているよ。たまに大会とか運動会を主催してるね。」


「えー、すご!レンさんの方が僕よりよっぽど多趣味じゃないですか!笑」


「もし興味がありそうだったら招待するよ笑」


レンはユートのような変人にも分け隔てなく接してくれる。元々メープルの男性陣が少ないこともあり、ユートはレンとの関係を少しずつ縮めていった。


しかも、紳士で話が上手くて明るくて、素敵な彼女のトウカさんをサークルに連れてくることもある。周りのママさんに聞いたところよると、めちゃくちゃ料理も美味いらしい。


こんな清廉潔白で聖人君子な陽キャが存在するのか?俺も含めて、人間ってもっと性格が悪く醜くて自分勝手な生き物じゃなかったっけ?


ひょっとして、彼やみんなは真っ当な人間で、俺は「人間世界に馴染もうと努力する悪魔」なのか?


彼は俺が生み出した空想上の「完璧な男性」であり、実は俺以外には彼が見えていない、なんてことないよな?


このように、今までの常識や固定観念がひっくり返るほどの好青年だと思った。


実をいうと、ユートはレンに少し憧れていた。しかし、水清ければ魚棲まずという言葉もある通り、あまりにも完璧過ぎて少し近寄りがたいとも思ってしまった。俺とはあまりにも不釣り合い過ぎる。


そして、光が強ければ影も濃くなる。ユートの尊敬する社交的な友達らは、深く話をすると「元々いじめられっ子だった」とか「元々引きこもりだった。だからこそかつての自分と同じ境遇の子を助けたくてソーシャルワーカーになった。」そんな人は周りにゴロゴロ居る。


辛かったからこそ、変わらざるを得ない理由があって努力する。世間は親ガチャの当たりを望むが、イェール大学助教授の成田祐介さんのように、むしろ家庭環境が良く無い状況から大きな成果を出す方がよっぽどカッコ良い生き方だと思うのだが。


チート武器やレベルマックスでスライムを倒すことなんて誰でもできる。だけど、レベル1でヒノキの棒だけ持ってラスボスを倒せる人がいたら、それこそ本物だと思わないだろうか。アニメ「シャングリラフロンティア」の主人公のように、苦境を実力で突破する人が一番カッコ良い。ユートはそんな人間に憧れていた。


ユートは学生時代はいじめられっ子だったし、職場でパワハラを受けてうつ病になったことがある。孤立して理解されなかった経験があるからこそ「自分がされて嫌なことは他人にしない。困っている人がいたら自分を犠牲にしない範囲で助ける。」とルールを設けるようになった。


つまり、レンも品行方正になるまでに何か艱難辛苦を乗り越えたんじゃないのか。どうやったら彼みたいな人間が生まれるのか、興味を持った。


—-


そうして、「エアロ」と「メープル」に通い始めて約一年が経った頃、ユートは26回目の冬を迎えていた。レンに誘われてソフトバレーのサークル「アライブ」に2回ほど参加したこともあり、仕事の喧騒を読書やスポーツサークルで発散する充実した日々を送っていた。


冬が終わりに近づいたとある土曜日の朝、レンから新たなメッセージが届いていた。


「ねぇユート君、今日のお昼ご飯って空いてる?良かったらどこかご飯食べに行かない?」


ユートは画面を見て苦笑いを返した。もちろん、そのリアクションはレンには届いていない。

実は、このようなお誘いは初めてではない。


ユートは、副業で経済的自由を手にするまでは余程会いたいと思う人ではない限り、食事や旅行には行かないと23歳の時己に誓っていた。当時パワハラで精神を病んだ時、どうしても仕事を辞めたくなって【資産を預けるだけで何をしなくても毎月10%お金が増える!】というありもしない幻想に飛びついて数百万円の貯金を失ったことがある。ポンジスキームというよくある投資詐欺の手法だ。


長期投資について少しでも勉強しておけば、年間4%の資産増加が相場であり、毎月10%は年間210%の増加という荒唐無稽な儲け話に飛びつくことは無かっただろうに。

スーパーで大根が一本一万円で売られていたら【誰がこんなぼったくり買うんや】と分かるが、投資の勉強をしていないと過去のユートのように簡単に騙される。


無知は罪である。なぜなら、自分だけでなく、大事な人が窮地に陥っても助けられないから。

目先の楽に逃げたら、結局楽とは程遠い人生が待っている。

道を大きな岩が塞いでいるなら、人生の早い段階で取り除いた方が快適に過ごせる期間が増える。


壁にぶつかって、その度に逃げるという選択をしていたら、進撃の巨人の冒頭みたいに狭い世界でしか生きられなくなる。


いつかは壁を壊したり、乗り越えなきゃいけない時が来る。だから、日頃から食事、睡眠、運動、読書、副業、選択肢を増やすことが重要なのだ。

特に、ユートのような凡人は、童話「うさぎとカメ」のカメのように、積み上げてきたもので勝負しないと足が速い天才に勝てるはずがない。毎日1メートル進み続け、10キロメートルの差をつけておけば天才でもすぐには追いつけない。

人生は短距離走ではなくマラソンなのだ。YouTubeがテレビ業界を圧倒しYouTuberという職業が脚光を浴びたように、他の人と違う人生を、早い段階で歩き始めた人には他の人と違う選択肢が手に入る。


生まれや境遇が苦しくても、自由になるために必要な努力が免除されるわけでは無い。

被害者ぶって自分は世界で最も可哀想なんだと正論を大声でかき消しても社会は俺達のお母さんにはなってくれない。


バレーボールが上手くなりたいなら、バレーの練習をするしかないのと同じく、お金の悩みを減らしたいなら、お金の勉強から逃げてはいけない。


「人生は地図の無い冒険だ。心のコンパスに従って生きよう。」


これは、ディズニーシーのアトラクション、「シンドバッドの冒険」のテーマソングで聞いたことがある言葉だ。


地元に残り続けるのか、新たな島を探しに行くのか、100年と言う限られた時間をどのように使うかは、自分で決めることだ。


「親に言われたとおりに生きる」という選択をするのも自分。言い訳したところで誰も助けてくれない。


人生は調子が良い時ではなく調子が悪い時にでも努力できるかで決まる。


だから、この就職先は一生安泰だ。と思考停止している職場のおじおばの価値観の押し付けやマウントには辟易している。


だが、一番悔しいのはそんな職場から抜け出せない己の未熟さだ。「馬鹿にしているなら、そいつらと関わらなければいいじゃん。関わりを立てないなら、第三者から見たらユートも彼らと同じ穴のムジナだよね。」この言葉に反論できない自分自身が一番許せない。


いつの時代も敗者は言い訳を探し、勝者はやり方を探す。


その経験を教訓に、お金の勉強や副業を始めるようになったし、「自分の幸せを最後まで考えてくれるのは自分だけ。生殺与奪を他者に委ねてはいけない」ということを学んだ。


鬼滅の刃の無限列車編のエピローグでも「時間は俺達に寄り添ってくれない。」と炭治郎君が言っていた。煉獄さんが死んだからと言って悲しさに打ちひしがれて剣を置いてしまうと、炭治郎君の知らないところで誰かが鬼に襲われる。煉獄さんが命のバトンを繋いでくれたなら、この悲しみの連鎖に終止符を打つ。心を燃やせ、燻ったまま漫然と生きていないか?


映画を劇場で見た時、ユートは原作の展開を知っていたにも関わらず大号泣した記憶がある。世界に没入し過ぎて、「鬼舞辻と猗窩座の首は俺が斬る!」と炭治郎が言った時「違うよ、炭治郎君。あいつらの首を斬るのは俺だ。煉獄さんの仇は、俺が討つ!」と本気で思ったほどだ。


だから、日頃スポーツサークルで運動不足や孤独感を減らし、それをご褒美に読書や副業のモチベーションを作って自分磨きの習慣を継続していたのだ。カズマさん達「エアロ」のメンバーからは「ユートはいっつもご飯一緒に行ってくれない。ノリ悪いなぁ。」と悲しそうな顔をさせて大変申し訳なかったが、この先70年後も健康な心身と良好な人間関係を彼らと保つために、苦渋の決断で断らせてもらっていた。


自分自身に対して罪悪感無く「カズマさん、食事に行きましょう!」って言えるようになるためにも、早く経済的自由になりたいな。1日早く努力を始めたら、自由になる日が1日早くやってくる。

そのように、ユートは目の前の誘惑に抗っていた。


ありがたいことに、こんなに性格が変わっていて社会不適合者のユートを受け入れてくれる場所は地元にもある。小中と同じ学校だった腐れ縁の友達4人組の仲は、今も健在だ。ユートが地元に帰る度に、「今度旅行しようぜ?同窓会しようぜ。」と誘ってくれる。3人とも、ユーモアセンス抜群で運動神経も地頭も性格も良い。ユートにはもったいないくらい素敵な友達だ、なんで彼らは俺と一緒にいてくれるんだろう。みんなでバカ話をして腹を抱えて笑っている時、ふとそう思う瞬間がある。俺は幸せをもらってばかりだ。俺は君達に何か返せているだろうか、いつも不思議でならない。


だが、彼らと会うシチュエーションはルールを設けて、あえて限定している。俺は騒がしい場所もお金がかかる趣味も今は我慢している。地元に帰る時は、公園でキャッチボールやサッカー、それか体育館を借りてバレーボールをしている。


そして、ユートは自身の意向を正直に話しても彼らは受け入れてくれる。そもそも、ありのままの自分を受け入れてくれない関係なんて維持する意味があるだろうか。自分を強く見せるため、背伸びしてマッチングアプリのプロフィールを盛ったり、友達にマウントをしたくなる気持ちは確かによく分かる。だが、誇示したところで、「じゃあその偽りの姿をあと70年続けられますか?」と質問されて、はいと答えられる人がどれくらいいるだろう。


そして、偽りの仮面の姿をユートの本心だと勘違いさせてしまうと、「ユートって実はそんな人だったんだ、最低!」といつか関係は破綻する。10年間勘違いをさせていたら、その人が本来ユート以外の人間と楽しい思い出を作れたはずの時間を10年分奪うことにもなる。


ガス抜きをしない風船がいつか破裂するように、溜まったダムが決壊するように、どちらか一方が我慢する人間関係なんて長続きしない。その法則は、親、友達、恋人、上司、同僚、後輩等例外なく当てはまる。もちろん、上司と部下等立場の違いはあるが、1人の人間であることに変わりはない。相手に対して敬意を示せないのであれば、もしくはこちらが蔑ろにされるのであれば、いつか破綻するのは目に見えている。


だから、ユートは自身の唯一の長所である「素直と正直さ」だけは守るようにしている。

実を言うと、隠し事や嘘をつき続けられるだけの器用さや頭の良さを持っていないだけなのだが。


「同窓会も、旅行も、みんなで楽しんできて。俺は3人に会えたらそれだけで充分だから、家に帰って両親に料理作るわ。」


少しずるいが、家族を盾にして地元の友達の誘いを断っている。同窓会なんてユートにしてみれば食事に異物混入しているようなものだ。大好きな友達ら少人数と会えば良いのに、わざわざマウント合戦に首を突っ込みお金と時間を費やしてストレスを溜め込む理由が分からない。そんな暇があるなら、俺は今目の前にいる3人と1分でも多く幸せな思い出を増やす方がよっぽど有意義な時間の使い方だ。


社会人になり5年が経つ頃には、地元の友達らはユートを同窓会には誘うのを諦め、公園に4人で集まった時に他の同級生の近況を教えてくれるようになった。それで良いんだ。お腹が減っているからこそご飯が美味しいと感じるように、人間関係にも適切な距離がある。顔も忘れかけているかつての同級生達には少し申し訳ないが、ユートの人生が一冊の本だったと仮定した場合、モブキャラに時間を使うくらいなら目の前の主要人物と時間を過ごしたい。


だからこそ、レンに時間やお金を割く余裕は正直全くない。本当に気持ちはありがたいし申し訳ないが。


『レンさん、お誘いありがとうございます!すみません、けど今日忙しいんですよ汗 お食事楽しんできてください!』


そのような定型文のメッセージを返しても、

『ユート君、今度うちのサークルでバスケやるんだけどどう?』


『今度また【アライブ】でソフトバレーやるんだけどどう?』


このように、手を変え品を変え何度も誘ってくる。

言い間違えた、誘ってくれる。


誰かに好かれているという経験が少ないユートからすれば、それだけユートを気に入ってくれるのはとても嬉しい。だが、少し圧が強いなと思った。正直、スポーツをやるなら今はバレーに集中したいし、ご家族連れのゆるいソフトバレー「アライブ」に参加するよりは経験者達のサークルで揉まれたいと思っている。だから、レンの誘いは全て優先順位が低いのだ。


『ユート君はどんなスポーツに興味あるの?』


なるほど、変化球を投げてきた。さすがは元野球部だ。俺の希望に添う手札を探しているのだろう。その気持ちはありがたいが、無理してそこまでしなくて良いのに。


その善意が、ちょっとだけ重たく感じた。


『今バレー以外でやってみたいのは、パルクールとかキックボクシングとか、カポエイラやアクロバット系のダンスですね。』


これは本音だ。格闘技もダンスもやってみたい。ユートとしては西村ひろゆきさんや堀江貴文さんらが「格闘技を習っておくと【最悪殴り合いの喧嘩になっても勝てる】って分かると会話の恐怖心が無くなる」と話していたから、コミュ障改善のアプローチとして習ってみたかった。

そして、高知県出身のユートが死ぬまでにやりたいことリストとして、【よさこいチームを作りたい】という目標がある。だから、社会人になってから電子ピアノを買ってこっそり4年間練習しているし、Youtubeを見てヒップホップダンスの練習もしている。実力はお粗末なものなので誰にも見せたことはないが。人生は長い。蒔いた種が咲くのをじっくり待つとしよう。


パルクールも、体を扱う感覚を磨くのにうってつけの競技だ。何より、街でヤンキーに絡まれたとしても脱兎のごとく逃げることができる。ヤンキー対策がパルクールを身につけたい理由の10割を占めているのは誰にも内緒だ。


格闘技もダンスも習いたい。しかし、全部バカにならないほど高い。ならば、バレーボールに専念した方がコスパが良い。もしレンが格闘技やダンスのコネを持っていて安価でレッスンを受けられるなら、儲けものだ。お互いに妥協点が無ければ、レンも毎週のように連絡してくることは無くなるだろう。


どっちに転んでも利があるはずだ。


『えー!ユート君すごい、そんなにたくさん興味があるの!?パルクールや格闘技やダンスは知り合いが居ないなあ…。』


その返事に、ちょっとだけ罪悪感を覚えた。別にレンと関わりを断ちたい訳ではない。だが、たまたまユートが飛びつきたいと思う餌を投げてくれないだけだ。


『レンさん、僕は月に2回程度隔週土曜日に開催してる【エアロ】ってサークルに通ってるんですよ。そして、今日の午後その活動があるんすけど、良かったら参加されますか?そこなら休憩時間中であればお話しできます。』


ユートは助け舟を出した。


レンが船を沈める海坊主になるかもしれないが、当時のユートはそれを知るよしもなかった。


『ありがとう、行く!』


そうして、レンは「エアロ」のグループに参加した。


——


桜が芽吹き始めた頃、ユートは好きな子との2回目のデートを控えていた。読書や料理という共通の趣味を持つ子に2年間片思いをしていて、先日1回目のデートでその子から手作りのパンをもらった時はそのまま嬉死しそうなほど幸福感で心の器が満たされた。パンの味は「あばたもエクボ」や「恋は盲目」補正が入っていることを差し引いても、控えめに言って世界で一番美味いパンだった。心だけではなく胃袋も掴まれてしまった。

時間がこのまま止まれば良いのに、俺はこんなに幸せで良いんだろうか。


四六時中頭の中がその子でいっぱいだった。俺は何を返せるだろう。次に会った時に話したいことリストを更新するのが日課になっていた。いつも好き避けをして上手く話せなくなる。今度こそ、頭が真っ白にならなければ良いけど、多分無理だろうなーうふふー。


第三者に見られていたら即通報されていたであろう、そんなキモいニヤけ面で公園をスキップすることが朝の日課になっていた。


そしてデートを2週間前に控えた4月上旬、レンからメッセージが来た。


『ユート君、この前参加してくれたソフトバレーの【アライブ】で、スミレさんっていう40代ぐらいの女性いたじゃん?あの人は数年前からパン教室をやってて、すごい人気らしいんだよ!参加費700円でたまたま空きがあるらしいんだけど、一緒にどうかな?』


その連絡に、正直心が躍った。なんというタイミングの良さだろう。今度は俺がパンを作ってあの子を喜ばせるんだ。失敗したら、「上手く行かなかったんだ。パン作るのって難しいね。だから、この前のやつ改めてありがとう。」と言えば良い。そうだ、パンのようにこの気持ちを熟成発酵させよう。期待と希望で胸が膨らんだ。


『レンさん、お誘いありがとうございます!是非参加させてください!』


『了解!当日はエプロンも貸してくれるらしいから手ぶらで良いよー!それか、汚れても良い服で来てね!』


数日後、レンから追加の情報が来た。


『なんか当日の場所が変更になって、俺の職場の先輩夫婦のお家でやることになったから住所送っておくねー!』


まじか、そのご夫婦に申し訳ないな。不親切なユートが先輩夫婦の立場ならパン教室に自分の家が使われるのは我慢ならない。絶対拒否するだろう。メッセージに添付された住所を調べて、ユートは絶句した。


とんでもない高級住宅街だ。こんなところに、貧乏人の俺なんかが足を踏み入れて良いはずがない。貧乏人にのみ反応する地雷が仕掛けられていて、部屋にたどり着く前に肉片と化するに決まっている。


『あの、ご夫婦に何か手土産を持って行きたいんですが、お二人は何が好きとかご存じですか?』


『あー、気を遣ってくれてありがとうね笑 ハルキさんカエデさん夫妻はそんなの気にしないと思うけど、強いていうならチョコ系が好きだと思うよ笑 けど当日結構料理が出るからあんまり持ってこなくていいと思うから笑』


レンの言葉に深く安堵した。食べ残しても良いように、アルフォートやカントリーマァム等保存の効く小袋のチョコ菓子を念の為持っていくことにした。


『ちなみに、レンさんは何分前に到着されますか?キッチンスタジオではなく人のお家なのであんまり早く行きすぎても迷惑かなーって悩んでいるんですけど…。』


『そうだね、俺は開始時刻の20分ぐらい前に着くから、10分前ぐらいから来てくれていいよ!』


『了解しました!』


ほっとひと段落したところに、レンから追加のメッセージが来た。


『あと、当日アムウェイの調理器具を使うらしいから、じゃあヨロシクー。』


最後に不穏な一言が残されていた。


アムウェイ?聞き間違いか?


アムウェイとは、端的に言えば【会員制のAmazon】であり、商品を第三者に紹介してその人が買ってくれたら、紹介したこちらにも何割か収入が入る。SNSのインフルエンサーが企業案件の自分が欲しくないものを売りつけるのと規模は違うがやり口は同じだ。人間関係を小銭に変換し、商品を売りつける。【友達無くしたい人】が所属するコミュニティと言った方が適切かもしれない。

そして、もっと世の中に知れ渡った言い方だと、ネズミ講やマルチ商法のトップを走る会社と言える。


けど、あんなに社交的でまともなレンさんが、アムウェイと関わりがあるのか?


ユートは社会人になりたての頃、英会話カフェに出入りする【早期に定年退職したトラックドライバーの初老のおじさん】にキリスト教の亜種であるモルモン教やアムウェイに勧誘されたことがある。

【アムウェイに入るとお金持ちになれます】とどう見てもお金のやりくりに困ってる人が言ってくるから、アムウェイはまともな組織じゃないかもしれないとなんとなく思った。


あまりに勧誘がしつこいのと話が通じないので速攻ブロックし、今でも英語の勉強友達らと「あのおじさん激ヤバだったね、関わらなくて良かった笑」と思い出話のタネとして使っている。


レンさんは、あのハリーポッターのラスボス並みに言ってはいけない言葉の「アムウェイ」を口にした?

いやいや、「Amazon」の調理器具って言ったんだろ。そうに違いない。


ユートは自身にそう言い聞かせた。不幸なのか幸いなのか、メッセージの履歴が残っている。そこには、ちゃんとアムウェイと書いてある。


「俺はこの会に参加してほんとに大丈夫…だよな?」


自分に問いかけながら空中を眺めた。


『あれれ?おっかしいぞー?』


ユートの頭の中の少年名探偵が散らばったピースを集め、点と点を繋ぎ始めている。


「おいこのクソ坊主、友達のレンさんに対してそれは失礼だろ!」慌てて少年名探偵の頭を両手の拳でぐりぐりと押さえつけた。彼は程なくして霧散したが、心の中のモヤはむしろ体中に広がっていた。


虚無感と不安感が、静かな部屋に充満していくのを感じた。


そうして、あっという間にパン教室の当日を迎えた。


—-


「お菓子の準備ヨシ、代金もハンカチも、あと一応アルコールのウェットティッシュもヨシ!」


持ち物を一通り確認した後、リュックに詰め込んだ。期待と不安でリュックも心もパンパンになっている。深いため息と共に頭の中のゴミを空中に吐き出した。


「後はもう、なるようにしかならない。」


当日の17時半、ユートは緊張する手で車のハンドルを握り、車を走らせた。

20分ほどすると、高級住宅街が見えてきて、この日が現実であるということを再認識した。怖い、お腹痛くなってきたかも。やっぱ帰ろうかな。泣き言をぶつぶつ言いながら、駐車場のあらかじめ指定されていた番号に車を停めた。


車から出て、マンションの入り口に足を踏み入れると、静かな水音が耳をくすぐった。エントランスの左右に目を向ければ、石造りの小さな泉がひっそりと佇んでいる。無機質な黒色の外壁に囲まれた空間の中で、その泉だけが異質な存在感を放っていた。


わずかに波立つ水面は、微風にそよぐ木々の影を歪ませ、昼は陽光をきらきらと反射し、夜になればマンションの灯りをぼんやりと映し出す。流れ落ちる水の音は、そこを通る者に一瞬の静寂をもたらし、都会の喧騒の中でわずかながら自然の気配を感じさせた。


ガラス張りの自動ドアが静かに開き、ひんやりとした空気が肌を撫でた。足を踏み入れた先には、淡い照明に照らされた小さな無機質な空間が広がっている。真正面には暗闇のように黒いパネルが備え付けられており、その下にはキーパッドが控えめに光っていた。


ユートは震える指先でポケットからメモを取り出し、事前に伝えられていた部屋番号を確かめる。喉が乾き、心臓が小さく跳ねた。ゆっくりと息を整え、慎重に番号を入力する。押すたびに、わずかな電子音が空間に響いた。


数字を打ち終えた瞬間、パネルの向こうにあるスピーカーが静かに作動する気配を見せる。ユートは一度唾を飲み込み、できる限り落ち着いた声を出そうとした。


「ご、ご紹介いただいたユートと申します。」


だが、言葉はか細く、震えが混じる。それでも、その一言が終わるや否や、低い電子音とともに目の前のロックが解除された。重厚なドアが静かに開き、奥へと続く通路がユートを迎え入れる。彼は一瞬ためらいながらも、小さく息を呑んで前へと踏み出した。


エレベーターを登り、指定のあった部屋のインターホンを押した。しかし、反応が無い。


ノックしてみると、


「鍵は開いてるよ、入っておいで!」


ドア越しにレンではない男性の、朗らかな声が聞こえた。


緊張の面持ちでドアを開け、扉が静かに閉まる音が背後で響いた。俺は一歩、部屋の中へ踏み入れる。その瞬間、まるで別世界に迷い込んだような感覚に陥った。


足元には、見るからに高級そうなベージュの絨毯が広がっている。派手さはないが、その繊細な質感とわずかに光を反射する織り目が、ただの布ではないことを主張していた。靴底が吸い込まれるような柔らかさに思わず足元を見下ろし、次に顔を上げたとき、目の前の光景に息を呑んだ。


広い。異常なほどに広い。

視界いっぱいに広がるリビング、その奥に見える壁までの距離感が狂っている。まるでどこかのホテルのラウンジにでも迷い込んだかのようだ。いや、それでもここまでの開放感はないだろう。一体何畳あるんだ?地元の友達とキャッチボールできそうだ。


真っ白な壁が部屋全体をより広く、より洗練された空間に見せている。窓からは夕暮れ時のビル群や住宅街の生活の証が小さく瞬いていた。景色すら、この部屋の一部として計算されたかのようだ。


右側に目をやると、そこには堂々としたアイランドキッチンが鎮座している。大人三人は余裕で並べる広さのカウンターが、何の障害物もなく視界に飛び込んでくる。というか知らない人が3人居て怖い。多分、この部屋の持ち主であるハルキさんとカエデさん夫婦。そして隣にいるのは…何度かソフトバレーをご一緒した今日のパン教室の先生であるスミレさんだ。


磨き上げられた天板は、まるで展示品のように美しく、料理の痕跡など一切ない。キッチンの左手には巨大なダイニングテーブル。目算で9人は座れそうな馬鹿でかいサイズだ。


──これ、どこかで見たことあるぞ。

記憶をたどる。そうだ、ディズニー映画。アナ雪とかラプンツェルの続編アニメとかで王族が食卓を囲むシーン。まさにそれだ。現実にこんなテーブルが存在するなんて、どんな生活を送ればここで普通に食事ができるんだ?「醤油取って。」って気軽に言える距離じゃねーぞこれ。チェーン店みたいに調味料を複数セット用意しないと不便じゃないか?


更に視界の左端、リビングスペースにはL字型のソファが悠々と鎮座していた。6人がけ──いや、詰めれば8人は座れるかもしれない。深く沈み込みそうなクッションに、上質な生地の張り。座るための家具なのに、まるで触れることを躊躇させるような高級感が漂っている。可愛すぎて飲めないラテアートみたいなジレンマを感じる。そのソファの正面には、巨大なテレビが壁に設置されていた。


画面に映し出されているのは、サバンナの風景。まるでCGのように鮮明な映像が、どこか現実味のないこの空間に奇妙なリアリティを加えていた。画面の中央、水飲み場に小鳥が舞い降りる。鹿のような動物が慎重に首を伸ばし、水面を舐める。


──これは、Youtubeのライブ映像?

どうやら、そうらしい。サバンナに設置された定点カメラの24時間配信。そんなものを流している部屋なんて初めて見た。


動物達が静かに水を飲む映像を横目に、俺は息をと生唾を飲み込んだ。喉が乾き、呆然と立ち尽くし、思った。


──場違いだ。


完全に、俺のいる場所じゃない。

身体が、自然と出口を探していた。帰ろう。いや、帰るべきだ。俺がここにいる理由なんて、どこにもない。


リビングの入り口で呆然と立ち尽くしていると、茶色い影が弾丸のように飛びついてきた。


「うわっ──!」


反応する間もなく、ずしりとした衝撃が胸を直撃する。バランスを崩し、情けなく尻もちをついた。その瞬間、全身にのしかかる、もふもふとした重量感。


目の前に広がるのは、フワフワした毛並み。だが、それに惑わされてはいけない。こいつは犬だ。しかも、クレーンゲームの景品よりはるかにデカい。もはや中型の獣と言ってもいい。


「うわー!食われる!」


俺の上にのしかかるのは、茶色のスタンダードプードル。長い前足を俺の肩に置き、興奮したように尻尾を振っている。鼻息は荒く、口元からは舌がだらりと垂れていた。


好きなアニメ「SPY×FAMILY」でも、主人公のアーニャが軍用訓練を施されたグレートピレニーズであるボンドに抱きつかれたシーンを思い出した。アーニャ、君の気持ち、今ならよく分かる気がする。


──そうだ、人間はいつから地球の食物連鎖の頂点に立っていると錯覚していたんだろう?


この状況を見ろ。文明がどうとか、ペットがどうとか関係ない。今、俺は肉食獣に体重をかけられ、身動きが取れずにいる。もしこいつが「おやつ」として俺を認識したら──。


俺はふと、学生時代に国語の授業で習った宮沢賢治の『注文の多い料理店』を思い出した。そうか、そういうことか。


今日は「料理教室」って聞いていたが、料理されるのは俺の方だったんだな。俺は食材であり、これまでの人生で犯した悪行の贖罪でもあるんだな。


食う者は、いずれ食われる運命にある。弱肉強食という摂理を、文明の中で生きてきた俺はすっかり忘れていたのかもしれない。人間が支配者だなんて思い上がりもいいところだ。こうして、俺は哺乳類の頂点から一瞬で転落し、茶色い獣に一方的に捕食される。お父さんお母さん、今までありがとう。俺が死んでも、俺のスマホの検索履歴は調べないでね。


そう思いを目瞑ったが、いつまでも鋭い歯がユートの柔らかい肉体に噛み付く感覚がやって来ない。

──いや、待て。こいつ、舐めてるぞ?


プードルの大きな舌が、俺の頬をベロンと舐め回す。ぬるっとした感触が顔じゅうを覆い、俺は絶望的な表情で天井を見つめた。


「こらっ、モココ!やめなさい!」


リビングの奥から、鋭い女性の声が響いた。


俺は、仰向けのまま視線だけをそちらへ向ける。そこには、飼い主らしき女性が呆れ顔でこちらを見下ろしていた。彼女が声を上げると同時に、モココと呼ばれたプードルはピタリと動きを止める。


「……助かった?」


そう思ったのも束の間、モココはもう一度俺の顔をペロリと舐め、満足げに尻尾を振った。


なぜか知らんが、今がチャンスだ。俺は車の鍵もリュックも全部置き去りにして、生まれたての子鹿のようなフラフラとした足取りで、玄関の方に逃げようとした。


「ちょっとユート君、どこ行くのー?笑」


聞き覚えのある声を聞き我に返った。王族の席の一つにレンが鎮座して手を振っている。その隣にも複数人参加者がいる。レンの彼女でユートと同い年の…トウカちゃんだったっけ?その隣には、二十代前半とおぼしき女性と、スミレ先生と同年代に見える推定40-50代の女性。完全に初対面だ。今日は俺を含めてこの空間に合計8名が居る。このメンツで、パン教室を始めるみたいだ。


「ごめんね、うちのモココはお客さんに抱きついて匂いを嗅ぐのが好きなのよ。何度注意しても直らなくて。」


ユートに声をかけたのは、30代前半らしき長身で細身の女性だ。頬に手を当て申し訳なさそうにユートを見ている。彼女がおそらく家主のカエデさんだろう。


「あ、あのっ、本日はオヨヨお呼びいただき。」


「君がユート君でしょ、話は聞いているよ笑 とりあえずパン教室始まるからキッチンで手とモココに舐められた顔を洗いなよ。」


この家の主であるハルキさんが優しく声をかけてくれた。180センチは越えるすらっとした体型、短く側頭部を刈り上げ爽やかな笑顔と黒縁メガネが似合う推定30前半のイケメンだ。もし俺が女性だったら、この数十秒で彼の連絡先を聞いていただろう。さすがレンさん。類は友を呼ぶというか、こんなキラキラした人達が本当に実在するんだ。


「あのっ、はい。では失礼しまう。失礼します。あ、その前にこれつまらないものですが、お納めください!」


手を洗う前にお土産を持ってきたことを思い出し、お菓子類を詰めた紙袋をハルキさんとカエデさんに深々と頭を下げながら差し出した。大名に年貢を納める農民ってこんな気分だったのかな。


カエデさんはそれを受け取ると、

「ユート君、わざわざありがとう笑 なんかレン君が言ってた通りの人ね笑 緊張し過ぎ笑」


「は、はひっ、すみません!」


緊張もするだろう。ただでさえアウェーなのに番犬に戯れで命を奪われそうになったのだから。去勢で玉を取られたから、俺のタマが欲しくなったのだろうか。犬は可愛くて好きだが、小学生の頃書道教室の先生のチワワに指を噛まれてから苦手意識を克服できずにこの歳になってしまった。まだ鼓動が耳の奥で鳴り響いている。


そしてカエデさんらがキッチンのスペースを空けてくれたので、スピーディにかつ丁寧に手を洗う。

みんなを待たせてはいけない、それでいて料理教室に菌を持ち込んではいけない。そうか、多分手術中の外科医ってこんな気分なんだろうな。お医者さんってスゲー。


「わあこのお菓子私が好きなやつじゃん!ユート君ありがとう!どっかのレン君と違って気が利くわぁ。」


「えー!なんで俺に飛び火が来るんですか笑」


「このお菓子はみんなでご飯を食べた後開けようか。」


「「はーい!」」


指に触れる温水に意識を向けながら、夜中暗い部屋1人でバラエティ番組を見ているように、みんながユートのお菓子で盛り上がっている風景を聞き流していた。


「では、メンバーが揃ったので少し早いけどパン教室を始めます!」


パン教室の主催者であるスミレ先生がみんなに紙の資料を配り始める。


その紙に書かれている手順を読み、そう言えば自分はパンを作りに来たんだったとようやく現実に目を向け始めた。


「パンって美味しいですよね。けど、市販のパンって言うのは添加物をたくさん含んでいます。では、自分で作るのは?パンは生地をこねて一次発酵、二次発酵の後オーブンで焼くことで完成します。大体早くても2、3時間はかかります。これを毎日できますか?つまり、手作りだとあまりにも手間がかかりすぎる。


数年前、私は様々なパン教室に通っていた時、難しい工程や特別な調理器具を使わずに誰でも美味しいパンを食べる方法ってないかな?と思いました。


そこから、自分でパン教室を始めようという発想になりました。」


ほう、思わず声が漏れた。とても明瞭で分かりやすい。ユートもパンを作るハードルが高いと思っていたところだ。


「なので、今日はフライパンやフードプロセッサーぐらいしか使いません!」


「えー!凄い!そんなこと可能なんですか!」


驚きのあまり声を出してしまった。


「ユート君、いい反応をありがとう笑」


スミレ先生が言うと、みんなもつられて笑った。


「スミレさん、今日はサクラを雇いました?笑」


レンの合いの手で更に笑いが広がり、空気が和んだ。おかげで、知らない人に囲まれて緊張していたユートも、少し肩の力を抜くことができた。


それから、みんなでフードプロセッサーに強力粉と塩とドライイースト、そしてバランスオイルを投入してゆっくり混ぜ始めた。フードプロセッサーのブレードは、まるで綿菓子機のように一定のペースで、遅いが力強い動きで材料をかき混ぜている。


「スミレ先生、バランスオイルって何ですか?普通の油では作れないんですか?」


こんな機会が早々あるとは限らない。今後別のパン教室に通うとしても、質問をしやすい空気とも限らない。だから、今のうちに気になることは聞いておこう。そう思ったユートは質問を投げかけた。


「ユート君、良い質問ですね。バランスオイルって言うのは、数種類の油を組み合わせて一番健康に良い比率に調整した油のことを指します。レシピにはおすすめの商品目のエサンテって書いています。


というのも、普通のサラダ油やキャノーラ油は健康によくないし、すぐに酸化してしまう。それらをずっと使い続けてしまったら、自分だけじゃなく家族にも悪影響を及ぼしてしまう。そんな人達の悩みを解消するのがバランスオイルなのよ。」


「「へぇー。」」


明瞭な説明にみんなで感嘆の息を漏らした。なら、オリーブオイルやココナッツオイルみたいに健康に良いとされる他の油でも代用が効きそうだな。などとぼんやり考えているユートをよそに、パン教室は次の工程に進んでいく。


それからは、誰かがレシピを読み、みんなで手を動かし、あんぱんと白パンの完成に少しずつ近づいて行った。


あらかじめ用意されていたあんこを生地で包む時、ユートは自身の不器用さを痛感した。


みんなが器用に包んでいく中、「スミレ先生、こんな感じでどうでしょうか?」ユートは渾身の力作を見せた。


「んー。右端の部分生地が薄くて中のあんこが透けているわよね。このままだと焼き方にムラが出て焦げちゃうから、もう一回包み直してみましょうか。」


優しく改善点を指摘してくれた。ユートは日頃から自炊している。シュウマイや餃子を作ることは滅多にないが、その感覚を思い出しもう一度捏ね直した。あんこを生地で均等に包み完全な球体を作る。NARUTOが螺旋丸の修行をしている時もこんな気持ちだったんだろうか。


そうして、改善した力作をもう一度見てもらうことにした。


「スミレ先生、どうでしょう!」


鼻息荒く差し出した手のひらに乗ったあんぱんをスミレ先生とレンが見た。


「「….」」


「ゆ、ユート君には次の作業を手伝ってもらおうかな。その生地を貸してもらって良い?」


ガーン。


ユートの全力は合格ラインに届かなかったようだ。


こうして、順調(?)にパン教室は進み、後は焼き上がるのを待つだけになった。


「本来は二次発酵やオープンで加熱する必要がありますけど、フライパンに乗せて蓋をすることとそのまま加熱することで作業を簡略化できます!だから、今日の作業は終わりです!」


参加者から拍手が起きた。確かに、始めてからまだ1時間ほどしか経っていない。普通パンは最低でも3時間はかかるはずだろうに、こんな芸当が可能なのか。スミレ先生の手腕に脱帽した。


みんなで手を洗い、王族のテーブルを囲んだ。


「じゃあ、ここからは自己紹介も兼ねて雑談タイムとしますか。」


このような会は慣れているのか、ムードメーカーのレンが沈黙を破った。


こうして、お互いの年齢、名前、好きなパン、趣味を紹介することになった。


ユートはチョココロネが好きであることと、読書やピアノ、スポーツが好きであることをみんなに伝えた。


「えー!ユート君は多趣味だねぇ!」


みんなが目を輝かせて驚いているのが伝わる。正直、褒められるのには慣れていないから照れて上手く反応できない。それに、どれも好きなだけで大した実力ではない。更に、どの趣味も「俺はこんなに意識高いんだぞ。」と周りに勘違いされていたらどうしようと不安感が拭えない。


趣味や知識はラジオの周波数やカードゲームの手札が多いようなものだ。使い方を間違えたらラジオからは雑音しか流れないし、手札を雑に切るとゲームには勝てない。


相手の好みに合わせて当意即妙に柔軟な対応ができてこそ一人前の社交スキルというものだ。


そもそも、ユートは自分語りよりも、質問して自分の知らない世界を知るのが好きだ。だから、インタビュアー側に回ることにした。


「ありがとうございます。だけど、僕の話より、さっきチラッとサエさんが話されていたことを聞きたいんですが。」


そう言うとみんなの視線はユートと同じく参加者のサエに集まった。


先程の自己紹介によると、スミレ先生と幼馴染である40代の女性で、スミレ先生の長女が高校生の時、長女の英語クラスを受け持っていたらしい。更に、学生時代はアメリカに留学した経験を持ち、工場の経営を行う旦那と二人三脚で歩んできた経歴を持つ。


情報量が多すぎてとても興奮した。ユートは高校二年生の時に2週間だけオーストラリアに留学したこともあり、加えてサエさんも元々引っ込み思案だったと言うことを聞いて、より深く質問したいと思っていたところだ。


「そんな、私の話なんて誰も興味無いですよ。」


サエさんは恥ずかしそうに顔の前で手を振った。


「いやいや、少なくとも僕は興味ありますよ!」


そう言うとみんなが堪えてきれなくなったのか吹き出した。


「ユート君がサエさんを口説いてる〜。みんなの前で人妻を狙うなんて大胆だね〜笑」


レンが茶化してくる。そんな風に周りからは見えたのか?ユートは自身を客観視するのが苦手だからよく分からない。


「はい、そうです笑 普段資産形成とか経済に関する本を読んでいるので会社経営に携わる人の話が聞きたいんですよ!」


早口で捲し立てた後、サエさんに向き直った。


それから、サエさんは元々航空関係の技術者を目指していたこと、20代で旦那と出会い2代目社長だからもし彼と付き合うなら将来の夢を諦めなければいけないという葛藤、子どもが2人産まれ旦那は朝から晩まで仕事に全てを捧げ工場で寝泊まりしていたこと、そんな旦那を支え続けたことを聞いた。


「すっげぇ、めちゃくちゃ参考になります!ちなみに、旦那さんは先代社長でありサエさんの義父と経営方針で別れたとおっしゃってましたけど

その後常に旦那さんのお仕事が順風満帆だったわけでは無いんですよね?特に、義父の支援も期待できない訳ですし。


経済的•心理的に余裕が無い状態で夫婦仲や子どもとのご関係を良好に保てたのって何か工夫とか秘訣があるんですか?」


「そうですねぇ。子ども2人が小学生の時、夫婦2人が働いている工場まで来てもらって、必ず家族全員でご飯を食べる時間を作りました。あとは、子ども達が中学生になって、経営が軌道に乗ってから、【サエも昔やりたかったことをやって良いよ。いつもありがとう。】って言われて英語の先生として授業を受け持っていました。こんな風に、常に旦那と一緒に苦痛を耐え続け時間だけではなく、子どもや生徒とか社会との繋がりを感じる機会を持てたことが困難を乗り越えられた大きな理由だと思います。」


頬に手を添え、思い出に浸り遠くを見つめるサエさんの顔には笑顔が浮かんでいた。辛いこと苦しいことがあったからこそ、今は幸せです。そんな感情が見ているユートにも伝わってくるような気がした。


「うわぁーおもしろ!事実は小説より奇なりって言葉は実在するんやって思いました!」


サエさんの人生を追体験し舌を巻いていたところ、そのユートを他のメンバーは唖然とした表情で見ていた。


「ユート君ってさ、ほんと語彙力とか質問力高いよね。アナウンサーとか営業の仕事に向いてる…。」


レンがユートを褒めてくれた。ありがたいが、得意であることとそれが好きかどうかは別問題だ。ユートは社交力を鍛えたおかげで「営業に向いている」とか「コミュ力お化けだね」と色んなコミュニティで言われるようになったが、「仲良くなりたいと思った人が現れた時用」に社交力を鍛えているのであって、人と話すことが好きと言うわけでは無い。なんなら、静かに1人で本を読むことが好きだ。


筋トレをして引き締まった肉体を維持するのは好きだが筋トレの苦痛は嫌だと思うのと似ているかもしれない。


「ユート君ってさ、本当に私と同じ26歳なの?順風満帆とか、事実は小説より…とか。よくそんなにポンポンと言葉が出てくるね笑」


レンの彼女のトウカちゃんも褒めてくれた。散々みんなに質問をしたので、今度はユートが質問責めに遭うターンになった。


「ユート君は日頃どれくらい本を読んでいるの?」


「えーと、月に10冊から、多くて15冊ぐらいですね。」


みんなが大きく目を開いてどよめいた。


「えぇ!2、3日に1冊を読むペースじゃん!早すぎ!」


予想通り、というかこれまでの人生で何度も見てきたリアクションだ。嘘をついて月2冊程度と言った方が良かったかな。


「いや、睡眠とか栄養学とかの本はすでに知っている話ばっかりだと読み飛ばしてて、【この本つまんないな】と思ったら途中で辞めることもあります。それらを含めて月10冊なので、過大評価をされると困ります…。」


ユートは肩を縮めて謙遜した。


「俺、人生で本を読み切ったこと一回もない笑」


レンが笑うと「知ってる。レンが本を読んでるわけがない。」と周りから鋭いツッコミが飛んできた。


今が会話の主導権を握るチャンスだ。


「ハルキさんも、たまに本を読むってさっきおっしゃってましたよね?どんな本を読むんですか?」


「ほらハルキ、普段全然本を読まないのに見栄を張ったからボロが出るわよ笑」


ハルキさんの隣でカエデさんがイタズラっぽく笑みを浮かべている。


「俺?俺は…三国志とかかな。カエデの言う通り、最近は本を全く読んでないけど笑」


その言葉に、ユートの興味の矛先が向いた。向いてしまった。


「え!ハルキさんも三国志好きなんですか!僕も大好きなんですよ!」


事実だ、ここ一年様々な三国志の小説を読んでいる。


「ハルキさんは誰が好きですか?やっぱ人徳の劉備?それとも仁義の関羽、それとも圧倒的カリスマの曹操ですか?僕は最強の呂布が好きなんですけど、作者によって呂布が完全な悪役か愛妻家として描かれるか分かれていて….。」


早口で喋っている時、空気が冷め切っていることにハッと気づいた。


「すみません、僕ら以外三国志に興味無いようなので、この話題を変えましょう。しかも一番席が離れて対角線上の僕達が話すことではないのかもしれません。」


王族のテーブルで、真反対の3メートル弱離れたハルキにそう呟くと、ドッと空間が笑い声に包まれた。


「みんな、そんなこんなでパンができましたよー!」


ミトンでフライパンを掴んだスミレさんがキッチンから戻ってきた。小麦の焼けた香ばしい香りが鼻腔を刺激し、クゥと小さくお腹が鳴ったのはみんなには内緒だ。


「わぁ!」


フライパンを開けると、水蒸気と共にふっくらと焼き上がったパンが視界を埋め尽くした。


「じゃあ、ご飯にしますか!取り分けたスープとサラダを次々隣に回して欲しいな。」


ハルキの声にみんなが返事をする。スープ?サラダ?そんなの作った覚えがないが。


「ハルキさんとカエデさんがミネストローネと自家製のチャーシューを作ってくれてるんだよ。」


レンがユートに耳打ちし、驚きで声を失った。キッチンの貸し出しだけでなく、そこまで尽くしてくれるなんて。至れり尽くせりだ。


レンが指揮を取り、皿を盛り付けて回すこと約2分。みんなが食事をする準備ができた。


「「「いただきまーす!」」」


正直、腹が減って仕方がなかった。空腹は最高のスパイスとはよく言ったものだ。


まずはミネストローネからいただこう。後で家に帰ってから調べたことだが、ミネストローネはイタリア発祥の料理で、「野菜のごちゃ混ぜ」「細かく砕いた賄い料理」という意味らしい。


トマトの芳醇な匂いがニンジンや玉ねぎと合わさり、嗅いでいるだけで3時間は楽しめそうだ。いや、それは嘘だ。3時間も目の前でこんな良い匂いを嗅いで、食欲を我慢できるはずがない。


スプーンを入れると、とろりとしたスープがゆっくりと流れ込み、湯気とともに食欲をそそる香りが立ち上る。トマトの酸味と甘みが溶け込んだ深紅のスープは、見るからに濃厚で、一口含んだ瞬間、その奥深さに驚かされた。


まず広がるのは、トマトの鮮やかな旨み。酸味がピリッと舌を刺激したかと思うと、煮込まれた玉ねぎの甘さが後からじんわりと押し寄せる。柔らかく煮込まれたニンジンはスープを吸い込み、噛むたびにじゅわっと甘みが広がる。すべての野菜がじっくり煮込まれ、それぞれの味が際立ちながらも、一つのスープとして調和している。


口の中でほどける具材の食感もたまらない。トロトロになった玉ねぎがスープと絡み合い、ホクホクのニンジンが甘さを引き立てる。そして、トマトの果肉がほのかに残り、ほろっと崩れる瞬間にふわっと酸味が広がる。このコントラストがたまらない。


スープ自体もただの液体ではない。野菜の旨みがすべて溶け込んで、もはや「飲む」ではなく「味わう」という表現がふさわしい濃密さ。オリーブオイルのまろやかなコクが舌にまとわりつき、ほんのり感じるニンニクの香りが後味として最高だ。


一口、また一口とスプーンを運ぶ手が止まらない。気づけば、皿の底にわずかに残ったスープを惜しむようにすくい、最後の一滴まで飲み干してしまっていた。温かさが体の芯まで染み渡り、満足感とともに、もう一杯食べたいという欲が静かに込み上げてくる。


──こんなに贅沢なミネストローネがあるなんて、知らなかった。というか、一般家庭が到達できるレベルじゃねぇぞこれ。


あまりの感動に、気づいたら席を立っていた。イタリアンレストランで「シェフを呼んでくれ」と言う人の心理ってこんな感じなのか。


「う、うまー!!このスープめちゃくちゃ美味しいです!こんなに美味しいミネストローネ、お店でも食べたことないです!」


その言葉にレンはカカカと高笑いした。

一瞬で平らげてしまったユートの食いっぷりを見て、ハルキとカエデは優しく笑った。


「おかわりもめちゃくちゃ大量に作ってるから、遠慮なく食べて良いよ。」


至福、圧倒的至福…!!このスープ、ホカホカに温まってやがる…!!


心の氷もゆっくりと溶かす穏やかな味わいが、ユートの目尻に涙を浮かべさせた。


だが、ユートは細身に関わらず超大食いだ。地元の友達には、実写版星のカービィとか隠れフードファイター等の異名が付けられている。ハルキ夫妻のご厚意に甘えてしまうと、寸胴鍋を一気飲みしてしまうかもしれない。さすがにそれは、今日この場所に招待してくれたレンの顔にも泥を塗ることになる。


ユートは昔から、食べたら「美味い」と声にしてしまうことがよくあった。厳密には、思ったことをすぐに口にしてしまう性格なだけだが。友達が「恥ずかしいから声のボリューム下げろよ」と苦笑いしても全く効果が無い。その結果、鬼滅の刃の煉獄さんのように「美味い!」と家でも外でも叫ぶようになっていた。


友達と定食屋に行った時、食後に頼んでもないプリンとコーヒーが出されたことがある。店を出る時「なんでセットメニューに無いデザートとコーヒーがタダで付いてたの?」と友達に聞くと、「そりゃあんなでかい声で店内で美味い美味い言ってたから、オーナーのおっさんも気分良くなったんだろ。」と言われて気づいたこともあるくらいだ。


だから、ミネストローネだけではなく、他のものを一通り食べてから、それでも空腹が続き、なおかつご夫婦がミネストローネの処理に困っているならいただこう。


次はサラダをいただくことにしよう。


皿の上には、みずみずしいベビーリーフの緑が鮮やかに映え、弾けるような赤いプチトマトが彩りを添えている。そして、主役とも言えるのは、しっとりと輝くチャーシュー。


さっきレンの言葉をさらっと聞き流してしまったが、このチャーシューはハルキ夫妻の自家製らしい。


「チャーシューはじっくり低温で火を入れて、一晩寝かせるんだよ。」


聞いたらハルキさんが丁寧に教えてくれたが、そんな手間をかけるなんて、自分には到底作れる気がしない。


箸でつまむと、しっとりとした断面が現れた。真っ白で綺麗な脂身の層がシルクのように滑らかで、その間に挟まれた淡いピンク色の肉がまるで高級なロースハムのようだ。繊維はほろほろとほどけ、箸を入れるだけでしなやかに裂けていく。


「ユート君、これもかけて食べてね。」


そう言われて目の前に置かれたのは、すり鉢のような皿に溜まったオレンジ色の粘性のある液体。


「手作りのニンジンドレッシングだよ。」


カエデさんがニカーっと笑う。玉ねぎとニンジンを細かくミキサーで粉砕し、オイルと酢と醤油を混ぜ合わせて作るらしい。ドレッシングをかけた途端、ふわっと立ち上る甘みと酸味が混じった爽やかな香りが、食欲をさらに刺激する。


まずはチャーシューをそのまま口に運ぶ。


──噛んだ瞬間、驚くほど柔らかい。


しっとりとした肉質が舌の上でほぐれ、じゅわっと広がる旨み。脂身は驚くほど軽やかで、噛むたびに上品なコクが溶け出す。醤油と香辛料のバランスが絶妙で、噛みしめるたびに深みのある味わいが押し寄せてくる。


次に、ニンジンドレッシングをまとわせたベビーリーフとチャーシューを一緒に口に運ぶ。


シャキッとした葉の歯ごたえに、ドレッシングの甘酸っぱさが絡み、そこへチャーシューの濃厚な旨みが合わさる。口の中で次々と味の層が広がり、絶妙なコントラストを生み出す。ドレッシングのほのかな甘みが、チャーシューの塩気と絶妙に調和し、まるで高級フレンチの前菜のような完成度の高い味わいになっている。


箸が止まらない。ベビーリーフのフレッシュさ、プチトマトのジューシーな酸味、そしてチャーシューの芳醇なコク。ひとつひとつが際立ちながら、すべてが一体となって口の中を満たしていく。


気づけば、皿の上のサラダとチャーシューはすっかり空になっていた。


俺は、自炊を6年やってきて料理がそこそこできるかと勘違いしていた。考えを改めよう。こんなにレベルが高い人がゴロゴロいるんだ、2度と「趣味は料理です」なんて言うのはやめよう。


「ユート君はすっごい美味しそうに食べるね。けど、メインのパンも早くしないと冷めちゃうよ?」


レンにそう言われ、目の前に置かれた真っ白な出来立てのあんぱんに視線を落とす。ごまが軽く振りかけられ、こんがりと焼き色がついた部分が香ばしく輝いている。手に取ると、ほんのり温かく、指先がふわっと沈み込むほどの柔らかさだ。


ひと口頬張る。


──外はサクッ、中はふわっ。


フライパンに押し当てられた上辺と底辺はまるで焼きたてのクロワッサンの層のようにパリッと香ばしく、側面は雲のようにふわふわでしっとり。そこに滑らかなこしあんが絡み、口の中でゆっくりととろけていく。


甘さは控えめで、それでいてコクが深い。あんこの優しい甘みが広がるたびに、もっちりとしたパン生地がじんわりと包み込み、噛むたびに至福のハーモニーが奏でられる。温かいあんこが舌の上を滑り、パンの香ばしさと見事に調和する。


──たまらない。これはもう、ただのあんぱんではない。小麦とあんこで作られた芸術だ。


そして次は、白パンだ。


さっきのサラダにかけたニンジンドレッシングを、たっぷりとつけて食べてみる。


ふわっ、もちっ。


噛んだ瞬間、白パンのほんのり甘い香りが広がる。そこに絡むのは、オイルのコクと酢の酸味が絶妙に溶け合ったニンジンドレッシング。オレンジ色の滑らかな液体が、白パンの繊細な生地にじゅわっと染み込み、噛むたびにほのかな酸味と甘みが弾ける。


──うまい。


これも絶品で、あまりの衝撃に脳がニューロンごと全て弾けるかと思った。


この美味さ、合法で良いのか?

何か薬物でも入っているんじゃ無いのか?


そう思わずにはいられないほど、異次元の美味しさだった。


どうなっているんだこの空間は。ここはもしかして現実ではなく天国か?

それか、もしかして今日俺は死ぬのか?

人生の全ての運を使い果たしたのでは無いかと思ってしまうくらい、今の俺は幸せで満たされている。


最後にもう一杯、ミネストローネをおかわりする。

スープを飲み干すたび、胃の奥からじんわりと満たされていく感覚が心地いい。


気づけば、みんなも名残惜しそうにカップを傾け、食後のコーヒーを楽しんでいた。


湯気の立つカップを手に取り、ゆっくりと口をつける。

苦味とともに広がる深いコク。ほんのり酸味のある後味が、食事の余韻を締めくくるように舌の上に残る。


ふと時計を見ると、夜の6時に集合したのに、もう既に10時を回っていた。

楽しい時間は、いつもあっという間だ。


「そろそろお開きかな。」


レンがそう言い、みんなも名残惜しそうに席を立つ。片付けを手伝いながら、レンたちと玄関へ向かった。


「ユート。」


背後から名前を呼ばれ、振り向くと、ハルキさんが紙袋を片手に立っていた。


「これ、貸すよ。良かったら読んで。」


差し出された袋の中を覗くと、びっしりと詰まった12冊の本。

タイトルを見て、思わず息を呑んだ。


「えぇー!良いんですか!?しかも俺が三国志の作家で一番好きな北方謙三さんのシリーズじゃないですか!」


まさかのラインナップに、テンションが跳ね上がる。

近所の図書館に行くたびに、『どうして全巻揃ってないんだ…』と嘆いていたことを、覚えていてくれたのか。


「あの、いつまでにお返ししたら良いですか?」


「あー、俺、全部3周は読んでるから、好きなだけ時間をかけて読んでいいよ。」


ハルキさんは軽く笑いながら言った。


──何だろう。この、心がじんわり温かくなる感じ。


楽しい食事、会話、美味しい料理、心遣い。

何でもない夜だったのに、今までで一番幸せだった気がする。


俺を襲った茶色い大型犬のモココも、今となっては妙に愛しく思えた。


こうして、駐車場でカエデさんやスミレ先生、レン、そしてトウカちゃんと別れを告げる。


「またね!」

「気をつけて帰れよ!」

「次も絶対来なさいよ!」


それぞれの声が雨のしとしとと降る夜に溶けていく。車のドアが閉まる音、エンジンのかかる低い唸り、遠ざかるテールランプの赤い光が、今日という夜の終わりを告げていた。


俺は、ふっと息を吐く。


──誘ってもらって、そして参加して、本当に良かった。


最初は少し緊張していたが、終わってみればこんなにも楽しかった。

美味しい料理に、気の置けない会話、予想外のプレゼントまで。

この夜のすべてが、心の奥にじんわりと温かく広がっている。


しかも、来週好きな子と話すネタも増えた。

「先週さ、手作りのあんぱん食べたんだけど全然上手に作れなくてさ…」


「やっぱりミネストローネは、じっくり煮込んだ方が美味いんだね。」


想像するだけで、自然と口元が綻ぶ。


──俺は今、最高に幸せだ。


ぽつ、ぽつ、と雨粒が肩を濡らす。


ハッとして傘を広げ、小雨の降る夜道を歩き出した。

アスファルトに反射する街灯の光が、水たまりの上で淡く揺れる。

足取りは軽く、気分が弾む。


スキップしたくなるほどに。


傘をくるりと回しながら、小さくステップを踏む。

冷たい雨さえ、今の俺には心地よかった。



—-


その連絡は、パン教室の3日後、デートの4日前に届いた。


スマホが震える。

通知を見ると、彼女からのメッセージだった。


「ユートさん、今週末なんですけど、どうしても忙しくて。ほんと申し訳無いんですけど、パスさせてもらっても良いですか?」


指先が止まる。


「気分転換にいつものサークルには行くと思うので、その休憩時間でお話しできたら嬉しいです。」


一瞬、頭が真っ白になった。


確かに、前もって伝えていた。

「忙しかったら直前でも良いからいつでも断ってね!君の都合を最優先にして欲しい!」


でも──。


本当に断られるとは。


手のひらがじんわりと汗ばんでくる。


スマホを持つ手に力が入る。

もう一度、メッセージを読み返す。


──代替案が、ない。普通、相手に好意があるなら、どうしても忙しくて予定を断る時、別の日に会えないかと思うだろう。もし仮にユートが好きな人に食事を誘われたら、上司の首をへし折ってでもその予定を優先するだろう。


「今月は忙しいんで、来月はどうですか?」

「また落ち着いたら連絡しますね!」


そんな一言もない。


ただ、「パス」──その言葉が、やけに重く感じられた。


喉の奥が詰まるような感覚がする。

さっきまで温かかった心が、一気に冷えていく。


目を背けようとしても、確定した現実がユートな首を掴み、正面に書いてある文字を読ませる。


終わったんだ。


2年間、ずっと片思いをしてきた。

好きだと伝えたことはないけれど、少しずつ距離を縮められたらと思っていた。

だけど、それはただの錯覚だったんだ。


──まだ、可能性に賭けたかった。


「気分転換にサークルには行く」


その言葉に、かすかな望みを託そうとした。

休憩時間に話せるなら、まだチャンスはあるかもしれない。


でも、その日から彼女は、俺と目を合わせなくなった。

話しかけても、笑顔はぎこちなく、会話はすぐに途切れた。


次第に、俺の方から話しかけることもなくなった。


そして、確信した。


これは、もう終わっているんだ、と。


ガシャン!積み上げたジェンガが崩れるような、そんな脆くて高い音が心の中で響いた。


あんなに料理や好きな本の話をして、お互いにお気に入りの本を交換して、人生観や悩んでいることを打ち明けて。関係が壊れないように慎重に石橋を叩いて距離を詰めていたつもりだった。


けど、ダメだった。


4月末、世間はゴールデンウィークに突入する。街中が賑やかに浮き立って、皆が楽しそうに連休を迎える中、ユートはその喧騒から取り残されているような気がしていた。


ひょっとしたら、あのデートでうまくいったら、ゴールデンウィークも一緒に過ごして、もっと思い出を作れたんじゃないか。

でも、そんな希望はすぐに消え去った。彼女からのあの冷たいメッセージが、まるで真冬の窓ガラスのように立ち塞がった。


「こんなことになるくらいなら、友達のままでいた方が良かったのか。」

心の中でつぶやく。

勇気を振り絞って告白するべきだったのか、それともこのまま何も言わずにいた方が良かったのか。

もし、好きだと言わなければ、こんなに辛い思いをしなくても済んだのだろうか。

「こんなに悲しい気持ちになるくらいなら、人を好きになんてなりたくなかった。」

自分の心を責めても、心の中の痛みは消えない。


それでも、心の中で次第に消えかけた感情を抱えながらも、ふとこう思うことがある。

「いっそのこと、出会わなければ良かったのに。」

その思いが、ユートの胸の中で深く沈んでいく。


そして、ユートはその思いを抱えながら、リビングの床に崩れ落ちる。

周囲の景色が徐々に灰色に染まるように感じた。

雨に濡れた捨て猫のように、ただひたすら泣き続けた。

昨日まで、パン教室でみんなと過ごした温かい時間が、今はまるで遠い夢のようだ。


「あれは夢だったのか?いや、こっちが悪夢だろ?」


涙が止まらない。

せめて、あの時の幸せな瞬間が夢であってくれればと思うが、冷たい現実がそれを許さない。


「早く覚めてくれよ!」


叫んでも、誰も答えを返してくれない。


こうなるから、人を好きになりたくないんだ。同性でも異性でも、いや家族だろうが関係ない。人はいつか必ず死ぬ。誰かを好きになると、喧嘩や死別、それか今回みたいにフラれて関係が終わったら、その分襲いかかる絶望は大きくなる、


自分の心と人間関係は、大地と樹木のようなものだ。辛い時苦しい時に寄りかかることができるし、風雨を凌いだり果物をもらうこともできる。だから、どうでも良い表面上だけの友達や同僚のような雑草だらけだけの人生だと、草むしりで人生が終わってしまう。

その一方で、その大切な関係を失うと、巨木が根こそぎひっくり返ってその下の柔らかい土がむき出しになる。


だから今、ユートのむき出しの心はこんなに傷ついている。


では、心の拠り所が少ないとどうなる?メンヘラやDV気質のパートナー、毒親、ブラック企業や友人に見せかけた敵に生殺与奪を委ねることになる。だから、仕事と家の往復だけでは精神が病んでしまう。


ならば、全ての人間関係を断つのはどうだろう。人と会わないなら、別れる悲しみも無い。だが、そんな人生は代わりに幸せも放棄することになる。全ての植物が無い砂漠を生きて何が楽しいだろうか。


ユートの人生も、「自分はこの瞬間のために生まれてきたんだ。」と思えるくらい幸せを感じた瞬間は、いつだって隣に大事な人がいた。


家族で旅行している時、自分が作った料理を両親が美味いと言ってくれた時、友達と公園で馬鹿みたいにはしゃいだ時、中3の放課後くっつき虫を投げ合って遊んだ時、ユートの自室で「UNOって言ってない!」と友達に指摘して「ユート反応早すぎ笑」とみんなで腹を抱えて笑った時。


つまり、人生とは諸行無常で会者定離。出会いがあれば必ず別れがある。どれだけ苦しくても、人間関係を避けてはいけないということだ。今日スポーツサークルが終わったらその後交通事故でユートが死ぬかもしれない。今回のゴールデンウィークが終わった後、両親が心臓発作で死ぬかもしれない。友達が海外移住してそのまま疎遠になるかもしれない。


だから、今回会う時が最後かもしれないと思って、日頃からありがとうや感謝を伝える。


そう決めていたはずなのに。今は、誰にも、何にも感謝できない。


ゴールデンウィークが始まると、ユートは地元の友達とキャッチボールをして過ごした。

ただの遊びだったが、少しだけ気が紛れた。

空を見上げると、雲が広がり、どこか遠くの景色がぼやけて見える。 地球から見たら、俺の悩みなんてちっぽけなものだよな。けど俺の世界では、あの子が俺の全てだったんだけどな。

無理に笑顔を作ろうとしたけれど、心の中は依然として重かった。


キャッチボールの合間に、親友らが声をかけてきた。


「おいユート、大丈夫か?」


その言葉が、少しだけユートを楽にさせた。

他の誰かに気持ちをぶつけることができるだけでも、少しだけ楽になった。

それから、ひたすら慰めてもらった。

言葉にはならない慰めが、ユートの心に染み込んでいく。


その時、ユートはほんの少しだけ、心の中の暗い雲が晴れるのを感じていた。


ゴールデンウィークの間、ユートは親友たちから、大して仲良くなかった元同級生らの近況を次々と聞くことになった。


「ユート、聞いた?〇〇君って結婚したらしいよ。」


その言葉が耳に入るたびに、心の中で何かがぎゅっと締めつけられる。どうしても、他人の幸せを素直に喜ぶことができなかった。


その結婚した相手が、ユートにとっては特に気になる存在だった。話を聞いたところ、大学時代にバドミントンでペアを組み、男女混合ダブルスの地区大会決勝に進んだという。


「男女ダブルスで決勝。両想いか、いいな。俺は一生男子シングルス確定だよ畜生め。」


そんな気持ちが自然に込み上げてきて、口に出すことすらできなかった。他の誰かの幸せを聞くたび、心がどこかで自分を責めるようだった。


心の奥底でこぼれるその言葉が、頭の中をぐるぐると回る。自分には一生、好きな子と初デートした3ヶ月前のような、あんな幸せな瞬間は訪れないような気がしていた。今、ユートは自分をただただ孤独だと感じていた。


他人の幸せを素直に喜べないほど、ユートの心は沈んでいた。自分の中で何かが壊れてしまったかのような感覚が、日々強くなっていった。そうか、ここが地獄か。知らなかった、地獄って死ななくても行けるんだ。


「早く人類滅亡すれば良い、地球が早く爆発すれば良いのに。」


その言葉が、ユートの中で自然に漏れた。何もかもが無意味に感じられて、全てが無駄に思えた。彼女は、ユートにとってかけがえのない存在だった。彼女がどれほど自分を救ってくれたのか、今さらになって思い知らされる。


彼女はまるで太陽のような存在だった。ユートがどんなに暗いトンネルの中を歩いていても、彼女の存在は心に光を灯してくれていた。


「俺に光を与えてくれた…」


だが、その光はもう届かない。ユートは自分の手のひらを広げ、何も掴むことができなかった。彼女には、もう何も返せない。 俺が転んだ時に手を差し伸べてくれた。だけど、君が転んだ時、俺の手を君は必要としていない。


その思いが胸にずしりと重くのしかかる。彼女の心にはもう自分の居場所はないのだと、何度も思い知らされた。ユートの心はその現実に押しつぶされるように感じ、胸が痛んだ。 ポッカリと空いた胸の空洞からは、ヒョ〜とリコーダーのような、間の抜けた高音が聴こえてくるような気がした、


「こんな現実、耐えられない。」


ユートは無意識に涙がこぼれそうになるのを感じたが、必死にその涙をこらえた。だが、我慢するほど悲しみが心の器を満たし、表面張力を突破した涙が頬を伝った。


ユートは、どんよりとした空気の中、携帯電話の画面をぼんやりと見つめていた。心は重く、どんな言葉も心に響かなかった。ただ、時折、周囲の音がかすかに耳に入る程度で、目の前の現実が遠く感じられる。


LINEのキープ機能には、彼女との楽しかった会話のやりとりが保存されていて、心臓が握りつぶされたかのような圧迫感を覚えた。


辛い時、苦しい時、楽しかったやりとりや「悩みを聞いてくれてありがとう」と言われたこと、「本当は食パンを作りたかったんですけど失敗しちゃって…。」ともらった手作りの丸パンを納めた写真を無意識に追いかけてしまった。不幸になると分かっていながら、過去の幸せな思い出から抜け出せない。前を見ることができない。そんな自分の弱さに絶望した。


その時、突然、レンからのメッセージが画面に表示された。


「ユート君、元気?今度俺の家でカレーパン作らない?」


その瞬間、ユートの胸にわずかな希望が湧き上がる。レンの言葉が、ほんの少しだけ心の隙間に入り込んだ気がした。あの子との関係は途絶えた。だから、パン作りをする理由なんて、もうどこにもないと思っていた。


しかし、レンの一言に反応してしまった自分に気づく。理由なんて、もはやどうでもいい。ただ、一人でいるのが辛くて、誰かと一緒に何かをして過ごすことで、この閉塞感から逃れたかったのだ。


すぐに指が反応し、メッセージを返した。


「面白そうですね、行きます!」


無意識に即答していた。心の奥底では、また一歩踏み出すことで少しでも前に進めるのかもしれないと思ったから。けれど、同時に心のどこかで、これが新たな罠だとも気づいていた。レンの提案には、何かしらの意図があるのかもしれない。しかし、その疑念も一瞬にして消え去った。


ユートは、蛇が大口を開けて待っていることに気づかずに、その誘いに乗った。


静かな部屋の中で、ユートの心は静かに震えていた。しかし、今はもう、どこかで誰かと繋がりたいという気持ちが、他のすべてを押し流していた。


—-


ユートは車のエンジンを切ると、ぼんやりと窓の外を見つめた。ここがレンの家とその駐車場か。


正直、今まではレンの誘いを断ることのほうが多かった。だけど今日は違う。カレーパンを作るという、これまで考えたこともなかった体験が単純に興味を引いたのもあるし、それ以上に、一人でいるのが耐えられなかった。


アパートの入り口に立ち、軽く深呼吸する。ノックをすると、すぐに内側から声がした。


「開いてるよ!」


このセリフ、どこかで聞いたような……そんな既視感が胸をよぎる。まさか、このドアの向こうに、また巨大な茶色い犬が待ち構えているなんてことはないよな?少し不安になりながらも、意を決してドアノブに手をかけた。


扉を開けると、目に飛び込んできたのは整然と片付いた2LDKの部屋。暖かみのある照明が落ち着いた雰囲気を作り出している。


「ユート君、お疲れー!」


そこには、何度も見慣れたレンの笑顔があった。その瞬間、さっきまでの不安がバカバカしく思えた。なんだ、今日はただ、気の合う友人と料理をするだけじゃないか。


「手、洗ってきてねー。」


レンに促され、ユートは洗面所で手を洗うと、キッチンに戻る。そこにはすでに、材料がズラリと並べられていた。


「さ、カレーパン作るよ!」


レンは楽しそうにフードプロセッサーをセットしながら、冷蔵庫から次々と食材を取り出した。ニンジン、玉ねぎ、豚こま肉、小麦粉……どれも見慣れたものなのに、パンの具材として並べられていると新鮮に感じる。


「この鍋ね、密閉性が高いから、野菜の水分だけで汁物が作れちゃうんだよ。」


レンが誇らしげに語る。確かに、前回のパン教室でも見た鍋だ。ユートは鍋の表面を指でなぞりながら、「ほぉー。そんなに違うもんなんですね」と感心する。


フードプロセッサーのスイッチが入ると、刃が回転する音とともに、玉ねぎが細かく砕かれていく。


「じゃあ、まずは具材を炒めようか。」


レンの明るい声が響く。こうして、ユートとレンのカレーパン作りが始まった。


フードプロセッサーの唸る音が、狭いキッチンに響く。


ニンジン、玉ねぎ、豚こま肉、そして市販のカレールゥまでもが次々と粉砕され、細かい粒となって容赦なく鍋へと放り込まれていく。野菜の甘い香りと、スパイスの刺激的な匂いがゆっくりと混じり合い、ユートの鼻をくすぐった。


「効率化のために、もう一つのフードプロセッサーも使うよ。」


そう言いながらレンは引き出しを開けると、全く同じ機種のフードプロセッサーを取り出した。


「え、もう一個持ってるんですか!?」


「そりゃあね。料理の効率は、道具の数と質で決まるから。」


レンは当然のように答えると、今度は強力粉とベーキングパウダーを投入し、生地を練り始めた。フードプロセッサーの刃が回転し、小麦粉が徐々にまとまり、もっちりとした生地へと変わっていく。


ユートはレンの動きをじっと観察していたが、やはり手慣れている。パン教室の時もそうだったが、包丁さばきも料理の知識も半端ではない。


「レンさん、やっぱ料理が手慣れてますねー。」


「料理好きだからねー。スミレ先生ほどじゃないけど、友達を呼んで、料理の勉強会とか俺の家でやることもあるよ。」


「えー!モチベーション高いっすね。そりゃ料理上手くなるわ。」


感嘆の声を漏らすユートの横で、生地がしっとりとしたまとまりになりつつあった。一方、フライパンでは、豚こま肉のミンチがじっくりと炒められ、その脂を吸った玉ねぎとニンジンが飴色へと変化していく。そこに粉砕されたカレールゥが加わり、全体がとろりとした一体感を持ち始める。


「ちなみに、どうして今日はカレーパンなんすか?この前みたいにあんぱんの練習とかかなって思ってたんすけど。」


「俺はカレーパンが大好きだから!笑 たらふく食べたくて修行しているんだ笑」


「カレーパンが好きなのは同意ですが、自分で作りたいって人と会ったの俺初めてですよ笑」


2人でワイワイ楽しみながら料理を続ける。


「よし、いい感じに生地はできて、タネもできたな。……って、やば、カレーパンのパン粉足りないわ。」


レンが棚を開けて確認すると、わずかに残ったパン粉が底をつきそうだった。


「今から近くのコンビニに買いに行こう。」


「了解っす。」


そう言われ、ユートは軽く手を拭いてレンの後を追った。


5月上旬の空気はポカポカとしていた。駐車場に停められたレンの車に乗り込むと、シートのどっしりとした感触が背中に伝わる。エンジンがかかり、穏やかなアイドリング音が響く。


「パン粉だけだから、すぐ買って戻ってこよう。」


レンはそう言いながらアクセルを踏んだ。照りつける太陽に目を細めながら住宅街を抜け、車は静かに田舎の小道を進んでいった。


コンビニに入ると、真っ直ぐにパン粉の袋を手に取り、レンは何の迷いもなくレジへと向かった。ユートはその後ろに立ち、支払いを待つ。


「今日はいい天気ですね!」


突然、レンがレジの向こうにいる店員のおばさんに話しかけた。


ユートは思わずギョッとしてレンの横顔を見つめる。


おばさんは少し驚いたように顔を上げたが、すぐに笑顔を見せた。


「そうですねぇ、でも夜は少し肌寒い日があるから、何枚服を着るか難しいですよね。」


「確かにそうですね。けど、このくらいの気温が一番過ごしやすくないですか?夏が近づいてる感じがして!」


レンはニコニコと笑いながら、軽快に話を続ける。おばさんもまんざらではない様子で、レジを打ちながら相槌を打っていた。


わずか数十秒のやり取りだったが、その場の空気がほんのりと温まるのをユートは感じた。


(……すごいな。)


ユートは財布を握りしめたまま、ただ圧倒されていた。


会計を終え、レンは軽く会釈して「ごめんお待たせ、行こうか。」と車のドアを開けた。


ユートはレンの後について車に乗り込みながら、思わず聞いてしまった。


「お知り合いなんですか?」


あまりにも自然な会話だった。何度も来ている店の常連同士にしか見えなかった。


「いや?初対面だよ?」


「……マジすか。」


衝撃だった。


この人はやはり、根っからの陽キャだ。俺には眩しすぎる。


ユートはシートベルトを締めながら、ふと考える。あんな風に、初対面の人に気軽に話しかけるなんて、怖くて自分には絶対できない。


車のエンジンがかかり、レンはスムーズにアクセルを踏んだ。夜の街を滑るように進みながら、ふとユートの方を見た。


「それを言ったら、ユート君の方こそめちゃくちゃ好奇心旺盛で質問も上手だよね。元々備わっていた能力なの?」


「え?」


まさか自分が社交的だと言われるとは思っていなかった。


「いや、俺はただ……好きなことについて話すのが楽しくて。」


「それってすごいことだと思うよ。」


レンは信号待ちの間、ちらりとユートに視線を向けた。


「俺は誰とでも話せるけど、話を深掘りするのは苦手なんだよね。ユート君みたいに、相手が『話したい!』って思うような質問ができるのって、才能だと思うよ。」


ユートは助手席の窓の外をぼんやりと眺めた。


(……そんな風に考えたことなかったな。)


レンにとっての「普通」が、自分にはとても難しくて。

自分にとっての「普通」が、レンにはすごいことに見えている。


なんだか、くすぐったくて不思議な気分だった。


車内はエンジンの低い振動音だけが響く。ユートは助手席でパン粉の袋を膝に乗せながら、レンの言葉を反芻していた。


「それってすごいことだと思うよ。」


不意に褒められて戸惑ったが、続くレンの問いにユートは正直に答えていた。


「俺って、幼少期はすごい人見知りで、毎日ネットで友達の作り方とか検索してる子どもでしたよ。それから、人の目を見て話すとか、相手の名前を覚えるとか……クラスの人気者の行動を真似したり、心理学の本の知識を実践してるって感じです。」


ぽつりぽつりと語るうちに、過去の自分が蘇る。教室の隅でひとり本を読んでいたあの頃。どうすればみんなの輪に入れるのか、必死に検索していた夜。


隣の運転席で、レンが大きく頷いた。


「分かる、俺も元々人見知りだったから。」


「え!」


ユートは思わずレンの横顔をまじまじと見つめる。


「全然そうは見えないです!」


「俺も自分の性格を変えたくて、色々行動したからね。」


赤信号で車が停まり、レンは片手をハンドルに置いたまま、軽く肩をすくめた。


「今のユート君が人見知りに見えないのと同じように、俺も昔より成長したってことなのかな。」


信号が青に変わると、レンは再び車を発進させた。


ユートは驚きながらも、どこか安心していた。

まさかレンも、努力して今の自分を作り上げてきた人だったとは。


(この人は、最初から眩しいわけじゃなかったんだ。)


少しだけ、親近感が湧いた。


車がアパートの駐車場に滑り込んだ。エンジンが止まると、田舎の静けさが戻ってきたような気がした。


「さて、カレーパンの仕上げしようか!」


レンが軽快に言い、ユートも「はい!」と答えながら車を降りる。


部屋に戻ると、2人は再び手を洗い、うがいを済ませてキッチンへと向かった。

パン粉の袋を置きながら、ユートはさっきの会話を思い返していた。


(俺も、変われるのかな……?)


そんな考えを抱えながら、カレーパン作りの続きを始めた。


パチパチと油が跳ねる音が、沈黙を埋めるように響いている。


「ユート君はさ、前回のパン教室の時、アムウェイの道具を使うって聞いて、怖くなかった?」


唐突にアムウェイの話題になり、心臓が大きく跳ねた。


「あー、それは少し思いましたけどね。」


静かに笑う。


「でも、車や包丁と同じで、大事なのはその道具の使い方なので。開発された商品に罪はないし、何も思っていませんよ。」


ジューッとフライパンの蓋越しに肉と野菜の焼ける音が聞こえる。


「そうか、ユート君は思考の柔軟性がすごいね!」


レンの声は明るかった。


「ちなみに、前回のパン教室と今回使っているバランスオイルも、カレーパンを揚げているフライパンもアムウェイの商品なんだよ!」


パッと弾けるような笑顔がこちらに向けられる。


「……そうなんですね。」


ユートは、引き攣った笑顔を返すのが精一杯だった。


(どうしよう。一番嫌な返事が返ってきた。)


胃のあたりがギュッと重くなる。


(なんで、アムウェイの話を深掘りするんだろう。この人、どんどんきな臭くなってきたぞ。)


けれど、表情に出してはいけない。変に警戒心を出せば、逆に何かを誘発するかもしれない。


油の中で、きつね色になったカレーパンがぷくっと膨らむ。レンは菜箸でそれをひっくり返しながら、ぽつりとつぶやいた。


「ユート君みたいに現実をしっかり見据えてる人って、俺の周りに少なくてさ。」


カレーパンを見つめるその横顔は、少し寂しそうだった。


「だから、もっと深くお話ししてみたくて今日は呼んだんだ。」


チリ、と油の弾ける音がやけに大きく聞こえる。


「実は俺の実家、結構貧しくてさ。」


静かな声だった。


「だから、幸せはお金じゃ決まらない、みたいな綺麗事が昔から嫌いなんだ。」


(……この話題、どこに繋がる?)


不穏な予感が背筋を這う。だが、レンの言葉には単純に共感できる部分もあった。


ユートは考える。


(アムウェイの話題を避けるために、ここはお金の話に乗っかったほうがいいか。)


「分かります、俺も綺麗事はめっちゃ嫌いです!現実見ろよって思います!」


思わず、少し強めの口調になった。


「だよね。」


レンが微笑む。


「ユート君とは、良い話ができそうだ。」


その笑顔が、なぜか今までで一番、見てはいけないもののように感じられた。


「俺は学生時代に野球をやってたって、前に話したっけ?」


レンがぽつりと切り出した。


「けど、高一の時に親が離婚してさ。部室の誰も使わないボロボロのグラブを漁って練習してたんだ。」


ジュワッ。カレーパンが油の中で踊る音が、異様に大きく聞こえる。


(……え?)


ユートは反応できなかった。口を開こうとしたが、すぐに次の言葉が降ってきた。


「それに、ママさんバレーのメープルに俺の一歳下の弟を連れて来たことあるよね。」


記憶の中に、ほんの一瞬の映像が蘇る。バレーコートの端で、レンの隣にいた少年。


「彼は俺の父親違いの弟なんだ。」


(……マジかよ。)


開いた口が塞がらない。レンは、何でもないことのように語る。


「それで、母は今彼氏と同棲中だけど結婚はしないって言っている。しがらみがない方が良いし、俺もその方が良いと思ってるけどね。」


(……レンさん、そんな事情があったのか。)


気づけば、ユートは息を詰めていた。


思い出すのは、パン教室でサエさんに伝えた言葉。


事実は小説よりも奇なり。


自分は自分の人生という映画しか見ていない。他人の人生なんて、想像すらしていなかった。


「だから、社会人になってからもお金の勉強とかしていて、ストイックに生きるユート君の生活をもっと知りたかったんだ。」


レンは静かに言った。


ユートは何か言わなければと思うが、言葉が見つからない。


「レンさん……」


それしか出てこなかった。


レンは小さく笑った。


「さあ、湿っぽい話をしちゃったね。」


軽く手を叩いて、揚がったばかりのカレーパンを油から引き上げる。サクッとした音が響く。


「カラッとカレーパンが揚がったみたいだから、サラダをササっと作って食べようか!」


気づけば、時計の針は午後1時を回っていた。


ユートは11時にここへ来たはずだったのに。時間が溶けたような感覚だった。


レンはほんの3分ほどで、驚くべきスピードでサラダを仕上げた。


薄切りにされたマッシュルームが、瑞々しいレタスの上にふわりと舞い降りる。そこにちりめん雑魚がたっぷりと振りかけられ、最後に香り高いポン酢が全体に回しかけられた。


シャッ、シャッ、シャッ……


菜箸が軽やかに動き、全ての具材が絶妙に絡み合う。ポン酢の酸味がキノコの風味を引き立て、ちりめん雑魚の香ばしさがアクセントになった。


「さあ、好きなだけお食べ!」


レンの言葉に促され、ユートは出来立てのカレーパンに齧りついた。皿には20個弱ほど揚げたてのカレーパンが山盛りになっている。半分くらいは不揃いな形だが、これは多分レンが作ったやつで、綺麗な形はユートが作ったやつ…ということにしておこう。


そんなことよりも、まずは豪快に一口。


ザクッ——ッ!


衣が砕ける音と同時に、熱々のカレー餡が口の中に溢れ出す。


(……な、なんだこれ……!)


まるで熟成されたワインのように口の中に広がるカレーの味わいは、何度も味わいたくなる深みがあり、時間をかけて熟成されたかのようだ。たった2時間で出来たとは思えない仕上がりだ。


カレーのスパイスが舌の上で弾け、じんわりとした甘みとコクが広がる。フードプロセッサーで細かく砕かれた具材が驚くほど滑らかで、まるでカレーソースそのものをパンに包み込んだような一体感。


一口目で、完全に心を奪われた。


「……これ、本当に自作したんですか?」


「さっき一緒に作ったじゃん笑」


「これは…こんなに美味いカレーパンを作れるようになったら、もう市販のカレーパンは食えないっすね…。」


「でしょ?笑」


驚きながら、ユートは次の一口へと手を伸ばす。だが、口の中をリセットするためにサラダにも箸をつけてみることにした。


ポン酢の爽やかな香りが鼻をくすぐる。


シャキッ。


レタスの歯ごたえと、マッシュルームのふわっとした食感が口の中で広がる。


カレーパンで高まった体温を、サラダのさっぱりとした味わいが一気に落ち着かせる。


(やばい、これも美味すぎる……。)


なぜ、たった3分でこんなに完成度の高いサラダができるのか?


思い出した。この食材の組み合わせがまさに旨味の黄金比だからだ。


食べ物は、魚介類のイノシン酸、キノコ類のグアニル酸、海藻類のグルタミン酸。この三つのアミノ酸が混ざることで、舌がより強く旨みを感じ取るようにできている。


だからこそ、日本の味噌汁には海藻(昆布)、キノコ(しめじ)、魚介(煮干し)が使われるし、和食は世界中で「旨味の科学」として高く評価されている。


このサラダも同じだ。


マッシュルームのグアニル酸、ちりめん雑魚のイノシン酸、そしてポン酢の柑橘系の酸味が見事に調和し、最高のハーモニーを奏でている。


(レンさん、恐るべし……!)


「このサラダ、本当に自作したんですか?」


「さっき俺がサラダを作ってるの、ユート君は食器を洗いながら見てたでしょ?笑」


「そうですけど、あまりにおいしさが現実離れし過ぎていて…。」


呆然としながらも、食べる手が止まらない。


気づけば、ユートは無心でカレーパンとサラダを交互に食べ続けていた。


外はザクザク、中はとろりとしたカレーパン。


シャキシャキでさっぱりとしたサラダ。


(うまい……うますぎる……!)


至福の時間が、ただただ流れていった。


レンがホットコーヒーを淹れ終わり、透明なグラスを2つ持ってリビングに戻る。グラスの中からは湯気が立ち昇り、温かさを感じさせる。しかし、何か不思議なことがあるようだ。ユートが疑念の目を向けると、レンは軽く笑いながら言った。


「グラスなのに熱いものを淹れて大丈夫なんすか?」


レンは一瞬も迷わず、グラスを指で指示した。「ふふ、触ってみなよ。」


少し戸惑いながらも、ユートはグラスに手を伸ばす。温かい湯気が立ち上る中、指先がグラスに触れると、驚くべきことが起こった。湯気を感じるにも関わらず、グラスの外側はまったく熱くない。予想とは裏腹に、指先は何の熱も感じなかった。グラスの表面に触れると、ほんのり冷たさも感じるほどだ。


「グラスの内側と外側に空気の層がある?」


レンの説明に、ユートは驚きの声を上げる。内側と外側に空気の層があって、外の温度が指先に伝わらない仕組みになっている。それが温かい飲み物でもグラスが割れず、熱さを感じることなく飲める理由だ。結露を防ぐ効果まであるとは、まさに革新的だ。


「ユート君、正解!この工夫が熱を指先に伝えないし、熱い飲み物でもグラスは割れない。しかも冷たい飲み物の結露を防ぐんだ。最高じゃない?」


レンが誇らしげに説明すると、ユートはただただ感心するばかりだ。「すごい、こんなものもあるんすね!」


「それも、アムウェイで売っているよ。」


その言葉で、再び静かな沈黙が部屋を包み込む。ユートの心の中で、アムウェイに対する不安が再び膨れ上がる。しかし、それを表に出すことなく、レンの言葉が続く。


「ユート君は、今の収入に満足してる?」


—-


その一言で、レンが本題に入ったことを感じた。ユートは少し躊躇しながらも、その質問に向き合わなければならないという思いが強くなる。


「ユート君はさ、将来が不安じゃない?今日君を僕の家に呼んだのはね、一緒にお昼ご飯を食べたかったからじゃないよ。本当はね、僕がやってるビジネスの話がしたかったんだ。」


午後一時半。やられた。俺はまんまと罠にかかった。この人は、俺を勧誘するためだけに一年前から俺に近づいて来たんだ。


「ユート君、君は今の収入に満足しているかい?」


どうしよう、何をしたら正解なんだろう。気がついたら、レンの目はバキバキに血走っていて、こちらをギョロリと見つめている。

いつもは目がクリッと大きなイメージだったが、今はまるで出目金やチョウチンアンコウのような不気味さを感じる。なんでそんなに目がイッてるんだ。彼は俺が知らない間にレッドブルを5本ぐらい飲んだのか?


選択肢を考えよう。

•彼の話を聞き従う→アムウェイに勧誘され骨の髄までしゃぶり尽くされる。

ダメだ。

•真っ向から否定して罵詈雑言を浴びせる→包丁で刺された挙句フードプロセッサーでひき肉にされる。

ダメだ。

•速攻で荷物を持ち逃げる→これも悪手だ、車のキーも含めてリュックは彼の座っている方に置いてある。

•奇人変人のふりをして絶叫する→演技を続けられる自信がない。色々失うものが多い上に、近隣住民が警察でも呼んだら俺が悪者扱いだ。


ではどうする?適当に相槌をうって気持ちよくさせて「時間なので、用事あるので帰ります。」そうやって穏便に去ろう。家から出てしまえばいくらでもやりようはある。


返答に困っていると、レンは微笑みながら再び話し始めた。


「実は、この前のパン教室だけど、スミレ先生もハルキさんカエデさん夫婦もみんなアムウェイの会員なんだ。

フードプロセッサーも鍋もバランスオイルも、みんなアムウェイの商品なんだよ。」


何気ない口調で告げられたその事実は、俺の鼓膜を通り抜け、脳に届いた瞬間に不快なざわめきを生んだ。


「あと、俺の彼女のトウカもアムウェイの会員なんだよ。」


嘘だろ。そんな事実、聞きたくなかった。


俺の手がわずかに震える。乾いた喉がごくりと鳴る。


スミレ先生の幼馴染であるサエさんや、もう1人の若い女性はどうなんだ?

分からない。だが、少なくともあの場にいた8人のうち5人はアムウェイの会員だったということになる。


なんだよそれ。


考えれば考えるほど、体の内側から嫌な汗が滲んでくる。

俺以外の参加者は、みんなアムウェイばかり。


調味料も、調理道具も、全部アムウェイ。

パン教室で使われたあの道具も、鍋も、調理用油すらも、アムウェイの商品で揃えられていた。

スタッフもスポンサーもアムウェイ。


俺たちが美味しい美味しいと口にしたミネストローネも、サラダも、すべてアムウェイの提供でお届けされていたのか。


冷たい鉄の棒を喉の奥に突き立てられたような感覚がした。

これはもう、パン教室なんかじゃない。


「招待」なんかじゃない。勧誘だ。


これは、最初から仕組まれた場だったんだ。


要するに、俺は前からロックオンされていた。

アムウェイ経済圏に取り込むための”新規”として、餌として、ターゲットとして。


カモだと思われていたのか?

俺はそんなにチョロそうに見えたのか?


怒りが湧いてきた。

まるで 静かに燃え広がる油火事のように。

どんなに水をかけても収まるどころか、広がっていく怒り。


ドッと汗が噴き出てきて、脈打つたびに全身に熱が駆け巡るのを感じた。

あの楽しげな時間が、一瞬で不気味な罠へと変わったことへの嫌悪感。

全員が敵に思えてくる。


まるで蜘蛛の巣に絡め取られた虫のように。

俺はすでに逃げられない場所にいるのか?

いや、そんなことはない。


ここで何か言ったら、向こうは「誤解だよ」「そんな悪いものじゃないよ」と言ってくる可能性もある。


ゾッとした。


ここにいたらダメだ。

ここにいたら、俺は俺じゃなくなる。


俺は静かに息を整えながら、心の中で決意した。

次はない。

二度とこの連中とは関わらない。


ひとまず、できるだけ情報を引き出してやる。詳しく知れば、何か妥協点や分かり合えるところが見つかるかも知れない。それに、弱点が分かる可能性もある。


「トウカちゃんとマッチングアプリで出会ったって言ってましたよね?元から彼女も会員だったんですか?」


そう問いかけた俺の声は、自分でもわかるくらい乾いていた。


レンは、まるで日常の何気ない会話をするかのように、爽やかな笑顔で答える。


「いや、仲良くなってからアムウェイを紹介したよ。今はトウカも自分の友達を誘ってコミュニティを作っているよ。」


一瞬、言葉の意味を理解するのに時間がかかった。


……紹介?元々トウカもアムウェイの会員というわけでは無かったのか。

つまり、レンはマッチングアプリで知り合った彼女を、自分の恋人としてだけでなく、アムウェイの新規勧誘対象としても見ていたってことか?しかも、その子の友達までマルチ商法の道に引き摺り込んでいる。


俺はレンの顔を見つめた。

その表情には、罪悪感のかけらもない。


オオカミは知っている。獲物に最も効率よくありつく方法は、羊のふりをするだということを。


ユートは学んだ。最も恐ろしいものは、「相手に恐ろしいと思わせない」技術を持つもののことだ。レンは、この話をするために1年間ユートに近づき、一般人に擬態していたのだ。


俺の中で、何かが静かに弾ける音がした。

舐めやがって。こいつ、許せない。


「ハルキさんとカエデさんもアムウェイのコミュニティで出会って結婚したらしいよ。カエデさんのお姉さんやお母さんとかも元々アムウェイの利用者らしいし、結構そんなケースはあるよ。」


レンは当たり前のことのように言った。

まじか。

俺は息を飲んだ。


ハルキ夫妻も、最初からアムウェイの中で出会って、アムウェイを通じて関係を築いて、アムウェイの経済圏で家庭を作ったのか。友達を売るコミュニティで生涯の伴侶を見つけるだなんて、正気の沙汰とは思えない。


俺の脳裏に、パン教室での光景がよみがえる。

あの豪華なキッチン、丁寧なレクチャー、優しい笑顔、美味しい手作りの料理……。


全部、アムウェイだったのか。


ハルキ夫妻の穏やかな関係も、スミレ先生の明るい笑顔も、俺にとっては「いい人たち」だった。

だけど、それすらもフィルターを通していたのかもしれない。あんなに良い人達だったのに、思い出が黒く汚れていく。


“彼らは本当にいい人なのか?”


そんな疑念が頭をもたげる。

レンとの会話で違和感を今まで覚えていた、その理由が分かった。


「良い人」っぽい言動をトレースして、上っ面だけ善人のふりをしていたから、チグハグな印象を受けたのだ。


だから、あんなにも積極的にユートを食事に誘ってきたんだ。


レンが行うスポーツサークルの運営も、料理の勉強会も、全部アムウェイの商品を売りつける機会や信頼を勝ち取るための手段だったのだ。


何も知らない第三者から見たら、みんなから信頼される料理上手なお兄さんに映るんだろう。


知らなければ、こんな気持ちにならずに済んだのに。

世の中、知らないほうがいいこともある、そう痛感した。


だが、レンの本性を知らないまま関わりを続けていたらと思うと、今日知れて良かったのかもしれない。


レンはまだ笑顔のまま、俺を見ている。その仮面の裏では何を考えているのか窺い知れない。

何も変わらないさわやかな表情で、当たり前のように話を続ける。


でも、俺はもう彼を“普通の友人”として見ることができなかった。


「ユート君はコミュニケーション能力が高くてさ、アムウェイにとても向いていると思うんだよね。」


レンは目を輝かせながら俺を見つめた。

まるで、才能ある若者に未来の可能性を説く教師のような口調だった。


けれど、その視線の奥にあるのは純粋な尊敬ではなく、獲物を見定めるような光、そんな気がした。


「俺はさ、貧しい学生時代の時に決意したんだ。」


レンは急に語り口を変え、過去を語り始める。


「まずは親の手から離れて経済的に独立する。その後は、会社だけに依存しないように別の財源を作る。」


「卵の山を一つの籠にまとめず、複数に分けるってことですね。」


「良い例えだね!その通り!」


そこまでは、わかる。

本業一本の収入源に頼るのは、一輪車を休みなく漕ぎ続けるようなものだ。だから、長期投資や副業等でタイヤを3輪4輪と増やしていけば、路肩に駐車して休むこともできる。


人の脳や体はかならず衰えて働けなくなる時が来る。更に、人間よりもコストが安く、賢くてミスが無く、病気にならず、文句も言わない、24時間働くAIというライバルがいる。肉体労働や単純作業、ホワイトカラーの仕事もどんどん淘汰されるだろう。適者生存や自然淘汰の考えからすれば、適応や変化できない個体は資本主義でも底辺の生活を強いられることになる。だから、日頃からの備えが重要だ。


ユートも本業一本に頼ることのリスクは考えていたし、副業や投資の重要性も理解している。


だけど、レンのビジネスは健全ではない。誰かの犠牲の上に成り立つ生き方だ。


「今は、俺の母もアムウェイをやっているよ。」


一瞬、思考が止まる。


「……え?そうなんですか。」


レンは満足そうに頷きながら続けた。


「お金を直接俺が仕送りするんじゃなく、母にお金稼ぎの方法を教えたんだ。」


誇らしげな表情。

自分はただ親を甘やかすのではなく、自立できるように導いた。そんな風に思っているのだろう。


俺は、喉の奥に違和感を覚えながら、とりあえず相槌を打った。


「魚をあげるのではなく、魚を釣る方法を教えるって感じですね。」


「そう!まさしくそれ!良い例えを知っているね!」


レンの顔がパッと明るくなる。


「お金に関する本でもよく出てくる例えなので。」


ここまでなら、単に親孝行の話として聞き流せたかもしれない。

もし、アムウェイの話が絡んでいなければ。


「アムウェイはさ、お金が稼げるからやっているんじゃないよ。」


レンの声は熱を帯びる。


「本当にいい商品ばかり取り揃えているからおすすめなんだ。ついでに稼げるだけだよ。」


ついでにお金稼ぎ、ね。この嘘つき。そっちが1番の理由だろ?


その“ついで”が、どれだけの人間を巻き込み、どれだけの人間関係を変質させるかなんて、考えてもいないのか。


レンは楽しそうに話し続ける。


「むしろ、Amazonとか楽天で他にいい商品があったら教えて欲しいぐらいだよ。」


俺は引き攣った愛想笑いを浮かべるしかなかった。


ユートも、アムウェイの勧誘さえされなければ、普通に楽しめた話題だったのに。

副収入の話、親の自立の話、経済的自由の話。


でも、それが“アムウェイ”という色に染められた瞬間、俺の中で何かが冷めていく。


レンだけが上機嫌で、意気揚々と会話を続ける。

俺の反応に気づくこともなく。


「本業の傍らアムウェイの紹介する仕事、俺は5年ぐらいやっているかな。」


レンは腕を組み、少し誇らしげに語り始めた。


「大体年間100~150万くらい稼げるようになってきて、もうちょっと頑張ったらアムウェイだけで生活していけそうなんだ。」


俺は黙ってレンの言葉を聞き流しながら、内心で突っ込みを入れた。


さっきからレンの言っていることは支離滅裂だ。


「お金を稼ぐことが目的じゃない」

とか言ってたのに、結局お金の話ばっかりだ。


しかも、レンのようにこれだけ容姿やトーク力が優れていて、複数のコミュニティを抱えている“トッププレイヤー”でも年間100~150万程度の収益しかない。その時点で、業界がいかに厳しい財政状況なのかが分からないのだろうか。沈みゆくタイタニック号で最後の一部屋を争っているようなものだ。そんな泥舟に俺を誘わないで欲しい。


その卓越したコミュニケーション能力があれば、SNSでインフルエンサーとか、普通に会社で営業マンとして働けば社会からも歓迎されるだろうに。


知識は薬にも毒にもなる。正しく使えば人を救い、誤れば人を滅ぼす。その法則は人間にも当てはまる。レンを見てユートは思った。


そもそも、「アムウェイだけで生活できそう」って本気で思ってるのか?確かに副業でそれだけ稼げているのはすごい。ユートは4年間副業を頑張って、せどりやブログやウェブライター等を頑張って、二束三文にしかならなかった。だから、結果という一点のみではレンを尊敬できる。だが、手段を間違えてしまえば本末転倒だ。


大金持ちになったあと、周りに誰もいない孤独な世界は果たして幸せなのだろうか。


「アムウェイってさ、世界の名だたる大企業の中でも研究開発費が相当上位なんだよ!」


レンは笑顔で続ける。


「だから商品の品質も信頼できる。それに、1959年にアムウェイが生まれて、1979年に日本にやってきたという歴史のある企業なんだよ。」


楽しそうに説得してくるが、話に穴や矛盾がありすぎて呆れた。都合が悪いことから目を背けているように聞こえる。


研究開発費が高い=品質が良いという証明にはならない。

金をかけたからって、成果が出るとは限らない。


先進国の税収がほとんど裏金や汚職で消えてるのと同じ。

綱引きで何人かがこっそりサボるのと同じ。

金や時間をかければ、それがそのまま結果に反映されるわけじゃない。


チャットGPTの十分の一以下の予算で、中国企業が高性能AI「Deep Seek」を開発したのと同じように、リソースが少ないからこそ、クリエイティブなものが生まれることは多々ある。


むしろ、先ほどの例を考慮するとアムウェイも効率の悪い金の使い方をしている可能性すらある。


しかも、アムウェイは日本に来てから50年も経っているのに、未だにネガティブなイメージを払拭できていない時点で関わらない方がいい界隈と判断できないだろうか。


iPhoneを作ったスティーブ・ジョブズと同じく、「人に感謝された人」が結果的に、人の生活を楽にした代価としてお金を手にする。つまり、闇バイトや詐欺や振興宗教やマルチ商法等、目先の小銭のために他人を騙すビジネスは短期的には儲けるが一生続けられる可能性は低い。


悪事千里を走るという言葉があるが、SNSが発達した現代では悪いことをして逃げ切れるような時代ではない。


そんなのに手を出す人は、おそらく頭も性格も悪い。レンに限っては顔と外面だけは良いみたいだが。


「自分が苦労をしない範囲で人を助ける」ことがお金持ちへの第一歩なのだ。だからユートは小説を書いて人の生活に感動を与えたいと夢見ている。アムウェイのようなビジネスモデルは、ユートの生き様や価値観に反する愚行の極みだ。


そんなユートの考えを知らないレンは熱っぽく語り続ける。


「例えばこの100年鍋は、100年使えるって言われていて、25万円もするんだけどさ、一年に換算したらたったの2500円で使えるんだよ!さっきの美味しい料理みたいに!素敵だと思わない?」


ヒュッ、浅く息を吸い込んだ音が喉から漏れた。絶句とはこういう時に使う言葉だろう。

俺は、乾いた笑いすら出なかった。


一年たったの2500円。


妙な計算でごまかそうとしているが、25万円の鍋は25万円だ。

それを「安い」と言い張る感覚がすでに狂っている。


というか、アムウェイが生まれてまだ100年も経っていないのに、この鍋が100年後も持つってどうやって証明したんだろう。


しかも、今後料理用アンドロイドが世間に普及すれば人は鍋すら触らなくなる可能性もある。


そもそも、100年後も存命なほど歳を取ったら介護士か介護用アンドロイドが料理してくれるだろう。つまり、明らかにオーバースペックだ。


「25万円の鍋を買ったとして……それで、1ヶ月、水道水だけで生活しろってことですか?」


思わず皮肉が口に出てしまった。


レンは少しムッとしたような表情を見せるが、すぐに営業スマイルに戻った。


「いやいや、そういうことじゃないよ!もちろん分割払いもできるし!


でもさ、ユート君、人生で何度も買い替えなくて済むんだよ?普通の鍋なら10年もしたら買い替えだけど、これは一生モノなんだ。」


「…」


「だから、お得ってこと!」


レンはドヤ顔で胸を張る。


埒があかない。俺は呆れた目で彼を見つめた。


どんなに良い商品でも、25万円の鍋を友達に勧めるか?

普通、しない。


少なくとも、相手の経済状況や価値観を考えれば、「こいつなら買える、買ってくれる」と確信した時以外は勧めない。

つまり、俺のことを“友達”ではなく、ただの“金ヅル”としか見ていないということだ。


「それにね、アムウェイは広告費を使わず口コミでしか広がらない、だから商品を安く提供できるんだ。」


レンは誇らしげに言う。

俺は思わず鼻で笑った。

ペラペラと立板に水のように言葉を並べるレン。


金銭感覚だけでなく倫理観も狂っている。


そもそも、「口コミでしか広がらないから安い」、その前提に違和感がある。


紹介報酬が発生している時点で、本当は5万円(根拠は無いがそれぐらいの値段だと一旦仮定しよう)の鍋を20万円上乗せして、25万円の商品として販売しているんじゃないのか?

5万円の鍋でも相当高いが、それを“安い”と錯覚させるロジックの方が、よほど悪質だ。


紹介料が発生してる時点で、どこが“安い”んだよ。紹介料を上乗せして消費者が負担しているだけじゃん。


レンはすぐに笑顔を作り直した。


「ユート君、質の良いものを選ぶって、人生の選択肢を増やすことなんだよ。」


経済的に困窮したら選択肢が減るのに?さっきから言っていることがめちゃくちゃだ。


それからしばらく、俺は黙ってレンの話を聞き続けた。


どうやら、アムウェイの報酬体系は「たくさんの商品を、より大勢に売るほど営業した人の報酬割合が増える」らしい。


例えば、初心者会員が俺に25万円の鍋を売った場合、その人の報酬は10%の2万5000円。

一方で、レンのように500人規模のコミュニティを持つ元締めが売ると、報酬割合が20%に跳ね上がり、5万円の利益になるみたいなイメージだ。


話半分で聞いていたから実際の比率は把握していない。


アムウェイ初心者が頑張って鍋を売っても、せいぜい2万5000円。でも、アムウェイ上級者のレンが売れば5万円もらえる。そりゃ躍起になって人を誘う訳だ。


更に、俺がこの鍋を買って、誰かに売るようになったらその時点で俺も収益が得られるし、ユートの親会員であるレンにも報酬が入る。


「例えばさ、ユート君がコミュニティを作って、その中でハンバーグ会でも開くとするじゃん?その場でこの鍋を使って料理を振る舞う。で、みんなが『この鍋すごい!』ってなって買うでしょ?そしたら、ユート君に報酬が入るのはもちろんだけど、ユート君の上にいる俺にも一部が入るんだ。」


「……俺がハンバーグを焼くほど、レンさんに金が入るんですね。」


「うん、そうだよ!」


何の悪びれもなく、純粋な少年のように溌剌とした返事だ。「アムウェイは金儲けで始めた訳じゃない」数分前彼はそう言っていたよな?


今日レンがユートを誘ったのも、フライパンや鍋、フードプロセッサーの実演販売というわけだ。


俺は呆れて天井を見上げた。

よくできた仕組みだ。

いや、よくできすぎている。


普通に考えれば、本当に良い商品ならこんな手間のかかる販売方法を取る必要はないはずだ。

価格を適正に抑え、シンプルに市場で勝負すればいい。良い商品は勝手に口コミで広がる。


商品の質に自信がないから変化球に逃げているようにしか見えない。


質と手軽さを追求したアマゾンプライム・ビデオやNetflixを見習って欲しい。


彼らは広告を大量に打ち、ユーザーにダイレクトに良質なサービスを提供し、圧倒的なコストパフォーマンスで世界中の人々を惹きつけている。


レンは楽しげに語っているが、その姿はどこか戦場で武功を挙げた若き将軍のようにも見えた。


彼の話を聞きながら、ふと頭に浮かんだのはモンゴル帝国やアレキサンドロス大王の侵略の歴史だった。

彼らは未開の地を征服し、新たな領土を広げることで富を蓄え、強大な帝国を築いた。


アムウェイも同じだ。


侵略する土地、つまり「新しく勧誘できる人」がいれば経済圏は拡大し、上位層は潤う。

しかし、侵略し尽くしてしまえば、それ以上の拡大は見込めない。


モンゴル帝国は農地を広げ、アレキサンドロスは兵士を補充することで支配を維持していたが、どちらの帝国も最終的には未開の土地が尽きたり遠征疲れを起こして崩壊した。


レンは今、この「拡大戦争」の最前線に立ち、鍋やフードプロセッサーを武器に新たな領土を求めて戦い続けている。

彼の手柄、つまり勧誘の成功は、彼自身の生活を豊かにし、彼の上位にいる者たちの利益にもつながる。


そのうち、もう勧誘できる人がいなくなる。その時どうする?それでも『俺は成功した!』ってレンは胸を張っていられるのか?


あなたの生い立ちは確かに大変だったのかもしれない。でもね、自分が不幸だったからといって、誰かを不幸にしていい理由にはならないんだよ。


レンはMサイズピザの自分の取り分をいかに増やすかしか考えていない。他人が踏みつけられようがどうでも良いのだ。


ユートは、生地をこねるのが上手い人、トマトソース作りに長けた人、材料集めや焼き具合に熟達した人、みんなが協力してLサイズのピザを各々が腹一杯に食べられる世界を作りたいと思っている。


つまり、根本的に価値観が違うのだ。


「レンさん、信頼性の話をされてましたけど、アムウェイって数年前に営業停止処分になってませんでしたっけ?」


意地悪な質問を投げかけてみる。どう返すかで、この人の底が見える。


レンは眉ひとつ動かさず、すぐに答えた。


「あれは、アムウェイ会員の男性がマッチングアプリで女性と知り合った後、エステに連れて行ってそこで強引な勧誘をしたんだ。警察や政治家でも問題行動をやらかす人はいるよね?それと同じで、個人が暴走しただけで組織に非はないよ。」


よくもまあ口の回る男だ。


その気になったら悪事を働ける構造を野放しにしている時点で、組織にも責任がある。

いじめを見過ごすクラスメイトと同じだ。

違法賭博を取り締まりながらパチンコを許す警察や、脱税は犯罪と言いながら裏で私腹を肥やす政治家と同じで、自分たちの悪行には目を瞑っているだけ。


暴走した後輩は無視しておく。アムウェイという広大な土地と軍に入隊できたが、武器も地図も配られていない。戦果を上げれば上納金が発生する。だが、失敗した時の後始末は勝手にしろとトカゲの尻尾切り。そんな組織に誰が入りたいだろうか。


もう良い。理解しようと歩み寄ってみたが無駄だったということが分かった。家族を人質に取られでもしない限り俺は入会しない、


時計を見ると、針はすでに3時を回っていた。


昼食を終えてから1時間半。


地獄のような時間だった。

そして、人生で最も無駄な時間だった。


「すみません、俺この後用事あるので帰ります。」


椅子から立ち上がり、レンの家を後にする。


背後で「分かった、また今度もご飯に誘うね!」と声が聞こえたが、振り返らなかった。


さっさと、この空間から逃げ出したかった。


車に乗り込んでエンジンをかける。


ハンドルを握る手がわずかに震えていた。


アクセルを踏み込み、静かな住宅街を抜ける。

夕方の柔らかな光がフロントガラスに差し込む。


それなのに、視界が滲んでいた。


悔しい。

なんで見抜けなかったんだ。


ヒントは、いくらでもあったはずだろ。

“副業で収入を増やす方法”、“経済的自立”、“口コミで広がるビジネス”。

違和感の破片は、最初からそこら中に転がっていたのに。


なんであんなやつを信頼した?


なんで、カレーパンを作る時間が純粋に楽しいものだと信じてしまった?


本人に言っても無駄だから飲み込んだ、そんな思考が炭酸水の泡のように次々と湧いてくる。


まず一つ、アムウェイはレンの母もやっていると言っていた。その辺のおばあさんでもできてしまう、特別なスキルを必要としない仕事に自分らしい人生はあるのだろうか。


誰でも真似できるなら、すぐに価値は無くなる。ネット広告で「誰でも簡単副業毎月10万円」とか書いている案件も、誰でも簡単に真似できる美味しい話を他人に言うと自分の取り分が減る。


「この人の経営する居酒屋だから、スナックだから通いたい。」「このYouTuberが好きだからこの人の動画を見たい。」「この漫画家が好きだからいつまでもあなたの漫画の連載再開を待っています。」このように、他の人と違う道を歩まないと「代わりがいくらでもいる使い捨ての人生」しか待っていない。


みんなと同じことをしてもみんなと同じ場所にしか辿り着けない。


他の人と違う選択をするからこそ、自分らしい人生が手に入る。


なのに、「この道を進めばもう安心だよ。」と綺麗事で思考停止を促し行く先を誘導してくる。ユートが過去投資詐欺にあった時と全く同じパターンだ。レンについて行ってはいけない。


そもそも友達や家族を売って金を稼いでいます。なんて人に胸を張って言えるか?そんな恥ずかしい生き方を選びたくない。仮にお金持ちになったとしても、嫌な奴の周りには嫌な奴しかやって来ない。財布は満たされても心が満たされない生活が待っている。


そもそも、誰でも簡単に稼げる方法が本当にあるなら、日本の経済はもっと良くなってるはずだ。アムウェイのやり方を世界各国が真似して、人類全てが豊かな生活になってないと辻褄が合わないだろう。


実際は、日本どころかアメリカ、ヨーロッパ、中国、先進国はどこも競争社会に疲弊し、少子高齢化や自国優先思想が強くなっている。


つまり、誰も他人を助ける余裕がなくなっているのだ。


ということは、「この道に来れば幸せになる」という前提が疑わしいということになる。


加えて、お金持ちというのは、貧乏人がいるから相対的に生まれるものであって、全ての人間がお金持ちにはなれない。日本の全国民に1億円を配ったら、「2億円や10億円を持ってる人が羨ましい」といつまでも醜い競争から抜け出せない。


だから、足るを知るということ、「大して裕福ではないけれど、友人や家族に囲まれて自分は幸せだ」と自分の中で価値観を明確にすることが重要だ。


幸せは誰かに与えられるものではなく自分で見つけ、掴み、至るものだ。


技術革新でエネルギーや食糧不足問題が解決し人々の生活コストが月千円以内になる。これは良いだろう。

だが、アムウェイはどうだ?何か社会に余剰を生み出しているか?本質的には詐欺や情報商材と同じで、低価値な物を高価に見せかけて売りつけるビジネスだ。

幸せになる人の数より、生み出す不幸の方が多いのではないかと感じてしまう。


ユートは本業の傍ら副業を始めて四年が経過した。親や親友には善意で否定された。ブログ、SNS、ウェブライター、プログラミング、せどり、お悩み相談、ピアノのライブ配信、思いつく限り何でもやった。

どれだけ努力しても大して稼げず、仮に多少稼げても「それを一生の天職にするのは嫌だ。」という絶望感に飲み込まれるだけだった。


職場の飲み会や付き合いを断りまくり人間関係にも支障をきたした。

成功者達を見て「なんでこんな薄っぺらいことしか言ってない人の方がフォロワーが多いんだ!」と血の涙を流したことも、血反吐を吐いた日もあった。


そうしてユートは自身の書いた小説やYoutubeチャンネルを応援してくれる人が増え、やっと生きる意味を見出し始めたところだった。


「俺は学ぶことが好きだ。だから俺が学んだことを言葉やストーリーにして人の心を震わせる。それが、俺の生まれた意味だ。」


ここ一年、やっとそう思えるようになった。自分も他人も幸せにする。そのためには、自分は何が好きなのかと徹底的に向き合わなければならない。


絶対に失敗しない方法ではなく、何度失敗しても必ず目標を達成するという覚悟の方がよっぽど重要だ。


この好きなことのためなら、多少の嫌なとこは我慢できる。そう思えるものと向き合うためには、途方もない努力と苦痛が伴う。


なのに、今日の話は何だ?楽して金が稼げるとか耳障りのいい言葉を並べやがって。

楽な方向に流されても操り人形の人生しか待っていない。神を信じてもすくわれるのは足元だけだ。


地上0メートルから地下1階に落下するより、綺麗事の階段を登って地上2階から地下1階に落下する方がダメージが大きい。騙されて失った時間やお金は元に戻らない。


唯一信じられるのは自分の歩んできた道のりだけだ。


レン、あんま副業を舐めんなよ。

今できない=一生できないとは限らねぇんだよ。マルチ商法を売りつけるしか能がない量産型人間だと俺を決めつけやがって。


ハンドルを握る手に力が込められた。


流れゆく景色を眺めながら、ふと両親を思い出した。


ゴールデンウィークに実家へ帰ったとき、両親にパン教室の体験の話をした。


「今度、レンの家でカレーパンを作るんだ。」


嬉しそうに話す俺を見て、母は「いいわねぇ」と微笑み、父は「それは楽しみだな」と言った。


俺も、楽しみにしていた。


焼きたてのカレーパンを頬張りながら、ただ美味しいねって笑い合える時間が来ると思っていた。


……なのに、こんな結末になるなんて。


寂しくなって、家に着いてから親父に電話をかけた。


コール音が数回鳴ったあと、いつもの低い声が聞こえた。


「どうした、ユート。」


親父が言い切る前に、食い気味で答えた。


「親父、カレーパンのお兄さん、アムウェイの勧誘だった。」


数秒の沈黙。


それから、短く「そっか。ドンマイ。」


その向こうで、母の呑気な声が聞こえた。


「あらー、残念だったわねぇ。」


電話越しに両親の声を聞き、少し落ち着くことができた。


夜の公園を歩く。


昼間の暑さがすっかり引き、ひんやりとした風が頬を撫でる。


レンとは関係を絶とう。


そう決めたはずだった。


これまでも、自分を尊重しない人間とは距離を置いてきた。

人間関係に情を挟んでも、結局消耗するだけだと学んでいた。


けれど、決意が鈍る。


ハルキさんから借りている三国志の小説。


十冊もある。


彼はレンの先輩で、しかも夫婦でアムウェイの信者らしい。

でも、俺は彼らに勧誘されたわけではない。


彼らに罪はない。


さすがに、借りパクは大人としてどうかと思う。


それに、俺はハルキさんの連絡先を知らない。

いきなり家に押しかけて本を返すのも迷惑だろう。


でも、レンに連絡を取るのは嫌だ。


どうすればいい?


考えれば考えるほど、答えが出ない。

まるで袋小路に入り込んでしまったような気分だった。


公園のベンチに腰を下ろし、ぼんやりと空を見上げる。


都会の夜空は、星が少ない。


近くの街灯の光が滲んで見えた。


スマホを取り出し、何気なく画面を眺める。

SNSを開く気にもなれず、ただ指を滑らせるだけ。


そのとき、不意に通知音が鳴った。


レンからのメッセージだった。


「今日はありがとう! 今度は肉じゃが作るよ!」


一瞬、思考が止まる。


スクロールすると、続きがあった。


「バレーとか用事があるから、食事会をするなら月に一回くらいのペースがちょうど良いって言ってたっけ?」


……抜け目のない男だ。


こちらの言葉を覚えていて、先回りして予定を押さえにきた。


あの場では「用事があって帰る」と言ったのに、食事会の話が続くことを前提にしている。


まるで、俺が「また参加する」ことを既定路線として話を進めているような口ぶり。


これは、俺に選択肢がないことを当然とする言い回しだ。


じわりとした不快感が胸に広がる。


スマホを握る手に力が入る。


俺の意思は、俺が決める。


公園の風が、冷たく感じた。


公園のベンチに座り、スマホの画面を見つめる。


レンからのメッセージは未読のまま、俺はしばらく指を動かさなかった。


どう返信するべきかは分かっている。

もう関わるつもりはない。

だが、下手に刺激をしても面倒なことになる可能性がある。


だからこそ、理性的に、礼儀正しく、そして確実に関係を絶つためのメッセージを打つ必要があった。


慎重に、一字一句を選びながら、スマホのキーボードを叩いた。


「今日はありがとうございました。

色々考えましたが、僕はアムウェイの力を頼らず自力で経済的自由を目指すので、勧誘は結構です。


レンさんのお仕事がうまくいくことを願っています。


また、料理については、料理が得意な子との共通の話題作りとして興味がありましたが、最近フラれたので学ぶ動機が無くなりました。


その状態で料理の勉強に行きレンさんのお時間を取らせるのは僕の生き様に反します。


またお会いしたいと思った時に連絡させてください。」


送信ボタンを押した瞬間、少し肩の力が抜けた。


1番の目的である「レンとの関係を絶つこと」。

そのための言い訳だったが、書いていることは全て事実だ。


俺はアムウェイに頼らないし、もう料理を学ぶ理由もない。

そして何より——俺の時間を、脳細胞をこれ以上無駄にするつもりはない。


愚か者に時間を使ってしまうなら、俺もまた愚か者だ。

ゴミを抱えて宝石を溢れ落とす人生はもうやめにしよう。


スマホを伏せ、静かに夜の風を吸い込んだ。


ピロン。


すぐに通知音が鳴る。


「了解、いつでも相談乗るよー!」


かわいいネコのスタンプも添えられている。


俺の指が止まる。


……そう来たか。


小さく息をつきながら、ゆっくりとメッセージを開く。


画面の向こうのレンが、親しげな顔で「味方ですよ」と手を差し伸べているような錯覚を覚えた。

理解者ポジションを取ろうとすんな。


そもそも、信頼を損ねる行動をしたのはレンの方だ。

それなのに、まるで何事もなかったかのように「相談乗るよ」だと?


自分は裏切った覚えはない、とでも言いたげな態度が鼻につく。

人の心をコントロールしようとしているのが見え見えで、ますます嫌悪感が増す。


俺は、もうこの人に自分の弱点を見せるつもりはない。


信頼を裏切った相手に、心の内を晒すほど愚かではない。


スマホの画面を見つめたまま、ふっと鼻で笑う。


「……軽蔑するわ。」


声に出さず、ただ心の中で呟く。


無視を決め込み、スマホの画面を閉じた。

夜の公園には、静かに風が吹いていた。


それから一ヶ月後、レンから「ユート君、お久しぶり!またパン教室があるんだけど良かったらどう?」と連絡が来た。


だが、既読無視をした。これでこちらの気持ちは伝わっただろう。


これで全部終わった。

そう思うことにした。


—-


ハルキさんに借りた小説は返したいけど連絡は取りたくない。だからブロックせずに自然消滅を待つことにした。あとは成り行きに任せよう。一つ懸念は、バレーサークル「エアロ」のグループラインに誘ってしまったことだ。


俺が参加する日に合わせて彼も来るかもしれない。そう思うと、大好きなエアロの活動日が少し憂鬱になってしまった。


レンと関係を絶って四ヶ月が過ぎ、蝉の鳴き声がスズムシに変わり始めていた。


この日、ユートはバレーサークル「エアロ」の活動日に、いつもより早めに体育館に到着していた。


特に意味はない。ただ、早く来てコートを設置しながら、仲間が集まるのを待つ時間が好きだった。

小躍りする気持ちを抑えて、体育館の扉を開ける。


その瞬間、呼吸が止まった。


レンがいた。


彼はコートの端で、誰かと談笑していた。

何事もなかったかのように、いつもの爽やかな笑顔を浮かべて。


ユートの手が、かすかに震えた。

嫌な汗が背中を伝う。


逃げたい——。


そう思ったが、もう遅い。

レンがこちらに気づき、大きく手を振った。


「やあユート君、久しぶり!」


親しげな口調。何のわだかまりもないとでも言わんばかりの態度。

ユートの体温が、一気に下がったような感覚に襲われた。


鳥肌が立つ。


「……っ」


声が詰まる。

喉の奥が冷たくなったような錯覚を覚えた。


こいつ、本気で何もなかったと思っているのか?


あれほどのことがあったのに。

俺が拒絶したのに。

自分の信用を裏切ったという自覚が、微塵もないのか?


心臓の鼓動が、嫌なリズムで鳴る。


レンはまるで昔の友人に偶然会ったかのように、軽やかに話し続けた。


「今日は俺のバドミントンサークルの後にエアロがあるみたいだねー。」


……良かった。


それだけは、本当に良かった。


どうやらエアロに参加するつもりはないらしい。

ユートの喉が、ようやく少しだけ動いた。


「そ、そうなんですねー。」


できるだけ平静を装いながら、棒読みの声を絞り出す。

心を無にしろ。表情を崩すな。


「さすがにスポーツサークルの連続参加は体力持たないですよね、残念ザンネン。」


わざとらしく棒読みで。


レンの反応をうかがうことなく、ユートは視線を逸らし、黙々とコートの設置に取り掛かった。


何事もなかったかのように振る舞うレンが、背後でまだ微笑んでいるのがわかる。



その夜、家に帰り、湯船に体を沈ませた。


湯船に浸かりながら、重くなったまぶたを閉じる。


はぁ……


心地よい温かさが、今日の疲れをゆっくりとほぐしていく。

だが、頭の中のざらつきは取れなかった。


体育館でレンと遭遇してしまったこと。

何事もなかったかのように振る舞う彼の態度。


そして、今この瞬間も消えてくれない、嫌な感覚。


「はぁ……最悪。」


浴槽の端に頭を預け、深く息を吐く。


——風呂上がり、バスタオルで髪を拭きながらスマホを手に取る。

画面には通知が来ていた。


「ユート君、またうちのソフトバレー【アライブ】の活動が今月あるからよかったらどう?」


……おいおい。


一瞬、思考が止まる。


久々に顔を合わせただけで、信頼関係が回復したとでも思ってるのか?

いや、そもそも今日のやり取りで「まだ友達でいられる」と勘違いしたのか?


おめでたいやつめ。

喉の奥が、ひどく苦くなった。


「……バカじゃねぇの。」


呟いて、スマホを画面ごと伏せる。


既読無視で放置しよう。

そう決めた。


だが、ラインを開くたび、彼のトークルームが画面の上位に表示されるのが、ひどく不快だった。


……未読無視のまま、トークを非表示にした。


だが、完全には消せない。


過去のやり取りの中に、ハルキさんの家の住所と部屋番号が書かれたメッセージがある。

小説を返すためには、あれを残しておかないといけない。


——関係を断ち切りたいのに、完全には絶てない。


その事実が、もどかしくて仕方がなかった。


嫌な記憶が、まだ俺のスマホの中に巣食っている。

それが、ただただ 腹立たしい。


—-


秋が終わり、冬に差し掛かる頃、「エアロ」とユートに大きな変化が起きた。代表のカズマが多忙により、サークルが無くなることになった。


そんな時、カズマから「このサークルの代表になってくれない?ユートなら信頼できる。」と言われ、友達と2人で代表を引き継ぐことにした。


ラインのグループで、「これからもよろしくお願いします。」と簡単であるが挨拶をした。みんなが温かくスタンプやコメントを見てホッと胸を撫で下ろした。唯一の懸念はそのやりとりを安全圏から見ているレンの存在だった。


もう、関わって来ないよな?


そう思いたいが、一向にグループを退出する気配が無い。忘れたくても忘れられない勧誘された日の恐怖が、半年経った今でも脳裏に蘇ることがある。



代表になって二ヶ月。


1人の参加者だった頃とは、まるで世界が違って見えた。


「楽しくバレーをする場」だったはずのこのサークルは、誰かが運営しなければ維持できないものだった。


前代表のカズマさんがどれだけ周囲に気を配っていたか、身をもって痛感する。


人が増えすぎたことで、活動日を月2回から月4回に増やした。

結果、各日の参加人数が分散し、定員割れする日が目立つようになった。


活動の3日前に「人が足りてません、皆さん参加をご検討いただけると嬉しいです!」と連絡をするのが、もはやルーティンになっていた。


二月の末。


いつも通り、グループチャットに参加の呼びかけを送った。


「仕事早く終わったら行くよ、とりあえず参加予定に入れとくわ!」


すぐに返ってきたメッセージは、俺が信頼する陽キャの友人からだった。


思わず口角が緩む。


こうやって、自分の呼びかけに応じてくれる仲間がいるのは、やっぱり嬉しい。


しかし——


次に届いた通知で、血の気が引いた。


「遅れてでも良ければ久しぶりに参加しようかな(^^)」


——レン。


画面に映るその名前を見た瞬間、背筋に冷たいものが走った。


指先がかすかに震える。


最悪だ。


「参加のご検討をお願いします!」と自分で言っておいて、特定の誰かを拒むことはできない。


それを見越して、彼は今このタイミングで来たのか?


「虎視眈々と、この瞬間を狙っていたんだ。」


——ぞっとした。


レンは、あのバレーサークルのグループから決して抜けなかった。

ただの未練や義理じゃない。


彼は チャンスを待っていた。


そして俺が主催者になり、メンバー不足に頭を悩ませるのを、ずっと見ていた。


「今なら、断れないだろう?」


そう言わんばかりのタイミングで、涼しい顔をして入ってくる。


戦慄する。


心臓が、不快なリズムで跳ねる。


……さて、どうする?

このまま、見て見ぬふりをするか?

それとも、何か手を打つか?


手のひらのスマホが、ひどく重く感じた。


いや、むしろこれはチャンスだ。


ハルキさんの小説を返し、バレーが終わったらレンをグループから退場させる。


個人のラインもブロックすれば、もう二度と関わらずに済む。


それだけで、長い間抱えていたストレスから解放される。


恐怖で震えていた指先が、武者震いへと変わった。


この勝負、絶対勝つ。


—-


そして迎えた当日。


ユートは体育館に早めに到着し、友達と談笑していた。


「あー、最近忙しすぎてさ。マジで体動かしたかったんだよね。」


「だよなー。今日、結構人集まったし、久々にガチでやるか!」


いつも通り、心から楽しめる空間。


だが——


「やあ、ユート君!」


場の空気が、ピタリと変わった。


レンが現れた。


……遅れて来るんじゃなかったのか?


時間通りに来る気満々だったんじゃないか。


ユートとレンは目が合った瞬間、お互い笑顔の仮面を貼り付ける。


「ユート君久しぶり!今日はよろしく!」


「こちらこそ、レンさんお久しぶりです!お元気そうで良かった!」


お互い、 本心ではまったく思っていないことを、ペラペラと喋る。


「レンさん、これ。」


俺はすかさず、用意していた紙袋を差し出した。


「遅くなったんですけど、パン教室でハルキさんから借りた小説です。お手数ですが、ご本人に返してもらえませんか?」


「いいよいいよ、預かっておくね!」


レンが紙袋を覗き込む。


「すごいね、こんな量の本、全部読んだの?」


10冊の小説を見て、驚いたように目を丸くする。


「まあ、一年ぐらい借りてたんで。それに最近ちょうど読み切ったので、今日レンさんが参加してくださって都合が良かったです。」


—— 嘘だ。


本当は、まだ5巻までしか読んでいない。


だが、そんなことはどうでもいい。


いま重要なのは、この本を返却し、ストレスの元を完全に断ち切ること。


もう、これで俺の手元に何も残らない。

バレーが終わったら、計画通りレンを排除する。

これが、最後の接触だ。


これで ほとんどの仕事は終わった。


あとは、バレーと進行の役目に集中するだけだ。


気持ちを切り替え、試合に臨んだ。


——だが、気が散る。


休憩時間、コートの外。

レンが、チームメイトたちと談笑していた。


笑顔を浮かべ、身振り手振りを交えて会話を弾ませている。


—— わずかな時間で、どんどん打ち解けていく。


彼はイケメンで社交的だ。話のノリもいい。


だからこそ みんな騙される。

じわじわと胸の内がざわついた。

焦るな。これは計画通りの流れだ。


それなのに——


「ナイス!」「今のすごい!」


周りの声がうるさく感じる。

ボールが手につかない。

焦りが動きに出た。

俺のプレーは、明らかに散漫だった。


活動が終わり、みんなが解散した。


バレー用品を片付け、最後に体育館の鍵を確認する。


背後から、足音が近づいてきた。


「ユート君、またこれからもよろしく。」


レンが いつもの爽やかな笑顔 で立っていた。


……まだそんなことを言うのか。

だが、これは最後の会話になる。

彼は、そのことを知らない。


視線を逸らし、俺は共同代表の友人と チラッと目配せした。

友人は、小さく頷いた。(彼が、例の人だね。注意しておくよ。)彼は目でそう訴えているように見えた。


計画通り、今夜レンをグループから退場させる。

——なのに。


車を走らせながら、俺の中に違和感が残った。


「……ひょっとして。」


まともになったのかもしれない。


俺が神経質になりすぎていただけなのかもしれない。

そんな考えが、エンジンの低音と共に脳裏をよぎる。

家に帰り、玄関のドアを閉めた瞬間、全身の力が抜けた。

バレーの疲労と、それ以上に精神的な疲れがどっと押し寄せる。


靴を脱ぎ、リビングへ向かう途中でスマホを取り出した。


通知が溜まっている。

何気なく確認すると—— レンからのメッセージが届いていた。

それも、今日のバレーサークルが始まる前に送られていたものだ。


「ユート君、またうちのソフトバレーのサークル【アライブ】があるけど良かったらどう?」


「スミレ先生のパン教室が今月あるんだけどどう?」


あー、もう無理だ、この人。


思わず、スマホを強く握りしめた。


「5年間この仕事をやっている」


彼はそう言っていた。


そうか、あなたはずっと営業してるんですね。


今日の参加も、所詮は営業活動の一環だったということか。


「ユートのサークルに参加してやったんだから、お前もこっちに来いよ」


そういう打算が見え透いている。


——そして、最悪の可能性が脳裏をよぎる。


“カモネギ”


バレーサークルのメンバーを、次のターゲットにしようとしているのか?

新規顧客の開拓を企んでいるのか?

もしそうなら、もう許せない。

俺の行動を縛っていた ハルキさんの小説はもうない。


やるべきことは決まった。

共同代表者の友人に、メッセージを送る。


「レンさんの件ですが、今回で信頼関係が戻ったと思ったのか、また性懲りも無くマルチの勧誘をしてきました。


俺の大事な友達に触れてほしく無いです。」


文字を打つ指が震えた。


あの、目がバキバキに見開かれた状態で、彼の部屋で勧誘された あの恐怖が蘇る。

自分のためではなく、サークルのために。


彼を消す。


「今日お会いして感じられたように、ぱっと見爽やかな好青年なのが恐ろしいです。


ライン交換とかされる前に、退出させます。


みなさんに言う前に、先に報告させてもらいました。」


送信ボタンを押した。

決着をつける時が来た。


レンの名前が刻まれた 「エアロ」グループラインのメンバーの一覧 を開く。


深く息を吸い、指を画面に滑らせた。

退出。

静かに、レンの名前が消えた。


次は個人のライン。

レンのトークルームを開くと、そこには今までのやり取りが並んでいた。


「パン教室が今月あるんだけどどう?」


「ユート君、またうちのソフトバレーのサークルあるけど良かったらどう?」


最後の最後まで営業かよ。


迷いなく 「ブロック」 を押す。

「このユーザーをブロックしますか?」

確認のポップアップが表示された。


はい。


これで、もう二度と関わることはない。


次に、グループへの報告。

スマホのキーボードを叩きながら、慎重に言葉を選ぶ。


「お疲れ様です。

ねずみ講やマルチ商法類の勧誘がサークルのメンバー内で確認されました。色々考えましたが、彼の手が僕以外の人に届いてしまう前に、退出いただくことにしました。」


画面に映る文字を見つめ、しばらく指が止まる。


続けて、本音と建前を交えた文章 を綴る。


「元々僕が他のサークルで出会い、このサークルに誘った方なので、この展開にとてもショックを受けています。


これからも、みんなが純粋にバレーを楽しめる環境づくりのためにできる限りのことをしたいと思っています。


しかし、未熟者である僕1人でその目標を叶えられる自信がありません。


だから、良いコミュニティ維持のために、これからも皆さんの手を貸して欲しいです。


そのため、バレーの実力も人間としても不完全な僕をこれからも支えてもらえると嬉しいです。」


送信ボタンを押す前に、もう一度読み返す。

……これだけじゃ堅苦しすぎるか。


少し考えてから、最後に “PS” を付け加えた。


「PS. 友達と思ってた人からマルチの勧誘されたのほんま怖くて悲しかった、みんなも気をつけて」


送信。

数秒後、ラインの通知が連続で鳴る。


「え、まじ?」


「そんな人には見えなかった…」


「どんな勧誘だったの?」


「電話していい?」


個人ラインにも次々とメッセージが届く。

電話がかかってくる。


“そんな人には見えなかった”


……そうだよな。俺も、最初はそう思ってた。


ソファに深く沈み込み、天井を仰いだ。


レンの影が、ようやく俺の世界から消えていく。


やっとゴミを捨てることができた。俺の手は、自由になった。寝っ転がりながら、天井の照明に手を伸ばした。


—-


翌朝、今回の一件を振り返りながら自身の行動の反省点を探した。


やはり、思考停止して人を信じてはいけないな。そう思った。


信頼することと「信頼という言葉で現在から目を逸らすこと」は同じではなあ。


まだ寒さの残る澄んだ春の空気の中、公園の遊歩道をゆっくりと歩く。落ち葉がカサリと音を立て、遠くでは親子がボール遊びをしている。平和な光景のはずなのに、ユートの心の中はぐちゃぐちゃだった。


怒りが、まだ収まらない。


足を止め、深く息を吸い込む。


「……まだ、足りない。」


このままじゃ気が済まない。


レンの本性を、みんなに伝えたくなった。


「こんな勧誘されたので気をつけて。」

「みんながユートの立場だったらどうしたか、改善案を教えて?」


そんな風に書けば、善意のアドバイスを求める形でレンの悪事を広めることができる。

何も知らない人たちに「うわ、そんなことあったの?」と言わせたい。

「あんな奴だったなんてショック」と言わせたい。

晒し上げだ。


でも、それって……。頭の片隅ではやり過ぎだとわかっている。だけど、誰かに理解して欲しい。一緒に怒って、悲しんで欲しい。オーバーキルしても良いよと言って欲しい。


ふと、スマホを取り出し、共同代表の友人にメッセージを送った。


「今回の紆余曲折を小説にしました。レンがどんな奴か、グループにちゃんと共有した方がいいと思ってるんですけど。」


すぐに既読がついた。


「やめた方がいい。余計なトラブルが生まれるし、ユートの信頼が揺らぐよ。」


画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。


「俺の信頼が揺らぐ……。」


友人の言葉の意味を考える。


もし、グループで大々的に「レンの本性を暴きます!」なんてやったら、メンバーはどう思うだろう?


「そんなことしなくてもよくない?」

「そこまでしなくても……」

「レンは確かに問題あったけど、ユートもちょっと必死すぎない?」


そんな空気が生まれるかもしれない。


イメージしてみる。


放課後の校舎裏で喧嘩をした翌日、突然教室で「昨日ユートとレンが喧嘩しました!すみません!」と報告する自分。


…… 馬鹿みたいだ。


喧嘩の詳細を知らない人からすれば、「なんで今さらそんなこと?」と戸惑うだけだろう。他人は自分が思ってるほど自分に興味を持っていない。嫌われる勇気という本の一節を思い出した。


ユートはスマホをしまい、公園のベンチに腰を下ろした。


ゆっくりと、目を閉じる。

やめよう。もう、やめよう。

レンはもう消えた。


これ以上、自分の怒りをぶつける場所を探す必要はない。友達と楽しい思い出を作ること。そちらに思考を割く方がよっぽど有意義な時間の使い方だ。


「……はぁ。」


深いため息を吐き、目を開けると、木漏れ日がゆらゆらと揺れていた。


ユートとレンは元々人見知りで、経済的自由を目指す、社交的でスポーツと料理が好き。言わば似たもの同士だ。なのに、どうしてこうなったんだろう。


決定的な違いは、「自分も他人も活かす」ことを考えていたユートと、「自分の利益しか考えていなかった」レンの差だろう。


自己中心的な人間は、他人に押し付けた負担のツケをいつか払う。ユートとともに過ごす思い出より、ユートを騙し数万円を手に入れようとした報いだ。


彼を放置してサークルの他のメンバーが被害にあった後対処していたら、ユートもレンの同類に思われたり、金銭トラブルが発生してサークルの運営自体が危ぶまれていたかもしれない。


そう思えば、このタイミングで処理できて良かった。だが、半年前に勇気を出してハルキさんの家に小説を渡しに行っていたら、この半年間彼に悩まされることはなかっただろう。


やはり、嫌なことは放置せず早めに対処するに限る。夏休みの宿題を8月末まで放置していたら地獄を見るのと同じだ。


人は必ず失敗する。そして失敗を糧に成長する。俺は予知能力を持っているわけじゃ無い。だからトラブルをあらかじめ回避することはできない。


今回の一件のように何かトラブルがあっても、その度にみんなの力を借りながら乗り越えていけば良い。


失敗を避けると、人生自体が失敗する。

今回の一件でまた一つ成長できたはずだ。


ふと、携帯が震えた。画面には友人からのメッセージが表示されていた。


「昨日のバレー、良かったよ!次も参加するね!」


ユートはメッセージを読み、無意識に笑顔を浮かべた。こうして支えてくれる仲間がいることが、どれほど自分にとって大きな意味を持つか、改めて感じた。


ユートは深呼吸をして、立ち上がった。夕暮れの空を見上げ、心の中で静かに誓った。


「人生は、失敗して学びながら進むものだ。どんなことがあっても、俺は前を向いて歩き続ける。」


そして、彼は足元を見つめながら、一歩を踏み出す。道は続いている。


Fin.


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