(五)翻した反旗、英雄の座へ駆け上る
曹操誅殺計画は最悪の結末を迎えた。
董承が隠し持っていた献帝の帯が見つかり、密勅が発覚したのだ。
激怒した曹操は建安五年(西暦二〇〇年)、正月から誅殺計画に関わった者を残らず捕え、残虐な拷問で苦しめた末に殺した。
彼らの妻、子、孫、親族一同も当然に皆殺しとなり家ごと滅ぼされた。
董承の娘は献帝の妃(側室)で、ちょうど献帝の子を身ごもっていた。しかし曹操は容赦せずに献帝の子ごと死刑に処した。献帝の涙ながらの命乞いも虚しく。
この時どさくさに紛れ、誅殺計画とは無関係だったが殺された廷臣たちも多くいた。つまり曹操は献帝から抵抗する手足を奪うために、誅殺計画にかこつけ忠臣たちを一掃したのだった。
いったいどれだけの人が殺されのか。
さらし首を置く棚は許の街道に長く連なったという。
宮廷も街道も死臭で満ち満ちて、さながら地獄の都の様相を呈した。
蛆の這いまわる宮廷で曹操は高座を占め、さぞご満悦だったことだろう。
この後世まで語り継がれる建安五年の大粛清にて、曹操は完全に漢王朝の実権を掌握し、皇帝の心身を支配したのだ。〔※48〕
大粛清の知らせを主人の劉備は徐州の下邳で聞いた。
他でもない、主人は曹操自身の出陣命令によって助かったのであった。
これは私の想像だが、曹操は誅殺計画に“劉備”の名を見てもまだ信じていただろう。「劉備が自分を裏切るはずがない。劉備は自分のもとへ帰って来る」と。それだけ主人を甘く見ていたはずだ。
しかし主人は躊躇なく曹操へ反旗を翻した。主人らしく義憤に身を任せて。
実は主人は粛清事件の前に曹操へ反旗を翻す準備を始めていた。前年の夏に袁術が病死し、戦闘の相手がなくなったため副将の朱霊たちは許へ引き上げた。その時を待って主人は徐州刺史の車冑を攻撃して勝利し、徐州を取り戻した。
それから下邳を将軍の関羽に任せて昔の本拠であった小沛へ戻り、曹操への反意を高らかに宣言した。
“劉皇叔が逆賊・曹操征伐の旗を掲げた!”
この知らせは漢土を巡り民を熱狂させた。
それまで徐州牧としての評判は高かったが、目立つ将ではなかった“劉備”は、ここから一気に英雄の座へ駆け上ったのである。
民は殺戮の蛮行にふける曹操を秦の嬴政(始皇帝)に重ね、再び秦のような暗黒時代が訪れるのではないかと恐怖していた。そこへ颯爽と登場し独裁者へ立ち向かったのが主人だった。しかも彼は劉姓を持つ皇族の末裔なのだ。その人が義憤をあらわにして独裁者を倒そうとしている。
民の目には彼が漢の高祖の再来に見えていたに違いない。
知識人たちは冷静に「弱小の劉備が、朝廷権力を牛耳った曹操に勝てるわけがない」と見ていた。だが力量の差もかえりみず、義憤だけで独裁者へ立ち向かった心意気を称えない者はいなかった。
当時二十歳だった私もあの熱狂を覚えている。襄陽では酒屋でも路地でも“劉備”について語る熱い声が聴こえた。
主人へ期待したのは一般の民だけではなかった。東海郡太守の昌覇を始め、各地の郡主が次々と劉備陣営につき曹操征伐の旗を掲げた。
さらに曹操へ対抗し得る大勢力だった袁紹も主人と手を結んだ。
曹操包囲網は着実に築かれていくようだった。さながら高祖の率いた諸侯連合軍のようだ、と人々は語り合った。
だが主人の陣営はまだ力が足りなかった。
また、主人が頼った袁紹はあまりにも人望がなさ過ぎた。
劉備が反旗を翻したとの報告を受けた際、曹操は激しい怒りを爆発させた。
「目をかけてやったのに裏切るとは! 殺してやる!」
曹操が地団太を踏み目を血走らせて呪いの言葉を吐いた様が想像できる。
誰でも自分が心や物を与えた分だけ、拒絶されたときの怒りと悲しみが大きくなるもの。まして曹操のように幼児性が強い人格ならばなおさらだろう。
曹操はこの時、袁紹と官渡で対峙していた。袁紹との闘いで不利な展開となっており、常識ある将なら私情で軍を動かすことはできない局面だった。このため曹操が劉備を殺すために軍を動かすことはないだろうと見られていた。
ところが曹操は激情にかられるまま主人を追った。徐州住民を虐殺した時と同じである。私的な感情や思いつきで軍を動かす者は、非常識ゆえに「まさか」の穴を突く。
許で大粛清を済ませるやいなや、曹操は自ら出陣し大軍をもって劉備軍の本拠を叩いた。まさか曹操が袁紹との闘いを放置して自ら追って来るとは考えていなかった主人は虚を突かれ、大軍の攻撃を受けてひとたまりもなかった。
下邳はあっという間に攻め落とされ、主人の妻子は囚われて人質となった。将軍の関羽も捕虜として連れ去られた。
劉備陣営は散り散りとなり、主人も袁紹のもとへ逃げ落ちた。しかし袁紹軍も大将の人望のなさで統制を失い、旗色が悪くなっていた。やがて袁紹を見限って裏切る者が続出し、袁紹軍は曹操軍に大敗することになった。
袁紹が病で死ぬと息子たちは後継争いで対立。骨肉の争いで消耗したところを曹操に付け込まれ、“屠城”(城の住民ごと大虐殺すること)を受けて袁家とその本拠は滅ぼされた。〔※49〕
こうして曹操に対抗する勢力は滅んだように思われた。
民は絶望し、しばらく“劉皇叔”への声援も止んだ。
官渡で袁家が敗北し滅亡へ向かっていた頃、主人は荊州牧の劉表のもとへ駆け込み匿われていた。
こうして荊州で主人は疲れた体を休めることとなった。
散り散りとなった兵士たちも戻り、曹操に囚われていた妻子と関羽も帰った。
曹操はしつこく劉備征伐軍を差し向けてきたが、ほぼ全て主人は撃破し追い返した。特に博望での戦闘は見事で、自陣に火を放ち退却したと見せかけて伏兵で襲い、夏侯惇の軍を大破させた。〔※50〕
敗北によって一時は衰えていた劉備陣営の人気も、博望での勝利から少しずつ蘇り始めた。民は主人へ見た希望を忘れてはいなかったのだった。
たとえ羽をもぎとられても鳳凰の輝きは消えないのである。人々は“劉備”の名を唯一の望みとして生きた。そしていつか再び彼が力を取り戻す日を待った。
――以上が、私が出会うまでの主人の半生である。
この後は私の経験とともに彼の人生を語ることにしたい。けれどもその前に、私自身が記憶している主人の面影について少しだけ話しておきたいと思う。
主人の容姿を思い浮かべた時、まず最初に感じることは“普通”ということだ〔※51〕。体格は痩せてもいなかったし太ってもいなかった。身長も特別に高くもなく低くもなかった。顔はどちらかというと童顔に近く、美形でも醜いわけでもなかった。(いや若い頃は男女ともから好かれたのだから、もしかしたら世間の基準では好まれる容姿だったのかもしれない。だが私は人の美醜に関心がないためよく分からなかった)
主人はその完璧な“普通らしさ”が普通ではない所だった。彼ほど普通らしい人は滅多にいないのでかえって目立っていた。そんな彼の特徴は目であった。よく動く、はっきりとした二重の目は、いくつになっても年を取らず若々しく輝いていた。五十歳になっても六十歳になっても瞳だけは若者のままで、それが多くの人々に親しみと好感を抱かせた。
そして全体に主人の動作や仕草はとても均整が取れていた。決して急いでいるようには見えないのに、のんびりしているわけでもなく全てが無駄のない動きのように思えた。これは彼の生まれ持っての運動能力の高さを表わしていた。
また主人は貧しい生い立ちのせいか、素朴な印象で想起されることが多い。しかし現実の彼はどちらかと言えば都会的な雰囲気のある人だった。あれこれと服装にこだわるわけではなかったのだが、さりげなく気を遣うことのできる人で垢抜けていた。そのせいか彼はどんな着物でもさらりと着こなしてしまった。たとえば襤褸を着てもさまになっていたし、派手な着物を着ても似合った。
晩年は赤地に金糸の錦など派手な衣服を纏うことになったが、華美に飾り立てても少しも嫌味がなく、逆に着物の方が彼の爽やかさを引き立たせるものに変わってしまうのだった。我々はそんな彼の趣味の良さを心から尊敬していたし、また「どうしたらあれほど派手な着物を、嫌味なく着こなせるものだろう」と首を傾げてもいた。
私的な場では明るく爽やかで淡泊な人であった。本人はどちらかというと落ち着いた人間に見られたがっていたが、それは無理な相談というものだった。何故なら彼がどれほど無口に振る舞っても、その明るい個性は決して隠し通せるものではなかったからである。黙り込んでいても内面の明るさが伝わってきたのだから、彼が“影のある男”を演じるのは不可能だったのだ。そのような彼の明るさは黄金の輝きを思わせるものがあった。どれほど窮地に追い詰められた時でも内面から輝きを発していて、それが周囲の人を巻き込み、引き立て輝かせていたのである。
そしてそんな彼の忘れてはならない最大の特徴と言えば、信じられないほどの気さくさだった。どのような身分の人でも、自分と対等であるとして分け隔てなく接したのだ。もっとも主人に謁見する人々はそのような気さくさに驚き恐縮したものだったが。
見た目に若々しかったため軽く見られることの多かった主人だが、それでも人々を心服させる不思議な力があった。少し敏感な人であれば彼の前に出ると畏れを感じ、頭を低くせずにはいられない。そして知らず知らずのうちに、心から尊敬してしまうのである。たとえば始め“軽い”人だと思い気楽に接していると、突然鋭く刺すような言葉を投げかけてくる。そんな時はまるで冷たい水を浴びたように、ひやり、とさせられる。このためいったいどちらが彼の本当の姿なのかわからずに、混乱してしまうのだ。だが言ってみればこの二面性が、彼の魅力でもあった。彼は二つの顔を絶妙に使い分けることで、多くの人を魅了し虜にしたのだ。
道義に関して主人は徹底して厳格で、時に苛烈な行いをすることがあった。
義憤にかられると立場も後先も、相手との力量の差も関係なく行動に出てしまう。
たとえば若かりし頃に役人を鞭打ちにして印綬を投げ棄てたことも、曹操に反旗を翻したことも全て彼の性格の現れだ。
“主人の性格があの時代を創った”と冒頭に私が述べたのはこの意味である。
主人が心に従って生きる人でなければ曹操に立ち向かうこともなく、あの時代が語り継がれることもなかったはずだ。
生来、嘘をつくことが苦手な人だったのだろう。主人はいつでも本心のまま発言し行動した。だから主人の遺した言葉や行動に嘘はない。彼はただ何時も、「思った通りのことを言った・行動した」だけなのだ。
しばしば彼の本心のために我々家臣は翻弄させられた。だがその一貫した“心に従う”態度こそ、主人の最大の魅力だった。自分の命が危険にさらされようと、家臣に苦労を負わせようと、天道を映した心のままに生きる姿に感動を覚えずにいられなかった。
人によっては主人の本音が冷酷に感じられることもあっただろう。普段が温厚な人であったからこそ、冷酷さに触れた時には彼を二重人格のように感じて失望する人もいた。
しかしその温厚さとは矛盾するように思える冷酷も、私には矛盾するようには思えなかった。何故ならその冷酷は、彼の人間への慈しみから来ていると感じられたからだ。彼が冷酷になる瞬間を私も何度も目にしたが、それは必ず相手が本当に人間として最低の行為を行った時だけであった。つまり人として絶対にやってはいけないことをした時、彼はその者に冷酷な振る舞いをしたのである。私にはその主人の行動が間違っているとは思えなかったし失望する理由にもならなかったのだった。
多くの人を率いる立場にいる人は必ず信念を持たねばならない。そして自らに課したその信念を、どこまでも貫き通さねばならない。それがたとえ一般的な常識からはずれているように感じられても、天道に反していないのなら、どこまでも冷徹に実行するべきなのである。
ただしそれはあくまでも他者を想っての行動であることが重要だ。曹操のように自分勝手な欲望を満たすため何をやってもいいということは、絶対にありえない。
そして私の君主は、まさに他者を想っての行動ができる人であったのだ。彼は人間に対する慈しみを持っていたからこそ、自らの信念を徹底して貫くことができたのである。
もちろん彼は決して完璧な人間とは言えなかった、と言うよりもむしろ、欠点だらけであった。けれどそれでも私にとっては、あの人こそがたった一人の君主なのである。
私はどこまでも主人を尊敬してやまない。そして主人を慕う気持ちは、このまま永遠に続いていく。
※48 この建安五年の大粛清は近年「『演義』のフィクション」であるかのように印象操作されており、曹操の人物紹介や三国志年表からも故意にカットされている。しかしこれは正史本文に記録されている実話。
※49 以上、劉備が曹操へ反旗を翻した~袁家滅亡までの顛末は正史『先主伝』本文の通り。
※50 正史『先主伝』本文より。博望の戦いは『演義』系フィクションで孔明の華々しいデビュー戦として描かれているが、実際は孔明の出仕前の戦闘。実戦を積んだ劉備らしい伏兵を使った見事な勝利だった。
※51 劉備の容姿についての正史記録「耳が大きく・手が長い」は事実そのままの描写ではなく喩えと思われる。「耳が大きい=人の相談をよく聴く、寛容である」「手が長い=人助けのためにどこまでも手を伸ばす」という意味だろう。