敵国の将軍グエン
化野の山は媛之国の東にある。
道中の人々に戦は南の益荒国との間に起こったのだと聞いて、南を目指した。
南下するごとに土地は荒れ、民草から生気が消えていく。ただ通り過ぎていくことしかできなくて、胸が痛んだ。
「遊真がこの国のことを限界だと言っていた理由がよく分かる。三年前はまだ、これほどの過酷さはなかったのに」
そんな村々を通り過ぎ、歩きつめること二日。
私は戦場になった明火平野で、無惨な戦禍の名残を目にした。
燃えて黒ずむ地肌に、あちこちに振りまかれた赤黒い血の跡。
折れた剣や弦の切れた弓が散乱して、生ぬるい風が袂をひるがえしていく。
灰色の雲が晴れずに薄暗いその平野は、どれほど見渡しても人の子一人もいない。
血の跡を見かけるたび、血の海から天魔が生まれないように、神力で浄化した。
それでも全盛期のような神力もなければ、神器もない私では、平野一帯をまるごと浄化するなんてことはできなくて。
吹き荒ぶ風が、私の耳に「帰りたい、帰りたい」と勇士たちの死に際の声を届けてくるものだから、私はとうとう歩みを止めてその場にうずくまった。
「これは、かなりきついや……」
姫神子たちは何をしているのだろう。
神力で土地を浄化するのも、務めの一つなのに。
嘆いたってこの状況が良くなるわけじゃない。
私は指を組んで、祈るように神力を解放した。
届く範囲にだけでも、浄化を。
じわじわと黄金色の神力を伸ばして、土地の穢れを浄化していく。
だけど。
「グルルル―――」
獣よりも、腹の底へと響くおぞましい唸り声。
はっとして振り向けば、そこには黒い靄で覆われた、人間のなり損ないのような不気味なものがいる。
「天魔……! 私の神力につられて来た……!?」
私は立ち上がる。
くらりと目眩がした。
さっきの浄化で神力を使いすぎているせいなのは分かってる。
「だけど、天魔をどうにかしないと……!」
天魔に向き合った時、馬のいななきも聞こえた。
(こんなときに、人まで!?)
思わず馬のいななきのする方を見る。
ドシュッ、と。
天魔に弓が刺さった。
「長弓……遊真!?」
振り返った視線の先にいたのは。
「おいそこの! 逃げろ!」
……違った。
馬に乗っているのは、赤い髪の偉丈夫だった。大太刀を構え、益荒国らしい猛々しい鎧を身に着けている。
(あぁ、どうしよう。最悪だ。)
よりによって敵国の人間だなんて。
しかも目の前にいるのは天魔。
普通の武器では倒せない。
かといって、敵国の人間の前で神力を使うのは自殺行為。
「怪我でもしているのか!? ちょっと待っていろ、すぐそっちに」
天魔が唸る。
もしゃもしゃと突き刺さった矢を胎内に取り込んで、馬の方へと向き直る。
「いけない! 来ないで!」
「お前こそ逃げろ!」
「私は大丈夫だから逃げて!」
私はなりふり構わず、神力を解放した。
(神器もない、尽きかけの私の神力では、ギリギリかもしれないけれど……!)
私の指先から、蝶のような光が飛び立つ。
淡く黄金に輝くそれは、天魔に触れると黒い靄をじゅわりと溶かしていく。
苦しむ天魔の断末魔が響く。
でも、私が限界まで神力を天魔に飛ばしてやっても、天魔を消滅させることはできなかった。天魔はどこかへ逃げていく。
同時、目の前が暗くなった。
(だめだ、倒れる―――)
頭から地面に崩れ落ちる前に、誰かが私を受け止めてくれた。
たくましい腕。
あぁ、この腕は。
「ゆーま……」
誰かが私の体を抱きしめた。
◇
ぱちっと目を開ける。
知らない天井。
驚いて起き上がればくらりとめまいがして、茵に逆戻りしてしまった。
「不覚……ここ、どこ?」
くらくらする頭でなんとか周りを見渡す。
「石……違う、土の壁でできた部屋……?」
天井近くに明かり取りの穴が空いている。窓じゃなくて、穴。
私がいる場所は床から一段高くなっていて、そこに寝具が敷かれているみたい。
じっと観察していれば、そのうち視界も定まって起き上がれるようになる。
起き上がってみれば、水干と下衣は脱がされて、梔子の単だけの姿でぎょっとした。
慌てて周囲を見渡しても、戦装束は見当たらない。
「どこにやったの、私の衣!」
どこにいるかも知らない犯人を恨んでいれば、なんの前触れもなく、土壁の部屋についていた木製の扉が開いた。
「おっ、起きたか。いきなりぶっ倒れるから死んだかと思ったぞ」
部屋に入ってきたのは、意識が落ちる前に見かけた赤髪の男。
気軽な口調で話しかけてくる男に、私は少しだけ緊張で体を強張らせる。
「助けてくれてありがとう。助かったわ」
「いや、むしろ助けられたのは俺の方だろ。和玉の姫さん」
……あぁ、どうしよう。
「人違いでは」
「とぼけなくていい。俺は三年前の戦でも戦場にいた。あの天魔を追い払った御業、忘れもしねぇよ」
「そう言われても、私、本当に和玉の姫神子じゃないの」
「嘘をつくならもう少しまともな嘘をつけ。そのなめくさったような戦装束、姫神子ぐらいしか着ねぇだろうが」
「そうだね。でも私、追放されたから」
「はぁ?」
赤髪の男は訝しげな声をあげる。
(媛之国の事情、知らないんだ。)
外つ国の人間からしてみれば、姫神子が代替わりしようと誰でもいいのかもしれない。
苦笑して、この話はここで終わり。
「それよりも、あなたは誰?」
「俺はグエンだ。あんたは」
「私はカヅキ」
「カヅキか。なんであんた、あんなところにいたんだ? しかも一人で」
「大事な人を探していたの。あの戦場にいたと聞いて」
「そうか。間が悪かったな。あそこにいた奴ら、特に媛之国の奴らは、死んだか、俺ら益荒国の捕虜だ」
覚悟はしていたけれど、実際に聞くと胸がきしむ。
私は唇を強く噛みしめて平静を保つと、グエンに尋ねた。
「捕虜の中に遊真はいる?」
「ユーマ?」
「片目で、黒い眼帯をしていた、黒髪の弓使い」
グエンは心当たりがあるのか、得心を得たかのような表情になる。
「そいつなら、殺した」
淡白な声。
たった四文字の音が、私の脳にこだまする。
ころした。
(遊真を、殺した?)
どこか他人事のようにその言葉を理解した。
だけど身体は頭ほどお利口ではなかったようで、無意識に立ち上がって、拳を振り上げていた。
でもその拳は、グエンに届く前に絡め取られてしまう。
グエンを睨みつけた。
「離して!」
「離すと暴れるだろう」
「遊真を殺した人の言うことなんて聞きたくない!」
「ふぅん……じゃあ俺も敵国の女の言うことなんざ、聞かなくてもいいな?」
グエンの雰囲気が変わる。
腕を力強く引かれて、寝床の上に突き飛ばされる。
身を起こそうとすればのっそりと影が差して、有無を言わせない強い力で押し倒された。
「自分の立場を分かってんのか? あんたは今、俺の監視下だ。他の捕虜共よりはマシな待遇だが、捕虜には変わりねぇ。―――今ここで慰み者にしてもいいんだぞ?」
これは脅しだ。
脅しだって分かってる。
だけど、意にそぐわない男に力で抑えこまれるというのは、予想以上に恐ろしいものだった。
体が震える。
だけど私は、屈したくなかった。
睨みつければ、グエンはまるで虎のように獰猛な笑みを浮かべ、私の顎を上向ける。
「誘ってんのか? 気の強い女は嫌いじゃねぇ」
グエンの顔が近づく。
目をそらせば負けだ。
体は屈しても、心は屈したくない。
私が心を捧げるのは、遊真だけ。
この世界で一番、可哀想で、強がりな、あの子にだけ。
鼻先が触れ、唇が奪われる……その寸前。
「グエン将軍! 偵察部隊より報告です! 媛之国にて天魔が発生! 明火平野、及びその周辺地帯に天魔の被害が出ております!」
扉の向こうから兵の声。
グエンが眉を寄せた。
「なんだと? 媛之国のやつらは何してやがる」
「東部の山域でも天魔が活性化しており、そちらにかかりきりのようです!」
「チッ、今すぐ兵を集めろ! 早駆けできる奴らは先行させておけ! 四半刻後には出る!」
「は!」
険しい顔をしたグエンが身を起こす。
それにつられて私も起き上がった。
「天魔が発生したって」
「らしいな」
「私も連れて行って」
「あぁ?」
聞く人を威圧するような低い声。
見上げると、グエンはひどく冷たい目をして私を見下ろしていた。
震えそうになるのをぐっとこらえて、主張する。
「天魔がいるなら私の力は役に立つ。衰えたとはいえ、天魔を追い払うことができる」
「いーや、連れて行かねぇ」
「どうして!」
「追い払うだけなら俺らで事足りる。あんたは連れて行かねぇ」
「連れていきなさいよ!」
「嫌だね。あんたの仕事はここで待つことだ。帰ってきたらせいぜい可愛がってやる。大人しく待っていたら俺の正室に迎えてやろう」
「な……っ!?」
思わず絶句すれば、グエンは喉の奥をくつくつと震わせて笑う。
「神力とは子にも受け継がれるんだろう? お前の萎えた力より、その子に期待したほうがいい」
「そんな未来のことより、目の前のことをどうにかするべきでしょう」
「殺妻求将は嫌われるんだぜ?」
耳慣れない言葉だけを残し、グエンは土壁の部屋を出ていってしまう。
「私にできることは、何もないの……?」
せめて遊真が守ろうとした人たちだけでも、私に守れる力があれば良かったのに。
無力な自分が、一番嫌いだ。