(二)黄巾討伐に起ち、乱世へ漕ぎ出す
今回の話は特に残酷な表現がありますので苦手な方は注意してください。正しい史実をお伝えするため残酷な事件に関しても史書の通り描きました。
冀州の豪商から出資を得て、若き主人は黄巾賊討伐の旗を掲げた。義勇兵を募った主人のもとには彼を慕っていた地元の若者が集結した。
このとき主人に従った義勇兵の中には我が陣営の誇る将軍、関雲長(関羽)と張益徳(張飛)もいた〔※28〕。張将軍は主人と同郷で年若い頃から主人の後ろをついて歩いていた少年、関将軍は流浪の人であったが涿郡で主人と出会い人格に惚れ込み従ったという。二人は主人を義理の兄と仰ぎ、片時も離れることなく付き従って犬馬の労をいとわなかったと聞く。〔※29〕
他にも大勢の弟分が主人へ生涯の忠誠を誓った。彼らはこの時から死ぬまで主人の義弟たちであり続けたのだ。
黄巾賊討伐で世に出た劉備軍の活躍は目覚ましいものがあった。
校尉の鄒靖に従軍した主人たちは数多くの戦闘で黄巾賊を撃破し、その功績により安喜県の尉(警察署長)に取り立てられた。
しかし直後に督郵(査察官)が見回りに来て、主人へ賄賂を要求した。当然に断ったところ主人を貶める虚偽の報告を朝廷に上げられ、地位を剥奪しようと謀られたという。この件について督郵に説明を求めたが会見を拒まれたので、怒った主人たちは宿舎に押し入り督郵を縛り上げて鞭で叩き、印綬を彼の首にかけて去った。〔※30〕
こうしてせっかくの官位を棄てることになったが本人たちは意に介さなかった。賄賂などで汚れた位を持つよりも流浪し闘い続けるほうが良いというのが劉備軍の信条だった。
その後も主人は黄巾賊討伐の功績を上げて下蜜県の丞(副知事)となったが、同様のことがあり官位を棄てて去った。
世間では張将軍など家臣たちが怒って暴走したことになっている。だが実際は主人が率先して行ったのである。このように主人は若い頃から義に反する行いを見ると熱くなりやすく、すぐさま「弱きを助け強きをくじく」の行動に走る性格を持っていた。だからこそ多くの人は主人の行いに感動し、“劉備”の旗に熱狂したのだ。
ここはあえて身近で彼を見続けた私から言わせていただこう。人々を魅了した主人の熱き性情は最大の長所であり、短所でもあった。怒りにまかせて状況にひるむこともなく強者へ立ち向かう性格こそが、彼を華夏の英雄の座へ昇らせるとともに、度々危機へ陥らせることにもなったのだった。
後に主人が独り曹操へ抗うことになったのもこの性格による。“劉備”を主役として語り継がれるこの時代の物語は全て、主人の性格から生み出されたことになる。
忠平六年(西暦一八九年)、霊帝が崩御(死去)した。
この時から俄かに都は乱れ、朝廷は権力を求める数多の獣によって蹂躙されていく。
後継争いの末に少帝(劉弁)が即位。外戚となった何進は袁紹と組み、十常侍ら宦官を抹殺する計画を企てたが逆に殺されてしまった。怒った袁紹は宦官一掃を叫んで宮中に乗り込み、宦官らしく見える男を誰彼構わず皆殺しにした。
惨劇の騒ぎに乗じて洛陽入りし、実権を握ったのが董卓だった。董卓はもともと袁紹と何進が十常侍を討つために呼び寄せた人物であった。袁紹らは人の皮を被った野獣を招いたことになる。
董卓は都入りするとすぐ少帝を廃して献帝〔※31〕を立て、傀儡とした。そして自らの欲望を満たすため皇帝の権力をほしいままに利用した。
董卓の専横は諸侯の怒りを買った。東郡太守だった橋瑁は公文書を偽造して檄文を発し、各地の諸侯がこれに呼応して董卓討伐のため決起した。〔※32〕
討伐軍を恐れた董卓は洛陽を焼いて逃げ、都は無理やり長安へ遷都された。しかし討伐軍の盟主となった袁紹が諸侯をまとめることができず、董卓討伐に集った諸侯は間もなく離散してしまう。
結局、董卓を殺したのは王允と組んだ呂布で〔※33〕、董卓の残党によって都は奪われ再び蹂躙された。
李傕や郭汜といった董卓の元家臣たちは主と同じく献帝を傀儡とし、ろくに政治もせずに酒色にふけり、民を飢えさせて都を荒れるに任せた。あげく二人で権力争いを始め、献帝を拉致して奪い合った。連れ回された献帝は仁政を敷く暇もなくお命を脅かされるばかりだった。
これら度重なる蹂躙によって漢王室は統治の力を失い、各地は放置され諸侯の統治に委ねられた。
やがて諸侯たちは勝手に領土を奪い合う戦争を始めた。誰もが天下一の権力を得る野望にとり憑かれたのだった。こうして漢土は群雄割拠の乱世へ突入していく。
戦乱の時世に頭角を現したのは曹操だった。始め群雄のなかでも圧倒で優勢と思われていた袁紹も次第に曹操を脅威と見るようになっていった。
曹操は決して戦上手ではなかったが奸計(ずるい悪だくみ)に長け、残虐な「屠城」と呼ばれる殲滅戦を行った。このために対戦相手を震え上がらせ戦意を喪失させ、勝ち進むことができた。
屠城とはすなわち「城(日本の街に相当する地域一帯)ごと屠殺する」という意味の言葉だ〔※34〕。既に降伏した捕虜の兵士はもちろん、武器を持たない一般住民も全て虐殺する蛮行を表す。たとえば古代、秦の嬴政が侵略した国で行った住民を対象とした大虐殺などが屠城に当たる。
そのように戦闘以上の殺戮、特に武器を持たない住民の殲滅を目的とした蛮行はいつの時代でも大いに非難されるものだ。嬴政しかり、項羽しかり、捕虜や住民の虐殺を行った者は同時代の人々から憎まれ史書にも不名誉な評価を刻んでいる。
しかし曹操は非難を全く無視して堂々と屠城を行ったために漢土の人々を驚かせた。
曹操が行った残虐行為のなかで最も衝撃をもって語られた凄惨な事件が、私の故郷である徐州を襲った曹操軍の二度にわたる住民虐殺だった。曹操は自分の父親が徐州の地で殺害されたことを恨み、またはそれを口実として徐州を奪うために軍を送り「屠城」を行った。
徐州では降伏した兵士は当然に生き埋めとされた。住民は男も女も、子供や赤子も区別なく斬殺された。妊婦の腹も引き裂かれ胎児は地に叩きつけられ絶命した。曹操が「動く者は全て無条件に斬って殺せ」という命令を降していたため、犬や家畜までご丁寧に殺されてしまった。遺骸を放り込んだ河は赤く染まって流れが滞った。まるで地獄の話のようだが、私はその地を歩いて見たのだから現実に地上で起きたことだと言える。〔※35〕
曹操は呂布と戦闘して勝利した際にもこの屠城を行っている。後に袁紹と戦った際も屠城を繰り返した。さらに袁紹の城では、女性たちは貴婦人から農婦に至るまで多くが犯されてから殺されたという。
当時の人々で曹操の残虐性を知らない者はなく、大人も子供も皆、「曹操の通った後はどこもかしこも死屍累々」と噂し合った。
必要もないのに多大な労力をはらって無辜の民を虐殺する理屈は、いったいどういったものであったか。曹操は殺戮そのものを趣味として愉しんでいるとしか思えなかった。通常の人間には理解できない悪趣味だが、一部の価値観を狂わせた人々の目にはその癖こそが「曹操様の偉大さ」として魅力的に映るらしい。曹操が死体を重ねれば重ねるほど彼を崇拝する狂気の信者もごく少数いたのだ。そのような者たちが配下に加えてもらおうとこぞって曹操のもとへ集まっていたが、彼らは火に招き寄せられる羽虫同様、やがて自分の崇拝する曹操によって冷遇され殺される運命にあった。
殺戮狂として恐れられていた曹操が、長安を脱出し流浪していた献帝を救い洛陽入りした知らせは全土へ衝撃を与えた。
それは興平三年(西暦一九六年)に当たる年のことだった。
間もなく曹操の手によって献帝は許へ移され、年号も建安と改められた。
曹操はあたかも自分が献帝の救世主であるかのように宣伝した。確かに曹操は当初、献帝を丁重に扱い宮廷を整えるよう努めた。このため始めの頃は曹操を称賛し歓迎する声さえ聞かれたほどだ。
曹操を頼った廷臣たちも、彼が董卓の残党らを圧倒する強い軍事力で献帝を庇護することを期待したものだろう。
しかし廷臣たちが迎え入れたのは董卓を遥かに上回る最凶の獣であったのだ。
毒をもって毒を制すつもりの浅はかな計略は、自らを殺す毒となって回り始める。
許が整い、廷臣たちの努力によって政治が落ち着きを取り戻すと、たちまち曹操は本性をあらわし廷臣の一斉粛清を始めたのである……。
この間、私の主人劉備は位なき流浪の身分から平原郡の相(知事)、徐州牧(総督)と着実に位階を得ていた。平原でも徐州でも仁政を敷き、戦乱に傷付いた民を慰め、荒れ果てた徐州さえも建て直したため住民から大変に慕われた。
残酷な民衆虐殺を行いながら救世主を名乗る“うさん臭い”曹操と、現実に仁をもって任地を統治し民を幸福にしている主人とは対照的に語られていた。
その対照的な両者が近付き、一時期とはいえ主人が曹操の援助を得ることになろうとは。数奇な運命であった。
〔メッセージ〕
今回は史書に基づき『三国志』の前半を猛スピードでご紹介しました。簡略な表現としましたので初心者の方には難しいかもしれません。
もう少し詳しく、物語として劉備の人生を知りたい方は横山光輝氏のマンガ『三国志』などを読むことをお奨めします。横山光輝氏の『三国志』はフィクションである『演義』をベースとしており、デフォルメはありますが概ね史実に近い流れを理解することができるはずです。
ただし横山作品を含めて、日本の三国志創作では曹操の史実についてはほとんど描かれていませんのでご注意を。曹操の史実を知りたい方は当小説の解説をお読みください。https://ncode.syosetu.com/n6927ih/1/
注釈
※28 正史によれば張飛は劉備と同郷の涿群出身で、字を「益徳」といった。フィクションでは張飛の字は「翼徳」へ変えられていることが多い。また関羽の字は始め「長生」といい、後に「雲長」と改名した。
※29 フィクションの『三国演義』では劉備・関羽・張飛の三人が桃園結義(桃園の誓い)で義兄弟の契りを立てた設定になっている。これは脚色だが、「関羽・張飛が劉備を義兄と仰ぎ片時も離れることなく付き従い、犬馬の労をいとわなかった」とは史書の通り。桃園結義はフィクションとは言っても史実を正しく解釈してのデフォルメであった。
※30 史書通り。『演義』など一般のフィクションでは張飛が暴走したことになっているが、史書ではそのような記録はなく「劉備が(行った)」と書かれている。事実、劉備は義に反する行いを目の当たりにすると怒りで熱くなりやすい性格だった。(ただし劉備は義に反する行いに怒ったのであり、自分の我がままのために怒ることがなかったのは曹操との大きな違いだろう)
※31 明確に表現していないがこの小説は“諸葛亮が死後、自身の人生を振り返っている”設定(視点が未来)。したがって過去の時代説明に当たるこの章では献帝を「今上」と呼ばないことにした。
※32 『演義』フィクションでは曹操が檄文を発し、董卓討伐軍を招集したことになっている。このフィクションを根拠に「曹操は独裁者・董卓を成敗しようとした正義の人」と触れ回る者が多いがもちろん真っ赤な嘘。
※33 フィクションでは王允の養女だった貂蝉がその美しさで呂布・董卓を惑わせ、争わせて呂布の董卓暗殺計略を達成したとされている。史実では呂布が董卓の愛人に手を出したことで不仲となり、王允と結託して董卓を暗殺した。貂蝉はフィクション人物だが史実を膨らませた設定と言えるだろう。
※34 史書では曹操の戦闘における虐殺行為を「屠城」と呼んでいる。この史書の記述を削除することができないために、曹操を称揚するイデオロギーを持つ者たちが「屠城」の意味そのものをすり変え「残虐な行いを指す言葉ではなかった」と主張している。このような言葉の定義すり替えで事実を反転して見せることはナチスやソヴィエト、中国共産党等が用いたのと同じ歴史改変の手法。
※35 ここに記した曹操の残虐行為は全て史書の記述通り。日本の三国志創作、学者による三国志解説書、Wikipediaからは徹底的に省かれホワイトウォッシングされている事実。詳しくは史書を解読するか当小説の解説をご参照のこと。




