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我傍に立つ【諸葛孔明 自伝風】  作者: 吉野圭
第五章 高楼心譚
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(一)紅顔の劉琦

 先生、先生と声がするので、周りを見回すと木陰から白い顔が覗いた。

英珠えんしゅどの」〔※61〕

「先生、お話が」

 頬を紅く染めてこちらを真摯に見つめる顔はまだ少年のようだった。

 劉表りゅうひょうの長男、劉琦りゅうき――あざな英珠えんしゅ〔※62〕――はこの頃、確か二十歳になったばかり。彼は何故か私を“先生”と呼んでいた。

 主人に伴われて私が襄陽城じょうようじょうを訪れるたび、英珠は“先生”を追いかけ回すのだった。

「“先生”などではありません。私は雑用係の身ですよ」

 事実を述べても無駄だった。英珠の純粋な瞳は輝きを増すだけだ。

「でもご高名はかねがね、耳にしております。どうか少しだけ私の話を聞いていただけませんか」

「いいえ。滅相もない。勘弁してください」

 頭を下げ、そそくさと立ち去った。

 何を勘違いされているのだか。

 有名な主人のもとへ出仕してから思ってもいなかった形で噂されている。“あの人は優秀だ”、“あの人に相談すれば何でも解決する”と宣伝している人々がいるらしい。英珠はそんな噂を耳に入れ信じてしまったようだ。

 勘弁してくれ、心から思う。

 私は頭痛を覚えながら、狭い城内でのこの噂が早く収束し英珠が自分を忘れてくれることを祈った。


 英珠の相談事が何かは分かっている。城を賑わせている噂、劉表のお家騒動の件だろう。

 荊州を治めていた劉表には二人の子息がいた。長男の琦と次男のそうだ。

 長男の琦は温厚な性格で聡明、容姿も優れていたため少年時代は父親に気に入られていた。後継は当然に琦だと思われていた。

 ところがこれに不満を覚えたのは次男・琮の姻族たちだった。特に琮の妻の伯母で、劉表の後妻となった蔡夫人さいふじんが琮を跡継ぎにするため策を巡らせていた。彼女の弟で荊州の重鎮だった蔡瑁さいぼうもこの策略に加担した。

 蔡夫人は夜な夜な夫へ琦の悪評を吹き込み、蔡瑁は琮の善行を過大に膨らませて君主へ報告した。時に善悪反転で事実を歪め、琮の悪行を無かったことにするいっぽうで架空の善行を創作して報告することもあった。

 強欲な者が嘘八百をばらまくのは古来共通だが、悲しむべきはいつの時代でも当事者ほど騙されやすいことだ。

 蔡氏一族が私欲のために事実と反対の嘘をばらまいていることは荊州住民の誰もが察していたことだった。それなのに肝心の父親は気付かなかった。嘘八百を真に受けた劉表はしだいに“英珠は底意地が悪い出来損ないの子”だと考えるようになり、琦を遠ざけ始めた。

 この暗愚さこそ私が劉表を信頼できなかった最大の理由と言える。地域の命運を定める主権者は嘘に惑わされてはならない。そのためには嘘を見抜く勘が必要だが、勘が鈍くても自分の目と耳を使って事実を探る誠実さが身を助けるだろう。だが劉表は多くの愚鈍な主権者たちと同じく事実を見ようとしなかった。荊州を乱世から守った劉表も耄碌もうろくしてしまった。

 曹操侵略の危機が近付いているというのに、当主が讒言ざんげんに振り回されるようでは荊州の先行きも目に見えていた。


 先日、英珠の食事に毒が入っていた。危ういところで英珠はそれを食せずに済んだ。犯人は誰の目にも明らかだ。しかし堂々とその名を口にする者はいない。 劉表に告げたところで事態は解決しないだろう。逆に愛する妻へ濡れ衣を着せたとして、英珠の立場がさらに危うくなるかもしれない。

 何より気の毒なのは劉表が英珠を毛嫌いしていることだった。親に見捨てられた子ほど憐れなものはない。“出来損ない”と呼ばれ、害虫のように嫌われ、心を踏みにじられる。自分をこの世に生み出してくれた親による否定は、世界による否定。親から受ける冷たい視線、蔑む言葉は身体に対する暴力よりも深く子を傷付ける。

 いつもうつむき肩を丸めて歩き、おどおどとした目で周囲を見ている。それでも健気に、弱い笑顔を浮かべて皆に優しさを振りまいている英珠。

 そんな彼を見ると身につまされる。父親へ憤りを感じる。

 しかし私にはどうすることも出来なかった。口出しをすることは禁物だ。

 蔡氏は私自身も姻族で繋がる縁者なのだが、他人同然の遠縁。他人が何か言ったところで火事を広げるだけのことだ。真っ先に身を焼かれるのは英珠だ。それだけでは済まずきっとこちらまで大やけどを負うだろう。

 自分一人ならまだ良い。だが当然、主人にも迷惑をかけてしまう。主人へ迷惑をかけることは絶対に避けなければならない。

 だから私は逃げたのだった。

 後ろめたさを感じながらも、すがる瞳を振り切って英珠から逃げた。逃げ回った。


「先生」

 にっこりと、屈託のない笑みに出会って私はぎょっと足を止めた。

 迂闊だった。

 考え事をしながら歩いていたら庭の奥へ踏み込んでしまった。それで避けていたはずの人物に正面から出くわしてしまったのだった。

 意外にも英珠は満面の笑みだ。白い顔がやんわりほころんでいる。

 ああ、なぜこんなに嬉しそうなんだ。

 くらりと来る。あまりの手放しの笑顔に眩暈を覚えた。

 私はずっと彼を避けてきたのだから、不愉快になり腹を立てるのが当然だろう。それなのに欠片も恨みを見せない瞳は、旧知の友と再会したかのような喜びを放っている。

 ……勘弁、してくれ。

 こんな瞳に私が弱いと君は知っているのか。

 離れても邪険にしても、少しも懲りず疑わずまた向かって来る。こちらは高い壁を作って備えているのに、やすやすと越えてしまう。

 自分でも分かっていた。降参は間近だ。

「こんなところでお会いするなんて、奇遇ですね。先生」

 いかにも偶然会ったかのように驚いた顔で言う。それから彼は空を仰いで心地良さげに呼吸した。

「今日は良い天気。このような日にお会い出来て、嬉しいです。――そうだ、先生、いかがです? この素晴らしい空の下で、ひとつお酒でも。私にご馳走させてくださいませんか?」


〔お知らせ〕この章『高楼心譚』はかつて短編として書いた小説を本作に合わせて改稿したものです。原作短編には中国語版(繁体訳)があります。https://ksnovel-labo.com/blog-entry-1810.html

(章タイトル『高楼心譚』も翻訳者のブタノハナさんによる)


注釈


※61 目上である領主劉表の公子を字で呼ぶのはおかしいが、創作上で親密さを表すため字呼びとし、せめて日本風に「どの」と敬称を付けた。字の文では敬称略。


※62 劉綺の字は記録にない。「英珠」はこの小説内での架空名。



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